見上げると、空には、
今まで見たことが無いくらい青い、青い空が広がっていた。
桐山和雄が、屋上に居た。
白いシャツが、ばたばたと舞って、
彼のきちんと整えられていたオールバックの髪はゆるく崩れて
やわらかな黒髪が風の中で靡いた。
「和雄!」
呼びかけると、僅かに桐山が此方を向いたような気がした。
けれど、彼が今どんな表情をしているのか、確かめることは叶わなかった。
彼からの返答は無かった。
彼はまっさかさまに落ちていった。
青空の下。
灰色のコンクリートの地面へ向けて。
青空
「色つきの夢を見るときは、疲れが溜まっていて、眠りが浅くなっているんだ」
が夢の話をした後、桐山はそう淡々と言った。伏せがちの長い睫が、ゆっくりと上下した。
ゆっくりと雲が空を流れていく。
冬の青空はひどく鮮やかで、目に焼きつくようだった。
きん、と冷えた風が頬を刺す様に吹き付けた。
「実現したいと思っている願望や、心の底で、気がかりに思っていることを、思い描くらしい。」
夢の中の桐山の姿が、頭の中に蘇ってくる。色が再生される。
壊れかけのビデオテープを再生する時のように、それはノイズがかかって、ぼんやりと覚束ない。
漆黒の瞳は相変わらず冷たく、どこまでも静かに
を見ていた。
は桐山に身を寄せた。彼の学生服の袖を掴み、
もう片方の手でその手を握り締めた。
「和雄。…行かないで」
「いきなり、どうしたんだ」
「私、和雄が居なくなることなんて望んでないよ」
「………」
桐山が、ふう、と小さく息をつくのが、分かった。
に呆れたためではない。単に、そうしただけ。
桐山は
がどんなに我侭を言っても、どんなに揺さ振っても、ただ静かに受け入れた。
自分がどんなに取り乱していても決して動じない、この桐山の存在が、
にとっては何よりも大切だった。
ごく普通に過ごしてー時たま不安に襲われることがあっても、桐山と一緒に居れば、落ち着けた。
桐山和雄はいつでも
にとって頼れる存在であり続けた。
は桐山のうなじに両手を回し、抱きしめた。
ふわりと、桐山の長めの襟足が手の甲をくすぐった。
「和雄がいなくなったら、きっと私、生きていけない」
桐山が好きだった。
自分の腕の中にあって、こうして、息をしている桐山が。
あの悪夢の続きを考えたくない。
馬鹿げたことだとは分かっている。けれど。
「
が生きているのに、どうして俺が死ぬ必要がある?」
桐山は言い聞かせるような口調でそう言い、じっと
の顔を見詰めた。
の唇に、口付けを落とした。
「…そうだよね」
は軽く笑みをその口元に刻んだ。
桐山は相変わらずの無表情で、
を見ていた。
***
青い空が広がっていた。
四角く切り取られた窓の外、青い空が広がっていた。
教室に、二人でいた。
は椅子に座り、桐山は画用紙に筆を走らせていた。
ロイヤルブルーの絵の具が、白い紙をゆっくりと侵食していく。
「突然どうしたの?」
「絵を描いてみようと、思ったんだ」
桐山は抑揚のない声で言い、一度休めた手を再び動かし始めた。
絵を無心に描く桐山を、
は眺めた。
端正に整った横顔。
この顔をすぐ傍で眺めることができる人間はー、そうはいないだろう。
桐山は天に二物も三物も与えられている。つくづく、そう思う。
どこまでも完璧で、どこまでも純粋な男。
けれどそれでいてーどこか不安定で、いつ消えても可笑しくないような、
不思議な危さを持っていて。
安心して見ていたい。
それでも今日はーどうしてもそれができなかった。
「何描いてるの、和雄」
身を乗り出し、桐山の描く絵を
は覗き込んだ。
画面には青い絵の具がさっと広がっていた。
そこに、一人の少女が描かれている。
一人のセーラー服を纏った少女。
その顔はーどこか見覚えがあって。
「和雄…この人…」
目を丸くする
に、桐山は頷いた。
「
。俺も夢を見た。…夢を見るのは、あまりなかったことなんだが」
桐山の襟足が、さらりと音を立てそうに風に揺れた。彼は表情を変えないまま続けた。
「
が、屋上に居たんだ」
「…それから?」
「俺もそれを追って、落ちた」
は目を瞬かせた。桐山のほうは相変わらず表情を動かさない。
「…それから?」
「それで、おわりだ」
なんだかよくはわからないけれどー、
はきゅっと胸が締め付けられるような気がした。
「…怖かった?」
「よく、覚えていない」
桐山はスケッチブックを机に置いた。かたり、と音がした。
「自分が死ぬことは、怖くなかった。」
以前、出会ったばかりの時、桐山は良く「どっちでもいい」という言葉を口にした。
彼にとっては、種々の雑多な出来事と同じく、自分の命すらどうでもいいのだーそんな想いが、
いつのまにか
の頭をよぎるようになっていた。
何もかも与えられているようでいてーそれでいてそれに執着を示さない男。
桐山の桐山らしいところは、そんなところなのかもしれない。
けれど、そんな桐山を引き止めて居たいとも思った。
あの夢の中のように、彼が自分の命を投げ出してしまわないように。
あれは不安の表れだったのかも、しれない。
澄み切った青空と対照的な、紅い血液を吐き出す桐山を見たくはなかった。
「…和雄」
「ただ、
が落ちていったとき」
いつから彼は、「どっちでもいい」という言葉を使わなくなっただろう。
桐山が
の背に腕を回した。
「
が居なかったら、きっと俺も生きてはいられないーと思ったんだ」
***
桐山が抱きしめてくれた。
太くは無いけれど、細くもない。確かに、頼りがいのある、男の子の腕だった。
は桐山の胸に顔を埋めた。ーとても、温かかった。
「じゃあ、私、ちゃんと和雄の傍に居るよ」
桐山の手をぎゅっと握り、
は言った。
「だから和雄も、私の傍に居て」
「ー分かった」
温かくて、優しい桐山の腕の中。
あの夢の中のような、離れたら彼が消えてしまうのではないかという不安感は
もう拭い去られていた。
あれから夢を暫く見ていない。
おわり