が彼と過ごすことのできる時間はいつも限られていた。
けれど必ず彼は帰って来てくれるから、気負うことはなかった。

二人で長いようで短い時間を一緒に過ごしてきた。




「和雄。」
名を呼ぶと、桐山があどけない顔で見上げて来る。
桐山はいくつもの顔を持っていた。
中学生離れした頭脳。身体能力。
親の言うことにはおよそ従順で、寡黙で。
いつも無表情で。

けれどに見せる顔はー少し違っていた。
「どうした?」

さらさらと、漆黒の髪が彼の額に下りた。それをは撫で付けて、微笑う。
「何でもないーただ、和雄のこと呼んでみたくなっただけ」
「そうか」
桐山の長い睫がゆっくりと上下した。まだ眠り足りないのか、瞳はほんの少し露を含んでいる。

柔らかなタオルケットに包まれた身体を起こし、桐山は軽く欠伸をした。
それについて、も身を起こす。彼の裸の胸に頬を寄せる。
硬く引き締まった胸板に指を這わせる。桐山は黙ってのなすがままに任せていた。

が桐山家に来たのは、今から二年ほど前のことだった。

親を失い、引き取る親戚も居なかったに目をつけたのは、あろうことか「あの」桐山財閥の総帥であった。
何の気まぐれか恵まれない子どもを預かる施設への支援活動(施設の維持費等を寄付する。売名行為と冷ややかな視線を送る者も少なくは無い)を行っていた彼は、が一時預けられていた施設にも訪れた。

園長の手伝いをしているところを「おい君」と呼び止められた。


総帥は銀縁眼鏡(ひどく高級そうな)をかけた、品の良い初老の男だった。
穏やかで揺らぐことの無い表情(冷たい印象すら受ける)で、いくらかと話した後、
「君。子どもは好きかね」と尋ねて来た。
それまで緊張しながら彼の話に応じていたはびっくりした。質問の意味が、良く飲み込めなかった。

「…良く判りません」
「…そうか」

総帥は突然訊いて悪かったね、と寂しそうに笑い、それから言った。
「私は…子どもの育て方が良く分からんのだよ」





「君を引き取りたいという方がいる」
園長からそう告げられたのは、数日後のことだった。
多少興味の混じった視線で彼はを見詰めた。
にとっても予想外のことだった。

相手は、あの時話した桐山総帥だったのだから。

「君をいたく気に入ったらしい。養女として迎えたいそうだ」
そう聞かされても現実味がなかった。

嬉しいとか嬉しくないとか。
嫌だとか嫌じゃないとか。
そんなことを思う余裕すらなかった。


は桐山家に来た。
香川県内トップ、中国四国地方でも一、二を争う大企業を経営する桐山総帥の家は、
「家」と呼ぶにも相応しくない、「屋敷」だった。

「良く来たね」
総帥は笑った。その隣りに一人の少年が居た。
「息子の和雄だ。今日から君の弟になる」
和雄と呼ばれた少年はぺこりとおじぎをした。
「よろしく」
雪の様に白い肌に、すっと通った鼻筋。気高い目元。恐ろしいほどに美しい少年だった。



「和雄とはうまくやっているかね」
「…はい」

家に迎えられて一ヶ月が過ぎる頃、仕事でほとんど家を空けていた総帥が久しぶりに帰って来て、尋ねて来た。
それにぎこちなくは答えた。
血が繋がらないとはいえ、姉弟という関係になったのに、はまだ桐山和雄と打ち解けていなかった。
桐山和雄は、にとって理解しがたい少年だった。
挨拶をすればきちんと返すし、突然増えた家族を警戒するふうでもない。
ただー。

「どうかしたか」

何かが希薄に過ぎるという感じ。

が困ったように俯くと、総帥は何を察したか、軽く笑った。
「君も困ったようだね。ー私にも、あれがああなってしまった理由は良く分からない」
が目を丸くすると、総帥は遠くを見る様な目で、言った。
「あれは赤子の時に私が引き取った。この財閥の跡継ぎとして。和雄は成長するにつれてその優秀さを発揮してきた。
私が施した教育に驚くほどのスピードで対応していった。ーだが」
総帥はそこでいったん言葉を切って、幾らか低い調子の声で言った。
「あの子には、感情が無い」
「−え」
はとっさには、総帥の言葉を理解しかねた。
ー感情が無い?

「驚くのも無理は無い。しかし、そうでなければ説明がつかないのだよ。医者も首を捻るばかりだ。あの子がまだ母親の胎内に居た頃に事故に遭ったのだと言うがー、それ以外は全く問題なく育って来ているのに」
は思わず、後ろを振り返った。
そこには誰も居ない。―ただ、気分的に。
扉の向こうに桐山の部屋があった。

「私もどうしていいのか分からなくてね。私はこういう育て方しか知らない」
「こういう育て方」というのは。
桐山がいつも決まった時間に執事に連れられて出かける用事ー「特殊教育」のことだろうか。
それから帰って来る時、きまって桐山は夕食に顔を見せなかった。




「君を初めて見たとき、君なら何とかしてくれそうな気がした。不思議なことだが」

総帥は意味深な言葉を残した。その部屋を後にして、は考え込んでしまった。
ー感情が無い。それが意味することを考えて。

確かに桐山は無表情で近寄りがたい。けれど、さっきの話を聞いて考えが変わってしまった。
「母親の胎内に居る時に事故に遭った」それが原因で彼がああなったのだとしたら。

は亡き両親のことを想った。それから笑わない義弟のことを想った。
じわり、と涙がこみ上げた。

その日の深夜。
眠れなくて、水を飲もうと部屋の外に出た時のことだった。

「姉さん」

澄んだ声が、背後から響いた。ははっとして振り向いた。
桐山が立っていた。彼は漆黒の双眸でじっとを見詰めた。
感情の揺らぎの無い瞳は硝子玉のようだった。

「ーどうしたの」
自分でも、びっくりするくらい優しい声が出た。
彼とまともに会話をしたことは今までなかったように思う。
学校と特殊教育のために出かけるとき以外は、彼はほとんど自室にこもって姿を見せなかった。
この桐山家は裕福だけれど家族の団欒からは程遠い、寂しい家庭だった。

「姉さん」と呼ばれるのが、何だか気恥ずかしい気がした。

「…眠れないんだ」

桐山が表情を変えずに言った。彼は今年で中学一年生になる。とほとんど変わらない目線。
年齢相応にあどけない瞳は、美しいけれどどこか儚く寂しげだった。

「…おいで」
は手を伸ばした。彼は少し目を丸くした。
彼はを警戒しなかったけれどー不必要に気を張っていたのは、のほうかも知れなかった。
それを後悔した。

桐山はのほうに、促されるまま歩み寄ってきた。その桐山を、はそっと胸に抱きしめた。
子どもの割りに低い体温。彼からは花に似たような優しい香りがした。



は桐山の部屋に居た。
生活感の無い部屋。モノクロで統一された家具は高級だけれど温かみに欠けていた。
ひとりの少年に与えられるには広すぎる部屋。
ベッドの脇に腰掛け、は桐山を寝かしつけていた。
柔らかい毛布を身体にかけ、優しく彼の頭を撫ぜた。

「…中学校に入ってから、変わった奴に会ったんだ」
桐山はぽつりと言った。
「それまで、俺に構ってくる奴なんていなかった。何とも思っていなかった。だがそいつはいつも俺の傍に居る。俺を気にする。
いつも笑って。俺はどうしたら良いかよくわからない」
ーどうしたら良いかよくわからないんだ。
彼の父ー自分にとってもーが口にしていたことを思い出した。
「ーそのこ、きっと和雄と仲良くしたいんだね。―和雄は?」
「良く分からない。でも悪く無い感じがする」
そう言うと、桐山はすっと左こめかみに手をやった。
「どうしたの?―頭でも痛い?」
桐山は黙ったまま、首を振った。はその桐山の手に自分の手を重ねた。

「…姉さん。俺も笑うべきなのかな」
桐山はを見上げて、訊いた。は胸が痛くなった。
「…無理は、しなくていいんだよ。そのこだって、きっとそう思うよ」
「…そうなのかな」
どこか不安そうに自分を見つめてくる桐山の頭を、は再び撫ぜた。
「…大丈夫」
微笑みかけると、桐山がぎゅっとの服の端を掴んだ。
ここまで懐いてくれるなんて、初対面の時は思いもしなかった。
「…おやすみ。和雄」

桐山は静かに寝息を立て始めた。
は彼の傍について眠った。








二年という時間は、長いようで短かった。

はすっかり桐山家に馴染んでいた。
元居た家庭には及ばないけれど、十分にここはの居場所となっていた。

中学一年生だった桐山和雄は中学三年生になっていた。
声は低くなり、背も随分と伸びた。

しなやかな、程よく筋肉のついた腕を学生服のシャツに通す。
軽く割れた腹筋が白いシャツに隠れた。

「和雄、早くしないと遅刻するよ」
先に学生服に着替えたは、マイペースに着替えている義弟を急かす様に言う。
「ああ」
最後に黒い上着を身に纏うと、桐山はベッドから立ち上がり、部屋を出て行った。
「…次からは早めにモーニングコールかけて貰わないと」
早起きのメイドに頼んでいるけれど、本来なら自分で起きないといけない。
は微笑して、身支度を整え始めた。
桐山も随分大きくなったけれど、未だに眠れないとのところにやって来た。
それで一晩の部屋に泊まってしまうこともある。

ー自分が来てからの時間は、彼に何かいい変化をもたらしただろうか。
最近、ふとそんなことをは考えた。
桐山は、未だに喜怒哀楽の変化を見せることは無い。
けれど、は気づいた。義父は桐山には「感情が無い」と言ったけれど、
彼にはほんの僅かながらそうした情が残っているらしいこと。

一緒に生活しなければ気がつかないほど、かすかな変化ではあるけれど。
には分かった。少なくともずっと一緒に居るに、桐山は感情の名残を見せた。

「和雄、お弁当忘れないようにね」
「…ああ」
これは趣味みたいなもので、は彼にお弁当を作ってやっていた。
がまだごく普通の家庭の娘だった頃に母親からいつも弁当を渡されていた。
当たり前のようにそれを受け取っていた。ーそれを思い出すように。

「…充が、弁当が美味そうだと言ったから分けてやったら、喜んでいた」
「そう。いつも一生懸命作ってる甲斐があるね」

充、という少年の名前を桐山は良く口に出した。
友達なの?と尋ねると「良く分からない。いつも俺をボスと呼ぶんだ」と聞いた時は
さすがに少し驚いた。しかもどうやらこの義弟は不良グループのボスなんてものをやっている
らしいのだ。

喧嘩はあまりいいことではないとは思うがー話を聞いている限りでは、その「充」という男の子は
ある程度の常識を踏まえているらしいので、気がかりには思わなかった。
むしろそうした仲間たちの中にいることで、桐山に少しでも良い変化が訪れるなら。

「行って来ます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね、和雄」

血は繋がっていないけれどー、実の肉親以上に大切な存在となっている義弟の後姿を見送り、はほっと溜息をついた。
時計を見た。
「いけない、こんな時間。私も遅刻しちゃう」
外ではを高校に送り届けてくれる車が待っている。は慌てて靴を履いて家を出た。


おわり



後書き++

「15のオハナシ」より「時間」。
禁断の姉弟愛です。…でもいちゃいちゃしてるのは最初だけで途中からはほんとに姉弟って感じになりましたね。
今回義父がいい人です。たまにはこういうのもいいかなって。