失ってしまったものは、もう二度と帰らない。
けれど、なんて―寂しいことなんだろう。
楽園喪失
桐山和雄が亡くなってから、今年で十年経つ。
は久々に故郷の香川県城岩町を訪れていた。高校卒業と同時に東京の大学に進学してから、長い休みでも取れない限り帰郷する事はなくなり、就職してからさらにそれは難しくなった。けれど、今日は特別な日だった。会社には有給を貰って休んだ。
彼が居た三年B組がプログラムに巻き込まれたのは、五月の二十二日のことだった。修学旅行先の九州で初めてそのことを担任の教師から聞かされたとき、は衝撃を隠しきれなかった。それは、他の生徒も同じことだっただろうけど。
「嘘でしょう?」
思わず口をついて出た言葉。小学校が一緒だった友人たちもB組には居た。しかし、それより先に頭によぎったのは「彼」の安否だった。
大好きだった人―桐山和雄の。
彼は二度との前に生きて帰ってくることは無かった。
は泣いた。泣き続けた。けれど彼が戻ってくることは二度と無かった。
はひとつ深呼吸した。丘の上にある「そこ」は、以前訪れたときよりも、僅か寂しげな風景に見えた。
彼はあの日以来、ずっと無言で眠っている。
桐山の墓は城岩町の外れにひっそりと建っていた。
大財閥の御曹司には相応しくない、ひどく質素なつくりの墓だった。
桐山が死んでおよそ三ヵ月半後の二学期、の居た三年C組には桐山行仁(きりやま・ゆきひと)という生徒が転校してきた。噂によれば、桐山は彼の父の実子ではなかったらしく、すぐに新しい養子を迎えたということだった。
「よろしく」
そう言って微笑んだ行仁は桐山には似ても似つかなかったけれど、端正な顔立ちをした礼儀正しい少年だった。桐山がそうであったように、運動も勉強も、何もかもそつなくこなす優等生だった。死んだ桐山を知る生徒たちは一旦は行仁を畏怖のまなざしで見たものの、彼の桐山とは違った社交的な性格のためかすぐに打ち解けていった。
も、彼と話す機会があった。
桐山を失ったショックはすぐには癒えず、周囲からも心配されている頃だった。
行仁は虚ろにしているに言った。
「さん、何か悩み事でもあるの?僕で良ければ相談に乗るよ」
打ち明けてしまったのは、彼が桐山家にゆかりのある人だったからだろう。
「言っておくけど、ここを教えたことは誰にも言わないでくれるかな。僕が父に怒られるからね」
行仁がその日の放課後連れてきてくれたのは、桐山和雄の墓だった。城岩中学からバスで三十分、奥まった場所だ。
「寂しい場所だと思わないかい?僕はこんなところに葬られるのは嫌だね」
来る途中で買った花を花瓶に差し込みながら行仁は言った。
「和雄さん―お兄さんと呼ぶべきかな、はすごい人だったらしいね。父もことあるごとに僕と兄さんを比べるんだ」
紫の花はゆらりと首を垂れた。
「和雄ほどの逸材はこの世にもう存在しない―ってね」
どこか自嘲気味な物言いだった。は行仁を見つめ、それから墓のほうを見た。
「すごい人だった。…和雄は。でも、すごく寂しい人だったんだよ」
行仁は少し目を丸くした。「ふうん、随分と親しかったみたいだね。兄さんと」
「わからない。和雄はいつも近くに居るようで居て、すごく遠くに居るみたいな人だったから。いつもどこか違う世界に居るみたいで」
そっと手を合わせた。
行仁はしばらくじっとを見つめてから、自分も墓に向かって手を合わせた。
「やっぱりね。来ると思っていたよ」
驚いて後ろを振り向いた。声の主は行仁だった。
彼は片手に花を持っていた。
「…どうして」
「…勘、みたいなものかな。僕と兄さんに血のつながりは無いけど」
行仁と会ったのも数年振りだった。背も伸び、スーツに身を包んだ彼は、きっと今では桐山財閥で相応の地位を築いていて―いずれは桐山が継ぐはずだった社長という地位に就くことになるのだろう。
「僕とさんくらいだろうな。ここに来るのは。父はもうここには興味がないようだし」
「…寂しい」
「え?」
「和雄はきっと、ここにいても、寂しいとか悲しいとか―思わない気がする。それが、すごく私は寂しいなって、思ったの」
「―なんだ、兄さんってそういう人だったの?」
「でもそれは和雄のせいじゃない。上手く言えないけど。…和雄のせいじゃなかったんだ」
行仁は少し考え込むようにしてから、言った。
「さんは―兄さんのことを今でも?」
「ううん。…忘れてないけど、忘れることにしたの。でも、やっぱり忘れられないかな」
「どっちなんだい?」
「…わからない」
十年の月日は長い。
桐山と過ごした、楽しい思い出も、今は思い出でしかなくなってしまった。彼が本当は自分のことをどう思っていたのかも。
「…好きです」
「…よく、わからないな。…だが、悪くはない」
断る理由も無かったから付き合ってくれただけなのかもしれない。
でも、愛しかった。彼のすべてが。
彼の一挙一動に、ある時は怒って、泣いて、笑って。
それを不思議そうに眺める彼の表情に微妙な変化を見出すようになって。
…あと、もう少し、時間が欲しかった。
おこがましいけれど、あともう少し時間があったら。彼を、変えることが出来たかもしれないのに。
足りないなら与えてあげたかった。すべてを。
「僕は無神論者なんだ。魂とか、死後の世界とか、あまり信じてない」
行仁は少し笑った。「父の受け売りだけどね。だから父も兄さんの墓参りに来ないのかもしれない。―でも、さんや僕が、こうして兄さんの事を忘れないで居る気持ちは、大切なんじゃないかな。無駄ではないと思う」
も少し笑った。彼の言葉でほんの少し気持ちが癒されたような気がした。桐山は、思い出だけの存在ではない、何かをきっと残してくれた。
「僕は兄さんに会ったことはないけどね。…今でもこんな素敵な女性に思われてるなんて幸せ者だと思うよ」
軽く手を振り、去り際に行仁は言った。「また来年」
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―後悔なんてしたことがなかった。
何もかもどうでもいいと思っていたし、父の教えを守ればあとは何でも許されたし、与えられた。
でも、いつからだろう。よくわからなくなった。
充たちと居るときにも感じていた違和感はさらに大きくなった。
俺には時々、何が正しいのか、よくわからなくなるよ。
―伝えたい、想いがあった。
お前の隣は居心地が良かったのだと。
誰でも良かったわけではない。
お前に傍に居て欲しかったのだと。
…伝えておけば、良かった。
もう、帰ることは、出来ないけれど。
せめて。
―。
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死後の世界なんてない。
神様なんて居ない。
だって私の願いを神様は聞き届けてくれなかったもの。
でも、安心して。
私はあなたを覚えているから。
あなたは確かに存在していた。
何度でも、何度でも、あなたのことを思い出すから。
おやすみなさい。どうか安らかに。
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おわり
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