ラスト・ラブ・ソング


 ―赤ちゃんがお腹にいることが、こんなに幸せなことだなんて、知らなかった。

 典子は膨らみが目立ち始めた自分の腹部を撫ぜながら、想う。新しい命を育てている自分の幸せを。
大切に慈しんで育てたい。生まれてきたら、たくさん名前を呼んで―抱きしめて、愛してあげたい。たくさんのことを教えてあげたい。生まれてきてよかったと思えるように。幸せを感じられるように。


 子どもを身籠ってから、頻繁に「彼」の夢を見るようになった。秋也が明かしてくれた、自分を好きでいてくれたという彼の親友も、最後まで秋也と自分を守り死んでいった人も、時たま姿を現したけれど、そのうちにぷっつりと姿を消した。還るべきところに還ったのだろう。典子はそう解釈することにした。

 帰る場所がないのは「彼」だけ―?

 彼は寡黙で、滅多に喋らなかったけれど、典子の脇に腰をおろして、時たま、思いついたように会話を切り出した。典子が最初で最後に殺めた男の子―クラスメイトの桐山和雄は。

 「俺は時折しか夢を見ないんだが、幼いころから何度も繰り返し見た夢があるんだ」
 「どんな、夢?」
 「真っ暗な場所で、俺はそこでうずくまっている。そこは暖かくて、波の打ち寄せる音がして―なぜかよくはわからないが、落ち着けるような、気がしたんだ」

 桐山はこめかみのあたりに左手を当て、目を閉じた。そうして、再びその目を開けて典子を見詰めた。
 「なんだか、お母さんのお腹の中みたいね」
 「生まれる前のことは覚えていないから、よくわからないな」

 桐山はもう一度そっと睫を伏せた。
 表情の無い顔なのに、憂いを含んだように見える。
 「だがそう―人がもっとも安らぎを覚える場所は、母親の胎内なのかもしれない。帰るべき場所、全てを任せていられる場所だ。」

 桐山は腰を上げた。
 「母親、という存在には興味がある。俺には母親がいないから―死んだ、としか聞かされていないから」
 「母親が、子どもを愛すものだということは理解している。だが、俺の母親が俺を愛していたのかどうかはわからない。いないから、聞けない」
 「桐山くんのお母さんは、桐山くんのことを愛していたと想う。」

 弟が生まれるとき、典子の母親は長いこと入院した。もし、私が死んだらこの子をお願いね、弱気なことを言った母。その気持ちを汲むことはその時の典子にはできなかったけれど、今なら、わかる。

 「桐山くんを、ちゃんと産んでくれたんだもの。それって、とても大変なことだと思うの」

 桐山はちょっと瞬きをした後、目を細め「そうか」と言った。表情のない顔。けれど心なし納得したように見えるのは典子の思い違いだろうか。

 「―中川は、いずれ母親になるんだろう」
 「桐山くんは…」
 「…よく、わからない」


 そこで会話と夢とは途切れた。

 典子は自分が涙を流していたことに気がついた。おなかを撫でながら、目をこすった。溢れた涙はやがて止まった。夢だけの逢瀬は悲しかった。現実に引き戻されるたび、自分の犯した罪の重さに押しつぶされそうになった。

 あなたはお父さんになれなかった。子どものまま、あなたは死んだ。あたしが、あなたの未来を奪ったの。あなたが大人になるかもしれない未来を、奪ったの。
 怖くて仕方がなかった。
 あたしは、自分の幸せのために。
 大切な人を助けるために。あなたを殺した。
 あなたが生きる理由だとか、
 あなたを一生懸命産んでくれたお母さんのことも考えずに。

 あなたは最期に何を思ったの?
 誰のところに、帰りたいと思ったの?
 そこは寒くない?
 そこは寂しくない?

 あたしが追いやってしまった場所は、きっととても寒いところなのね。


 お腹の中で子どもが少し身じろいだ気がした。一人の少年の命を終わらせた自分が、また別の新しい命を産む。…そのことに最初は罪悪感を感じもした。しかし、日増しに大きくなるわが子の存在を思うと、典子は彼に想いを馳せながら考えた。


 あたしはあなたを覚えている。
 記憶に刻み付けて、そして―生きるの。
 あなたの代わりに、たくさんの人たちの代わりに得たこの命を無駄にしたりなんかしないわ。
 あたしは―生きるの。
 あたしは―生きたい。

 生まれ変わることは出来るかな。ううん、どうかお願い。生まれ変わってきて。

 そうして、あなたが辿り付ける場所が、暖かい場所でありますように。



 おわり


 2007年8月7日