「和雄様は、まるで人形のようですね」
いつか、使用人たちが話しているのを耳にしたことがある。
笑いもせず泣きもしないーただ父親の命令に従って、日々を過ごしていく。
命はあっても魂を失ってしまったような、そんな子供。
たとえそうであっても、自分には「ただそれだけ」のことであった。
そのように「生まれ落ちた」時から、ずっと。



を泣かせてください


ひどく息苦しかった。
眩暈がして、倒れこみそうになるのをどうにか堪えながら、桐山は家の門を閉めた。
使用人には適当に言い訳して出てきたのだが、夜までには帰らないと父からの叱責が待っているだろう。

昨日の訓練は、いつになく辛いものだった。
複数の刺客に襲われたときを想定しての訓練。しかも、一切抵抗してはならないとの条件つきだった。
相手は格闘に秀でたものばかりで、容赦なく攻撃してきた。
身体はあざだらけで、一夜明けた今もあちこちが痛んだ。
こんな日は学校に行くことは許されない。傷が癒えるまで家で療養を余儀なくされる。
担任には「桐山。お前、少し出席日数が足りないようだが、何か学校に来たくない理由でもあるのか」と尋ねられたけれど、
何も答えることはしなかった。特殊教育は、桐山家の中で秘密裏に行われていることだからだ。

学校に、来たくないわけではない。

桐山は商店街に出た。
時計に目をやる。時刻は午後三時を過ぎていた。そろそろ、城岩中の生徒たちは下校するころだ。
待ち合わせの時間まで、あと少し。

あらかじめ決めておいた約束の場所、公園の前に辿り着くと、桐山はふうっと息をついた。

「和雄ー!」
ほどなく、待っていた人の声が聞こえてきた。

「…
桐山は心持ち安堵したような声で、自分の彼女ーの名前を呼んだ。
桐山のもとに、は息を切らして駆けつけてきた。
「…大丈夫?」
「あぁ」
の問いに桐山が頷くと、は心配そうに桐山の顔を覗き込み、額に手を当てた。
「すっごい熱…早く家入って休もうね」

桐山は再び頷いて、だるい身体を、肩を貸してくれたに預けた。
この公園は、が住むマンションからすぐのところにあった。



「和雄、具合悪いときは無理して外出なくてもいいんだよ?」
桐山を自分のベットに寝かせ、彼の額に冷やしたタオルを置きながらは優しい声で言った。
それに桐山は僅かに顎を持ち上げて、答えた。

「…といると、早く治るような気がするんだ」
傷が痛むことに変わりはないけれど、
ひとりきりで家で寝ているよりも、が傍にいてくれているほうが不思議と落ち着いて、
ぐっすり眠れるのだ。
その理由はよくわからなかったが、別に構わないと思った。
今日も自分からに会いたいと言ったのだ。
「和雄がそう言ってくれるのは、すごく嬉しいけど」
少し困った風に笑ってから、は穏やかな声で言った。
「でも本当は、和雄が痛い思いしないで、元気でいるのが一番いいよ」

「…あぁ」
自分が傷つけられることに、特に思うところはなかったのだけれど。
がそう言うのなら、次からは気をつけなければならないと桐山は考えた。

「和雄、喉渇かない?何か冷たい飲み物持ってこようか」
「ああ、頼む」

桐山が頷くと、は微笑して、部屋を出て行った。

いつ見ても、不思議な女だと思う。と居る時、自分で自分がよくわからなくなる。
彼女に自分が惹かれるようになったのはー彼女の持つ、温かく優しい雰囲気のせいだろうか。
よく、わからない。
ただはいつでも桐山を優しく受け入れてくれて、桐山もそんな彼女に、肉親以上に依存していた。





その日も桐山は、と待ち合わせをしていた。
の下校時刻に合わせて家を出た。学校を休んでも、には会いたかった。
午後の日差しがじりじりと照りつけ、体調の優れない桐山には少し辛い日だった。
しかし、約束の時刻を過ぎても、一向には現れなかった。



携帯に電話してみたけれど、電波が入らないらしく通じない。
待ち合わせの時は、ほとんど時間通りにやって来るが、こんなに遅れるのは初めてのことだった。
胸騒ぎがした。
こめかみが疼いて、桐山は自覚こそないものの、ひどく不安な気持ちに襲われた。

待ち合わせの時間から既に一時間が経過したころ、桐山の携帯が鳴った。
桐山はそれを素早く取ったが、かけてきた相手はではなく、沼井充だった。
「…どうかしたのか」
「ボス!大変なんだ、が…」
「…に、何かあったのか」
受話器の向こうの充の声は尋常ではなかった。元々、は充の幼馴染だった。今でも充とは親しい間柄だ。
「とにかく、F病院まで来てくれよ」
充の口にした「病院」と言う言葉に、桐山は秀麗な眉を寄せた。



「和雄…来てくれたんだ」
F病院に桐山が着いた時、充たちファミリーに囲まれたは安心したように微笑んだ。
はベッドに座り、左腕に包帯を巻いてはいたが、至極元気そうだった。
桐山との待ち合わせ場所に向かう途中、信号無視の車にぶつかったのだという。
「ごめんね。せっかく待っててくれたのに」

「…そんなことは、どうでもいい」
済まなそうに言うに、桐山は近寄って、そっとその頬を撫ぜて、言った。
「身体は大丈夫なのか」
「うん。ちょっと入院することになるけど、全然平気だよ」
「…そうか」
桐山はこめかみが疼くのを感じた。もしかしたら、自分との約束の場所へ急ぐために、はこんな目にあってしまったのかも
しれない。

桐山の、無表情ながらもどこか不安そうな様子に気づいてか、は桐山を気遣うように微笑んで見せた。
「大丈夫だよ、和雄」
「…
桐山はの怪我をしていないほうの手を握り、じっとを見詰めた。
後ろに佇んでいたファミリーたちは、「二人きりにしてあげましょ」と言う月岡の提案に従って、部屋を出て行った。



日が沈んでしまう時刻になっても、桐山はのそばを離れようとしなかった。
と離れたくない気持ちで胸がいっぱいになっていた。
「和雄。家の人心配するよ」
「…大丈夫だ」
本当なら、大丈夫な訳はなかった。けれど、今の桐山にとっては、家のことなどどうでもよくなっていた。
目の前のの事しか頭になくて。
さっき、病院に向かう途中、ひどい焦燥感に駆られていた自分を思い出した。
ほんの僅かな興味を持った存在に過ぎなかった。最初は。
けれど今では無しでは居られないほどに、大切な存在。
…今まではよくわからなかったのだけれど、やっとそれがわかったような気がした。

「…無事で、よかった」
「…へへ。全く無事とは言えないけどね」
はそう言って、また微笑んだ。辛くない訳はないのだろうが、桐山を心配させたくないのだろう。
そのを、桐山はぎゅっと抱きしめた。
「…和雄」

名前を呼ばれて、顔をあげた桐山を見ては目を丸くした。
「和雄…泣いてる?」
「………?」

桐山は眉を上げて、を見詰めた。
僅かに視界がぼやけている。
透明で、温かい液体が、すっと頬を伝って流れた。

「…俺は泣いているのか…」

濡れた自分の頬を押さえ、桐山は瞬きをした。
「何だか…すごくびっくりした。和雄が泣くのって、初めてじゃない?」

は気がついていなかったが、桐山が涙を流したのは、正真正銘、これが初めてのことだった。
生まれ落ちてこの方、桐山は涙を流したことがなかった。
常人では考えられないほどの過酷な状況にあっても、その事を当然のこととして受け止め、生きてきたというのに。

「…どうしてだろう」
桐山は不思議そうに首を捻った。
今まで一度も涙を流したことなどなかったのに、とは言わなかった。

は少しの間黙って桐山を見詰めていたが、やがて彼の問いに答えるように、穏やかな声で言った。

「和雄が怪我してるの見た時、私が泣いた時あったじゃない」
「…ああ」

そう。は泣いたのだ。
初めて自分が学校以外でに会って、傷だらけの身体を見せることになったときに。
その時、桐山はどうしてが泣いたのかがよくわからなかった。
「大切に想われる」「心配される」という感覚が、今ひとつ理解できなかった。

傷ついた桐山を愛おしむように、はその後自分を優しく抱きしめてくれた。

「和雄はきっと、その時の私と同じ気持ちになってくれたんだね。だから、涙が出たんだよ」
「…そうなのかな」

…俺はと同じ気持ちになれたのか?

桐山はまたよくわからなくなって、をじっと見詰めた。

「ありがとう、和雄」
はまた微笑んで、濡れた桐山の頬を撫ぜた。
そのの笑顔を見て、桐山の初めて流した涙は止まった。

桐山は無言で、再びを大切そうに抱きしめた。





おわり










後書き:遂に禁忌を破ってしまいました。
「涙を流す桐山」の小説です。以前メールフォームでアイデアを頂いてからずっと悩んだ末に
書き上げた作品です。
プログラム月間ですが、敢えてプログラム中にはしませんでした。
原作の桐山は遂に喜怒哀楽の感情を不完全にしか(こめかみの疼きでしか)
獲得することは出来なかったけれど。
もしもう少し生きていて、自分を心から愛してくれる誰かに出会えていたら、脳の損傷なんて
克服出来ていたのでは。

私の勝手な希望です。
桐山に人並みな感情を与えるのは偽善的で勝手な想いかもしれないけど。
うちでの桐山は、他の皆と同じように感情を獲得したいって思ってるんです。

せめてうちの小説だけでも、たとえ自己満足であっても桐山には誰かに愛されて人並みに
幸せになって欲しかった。
…電波語りでした(汗)。



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