偶然でも、必然でも、どちらでもいい。
 君と俺は出会った。それだけでいい。

 


 早春の風が、穏やかに水面を撫でている。藍と白で作られた縞模様の波が打ち寄せる砂浜を、彼らは歩いていた。ほんの少し肌寒い、けれどコートがいらないくらいには暖かい日。学生服を着た桐山和雄と は、放課後の時間をそこで共有していた。 が桐山の横をすり抜けて、駆けて行った。桐山は走って追うことはせず、のんびりとその後について歩いた。やがて、 が立ち止まると、桐山は海岸に近いコンクリートの壁に腰を下ろした。ざぶんと波が打ち寄せた。 は靴と白い靴下を脱ぎ、その岸辺に降り立った。すぐにゆるやかな波が、 のふくらはぎまで覆い隠した。

 「和雄、夕日が綺麗だよ」
 手を軽く振って、 が促すと、桐山は腰を上げて、 に歩み寄った。暮れかかる夕日は、海を自らの放つ光でオレンジ色に染め上げていた。
 「…綺麗なのかい?」
 「綺麗だよ」
  は微笑う。桐山はじっとその を見詰める。夕日の美しさよりも、桐山の関心を引くのは のことなのだ。 は桐山と視線を合わせて、それから、また夕日を眺めた。 の髪が茜色の光を受けてきらきらと輝いた。桐山は革靴がずぶりと砂にめり込むのにも構わず、 のすぐ傍まで来た。 は砂浜に裸足で上がった。白い彼女の足にまとわりついた細かい砂が、音を立てずに零れ落ちる。

 「 。」
 桐山がぎゅっと を抱きしめる。ほんの僅かに苦しくて、 は桐山の学生服の胸に手を当てて、彼を押しとどめた。彼は、加減というものを知らないのだ。
 「少し、寒くなってきたね」
  は背伸びをして、風にあおられてほつれたオールバックを直してやるように、桐山の頭をそっと撫ぜた。彼の漆黒の瞳が静かに光っていた。こつん、と額をくっつけあって、二人はキスを交わした。


 今からちょうど一年前のことになる。
 学年末テストを終えた帰り、いつもよりはいくらか軽い学生鞄を揺らしながら、 は砂浜に面した道を歩いていた。学校から家に通じる道、多少遠回りにはなるけれど、時間を気にしていない今は寄り道するのも悪くはないと思った。海が、見たかった。テスト後の開放感を味わう手段として、友達と遊ぶことではなくひとりで海岸に行くほうを選んだ理由は特にない。ただ、そういう気分だった。
 春の海は目だった人影もなく、とても静かだ。夏の海とは違った、穏やかで優しい趣がある。
  は靴と靴下とを脱ぎ、砂浜に裸足で降り立った。僅かに冷たい砂の感触が心地良い。引いては返す波の、水に浸るぎりぎりの線まで近づいた。
 誰もいない、白い砂浜にひとりこうしているのは、落ち着くけれどー、やっぱり少し寂しいような気もした。
 そうだ、明日は皆でカラオケに行こう。一人でいるのは今日だけで良い。
 物思いに耽っていたせいだろうか、すぐ傍まで、彼がやって来ているのに少しも気がつかなかったのは。

 「…

 静かな声がした。
 ざぶんと打ち寄せる波に裸足を浸した は驚いて振り返った。
 声の主は、そこにいた。黒い学生服、 と同じ学生鞄を片手に提げ、声と同じく静かな視線を、じっとこちらに注いでいる男子生徒、桐山和雄。クラスメイト。
 
 「…桐山くん!」
  は小さく声を張り上げた。意外な人物との遭遇に少し動揺した。学校から海まではさして離れていない。だから、城岩中学の生徒がここにやって来るのもそう珍しいことではないだろう。けれど、ここに彼がいるのが、何だかとても不思議な感じがした。容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能、不良グループのボス。彼を彩る単語が頭を駆け巡る。桐山はスタスタとこちらに歩み寄ってきた。風にあおられて、彼の長い襟足が風に靡いた。
 桐山は裸足でいる を、僅かに不思議そうな目で見つめー、それから、海のほうに視線を移した。昼下がりの日の光が眩しいらしく、彼は目を細めた。長い睫がそっと伏せられる。

 「…いつから、ここにいるんだ?」
 「今さっき来たとこだよ」
 「…そうか」
 桐山はそう聞いたなり、黙ってしまった。 は静かな表情を崩さない桐山を見ながら首を傾げる。彼は、何の用があってここに来たのだろうか。いや、用があってここに来たわけではなくてー、もしかすると自分と同じように、単なるテスト後の気晴らしのつもりだったのかもしれない。
 …テスト。

 テスト、どうだった?

 そう口に出しかけてやめた。答えの判りきっている質問を今更投げかける気にはなれなかった。桐山の飛びぬけた成績のことは もよく耳にしている。ふだん、遅刻、無断欠席常習犯の彼がどのようにしてそんな成績を維持しているのか、興味がないわけではなかったけれど、それを聞くのも無粋なことのように思われた。沈黙は苦手だったが、今は桐山がそうしているように、言葉を交わさずただ共に海を眺めていることにした。
 彼との間に流れる沈黙は気まずいものではなく、不思議と、居心地のいいものだった。彼とそうして一緒にいるのは珍しいことなのに、なぜだろう。こうして彼が隣にいることが何だかとても自然なことのように思えて。

 だがその沈黙を破ったのは、桐山のほうだった。
 桐山は靴が砂まみれになるのにも構わず、 のほうに歩み寄ってこようとしていた。 はそれを慌てて止めた。
 「待って、桐山くん」
 「………?」
 「靴、汚れちゃうよ」
 靴の指定がない城岩中では、ほとんどの生徒が男女問わずスニーカーを履いていた。桐山はそんな生徒たちとは異なり、育ちのよさが伺える、高級そうな黒の革靴をいつも履いてきていた。
 「…ああ」
 「靴脱いで、裸足で来たほうが、気持ちいいと思うよ」
  の提案にしたがって、桐山は靴を脱ぎ、靴下も脱いだ。透き通るように白い桐山の素足が露になった。数歩歩いて、立ち止まる。 はその桐山に近づいて、感想を聞いた。
 「ね、気持ちいいでしょ」
 「…そういうものかな」
 「うん。私、海大好きなんだ。見てるのも、こうして入ってるのも」
 吟味するかのように桐山は首を捻った。その様子が妙に可愛く見える。
 「桐山くんは、海好きなの?」
 「…いや。なぜそう思ったのかな」
 「え?…ううん、ただ、こんなところで桐山くんに会うなんて思ってなかったから、よく来るのかなって」
 「…今日で二回目だ」
 「え?」
 「…以前、充たちと来た。海に来るのは悪くないことだと聞いた。その気持ちを理解するために、俺はまた来た」
 「…?ふうん」
 
 ざぶん、と波が二人の足を洗うように打ち寄せてきた。


 ***


 「…わからない」
 「え?」
 「なぜ、俺は に声をかけたのか。…自分の行動の意味が、よくわからない」
 この人は、いきなり何を言い出すんだろう。 は目をしばたいた。
 「…意味とか、別にいいじゃない。桐山くんは、私に声をかけたいって、思ったんでしょ」
 「…ああ」
 「それなら、それでいいよ」
 「………?」
 「きっかけは、何でもいいよ。今日桐山くんと話せてよかった。前よりも仲良くなれた気がする」
  が微笑んで言う。桐山はまだ疑問が残るらしく、わからない、とでも言いたげに首を傾げた。
 
 水面が光を受けて、きらきらと光っている。海は相変わらず静かで、桐山も同じように静かだった。
 彼の端正に整った横顔を見つめながら、 は思った。

 どうして、声をかけた?それはやっぱりさ。
 桐山くんもひとりだと寂しかったんじゃないかな…

 長い考察を終えたらしい桐山が口を開くまでに、すっかり陽が傾いてしまっていた。
 「 と…俺は親しくなりたかったのかも、しれないな」
 生真面目にそう言った彼を見て、 はなんだか可笑しい感じがした。

 「充くんたちの気持ち、わかった?」
 「…いいや、それはまだ、よくわからない」
 桐山は眩しそうに海を見つめていた。彼の硝子球のように美しいけれど、どこか冷たい瞳が、ただその風景を映しているのみであることに、 は気がつかなかったけれどー、笑顔で言った。
 「じゃあ、また一緒に海見ようよ。桐山くんが『何か』わかるまで、ここに来てさ」
 「…?…ああ」

 砂浜には二人が残した足跡が、転々とついていた。

 二人は放課後、たびたび一緒に海に来るようになった。
 靴を脱いで、裸足で砂浜を共に歩きー、暖かい日には が海に足を漬けて、水と戯れるのを、桐山は静かな表情で見守った。近くのひなびた売店で飲み物を買って飲んだりもした。学校ではあまり親しくしなかったのに、いつのまにかこうした時間を共有するようになっていた。桐山との関係を は誰にも打ち明けることはしなかった。 なんだかこうして二人でいることが、桐山と自分だけの秘密になるような気がして、どきどきしたりもした。
 桐山のほうは、 が意識しているのにもまったく無頓着のように、いつでもその無表情を崩すことはなかったけれど。

 ー彼は、言葉に出さない代わりに、身体で気持ちを表現するらしい。
 そのことに気がついたのは、彼と親しくなって程なくのことだった。気まぐれな猫のように擦り寄ってきた彼の、見た目とのギャップに最初は驚きもした。けれど、慣れてしまえばこの上なく愛しいものに思える。不器用に自分を抱きしめる桐山を、 は愛した。

 「最初ここで会った時は、和雄がこんな人だなんて、知らなかったなあ」
 自分を抱きしめたまま離そうとしない桐山の腕に、そっと自分の手を重ね、 は感慨深い調子で言った。彼の細身の身体は、 を包み込んで、冷え込んできた空気から を守ってくれた。
 「こんなにあったかくて。優しいひとだなんて、知らなかったよ」
  はそっと彼の腕を撫でた。
 
 「… が、俺を変えたんだ」
 桐山は呟く様に言う。 はほんの少し、目を丸くする。
 「以前なら何も感じなかった…こうして風の中にいても。海の香りを嗅いでも。夕日を見ても。だが といると、全てが意味を持っているように思えてくる。 と一緒に見ているものなら、全て。」
 聞きなれたとはいえ、その声は相変わらず惚れ惚れするくらい美しかった。

 「 とこうして一緒にいるのは…『気持ちいい』ことなんだ、それがわかった」

 彼がこんなに話すのは珍しいことだった。長い睫に縁取られた、静かな目に光がたたえられている。
 「 。好きだ。」
 そしてその彼を独り占めできる自分は、この上なく幸せ者なのだ。
 降りてきた桐山の唇を、 は目を閉じて受け止めた。
 砂浜に が築いた城が、さらさらと水に流されて崩れ落ちていった。海に面した砂浜で二人はキスを交わした。


 おわり





 後書き:
 桐山=海、夕日、というイメージが頭から離れません。初めて書いた桐山夢も海でした。そのときは夏だったので春。
 春の海も好きです。


 


 

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