あの悪夢のようなプログラムを抜け出して、一日が過ぎた。
桐山とは、二人で寄り添うようにして身を隠しながら、大東亜を抜け出す手順を考えていた。
今はもう四国を抜けていた。川田達三人がその後どうしたのかは確かめる手段はなかった。
しかし今は、自分たちがいかにして生き残るかに意識が集中していた。
「米帝国行きの密輸の船に乗ろう。それならば、抜け出せるかもしれない」
桐山はそれから、に髪を下ろすように言った。
は長い髪を耳の後ろで二つに束ねていた。手配写真の印象から少しでも遠ざかるためだろう。は指示通りに自分の髪を下した。
桐山は自分もまた、崩れかけたオールバックの髪をくしゃくしゃと手で梳かした。それだけで桐山は普段とは別人のように見えた。
「…ねえ。和雄」
「何だ?」
「お腹の怪我…もう本当に大丈夫なの?」
「ああ。問題ない」
「………」
は杞憂を拭い去れなかった。
桐山本人が大丈夫だと言っているのだから、それを信用したい気持ちはあったが、奈何せん彼が受けたダメージは大きすぎた。
防弾チョッキ越しとはいえ銃で何発も撃たれ、一時は失神して血すら吐いたのだ。無理しているだろうことは容易に想像がついた。
は桐山の腕にぎゅっとしがみついた。
「どうした、」
桐山が少し目を丸くして訊ねた。は桐山を見て、言った。
「和雄、私にも武器貸して。和雄ばっかりに無理させてられないよ」
「…。」
桐山はしかし、静かに首を振った。
「いいんだ。もう俺は人を何人も殺しているが、はそうではない。人を殺すというのは、辛い、ことなのだろう?
…俺にはよく理解できないが」
事実だった。
せっかくあのゲーム中、桐山から武器を渡されていたにもかかわらず、は一度もそれを人に向けて使うことはできなかった。
怖かったのだ。
自分の手で、人を殺めることが―。
それを平然とやってのける桐山を最初は恐れもした。しかし、現状を嘆いてばかりで何も行動しなかった自分は、いったい桐山の何の役に立っただろう?
せめて、足を引っ張らないこと。それがのとれる唯一の選択肢だった。
「、代わりにこれを」
桐山はボロボロになったシャツを脱ぎ始めた。最初は驚いただったが、彼がしようとしていることに気づいて、あわてて言った。
「和雄!」
彼は防弾チョッキを脱ぎだしたのだ。
「弾はいくつか食い込んだが、着ていないよりはましだろう。これを着て、常に俺の後ろにいるんだ。いいな」
桐山ははだけた胸をそっと自分でさすりながら言った。はその様子を見て一瞬言葉を失った。
酷かった。
桐山の肌には無数の紅い跡が刻まれていた。それは、彼が受けた銃弾の数のすさまじさを十分すぎるくらいに物語っていた。
「和雄…」
は胸が痛くなった。
こんなにひどい跡まである傷。痛まないわけはない。しかし彼は顔色ひとつ変えずに接してきたのだ。
「どうした、早くこれを着て―」
「和雄、無理しないで」
は桐山の裸の胸に顔を埋めた。心臓の音が聞こえた。とくん、とくんと脈打つその鼓動が少しだけはやまったのを感じた。
「痛いんでしょ?苦しかったんでしょう?ずっと。…気がついてあげなくてごめんね…」
腹部にある痣が一番大きく、痛々しかった。川田のショットガンの一撃を受けた時のものだろう。もしかしたら、骨折しているのかもしれない。
「………」
桐山は無言でを抱きしめた。彼のあたたかな体温を感じ、は桐山を見上げた。少し、驚いた。桐山は先ほどよりも血の気を失った顔をしていた。
「和雄!やっぱり無理して…」
「大丈夫だ」
しかし彼の吐く息が次第に荒くなってきたのに気づき、は声を上げた。
「和雄!」
「…問題ない。この程度のショック症状なら、経験したことがある。少し休めば、じきに落ち着く…」
彼は淡々と言ったが、は気が気でなかった。もし、もし桐山がこのまま倒れこんでしまったら、自分は桐山に何をしてやれるだろうか?
手当ての方法なんてわからなかったし、病院に連れて行けるわけでもない。
…どうしよう…
そう思ったら、ずっとこらえていた不安感がどっと押し寄せてきて、涙腺が緩んだ。ぽたりと桐山の胸にの涙が落ちた。
「…心配、しているのか…?」
「当り前だよ、和雄。」
が桐山の胸に顔を埋めて肩を震わせると、桐山は一つ、ふうっとため息をついてから、言った。
「…人が涙を流す理由が…わかったような気がする」
「え?」
桐山の突然の言葉に、は顔を上げた。
桐山はの涙で濡れた頬をそっと撫ぜた。
「俺には…涙は流せないが…」
桐山はそう言ってこめかみをそっと押さえた。その仕草を見てはなぜか胸がせつなくなるのを感じた。
彼の心情は表情からは読み取れなかったけれど、とても悲しそうに見えたから。
「生きている。…が望むなら。」
桐山はぽつりと言った。
「。…一緒に、生きてくれるか?」
「…うん」
「…俺も…生きていても、いいのかな…」
「わかったよ和雄…もう、喋らなくていいよ…」
は眼をこすって、それからもう一度桐山の真っ赤になったお腹を優しく手でさすった。
腹筋のついた逞しい彼の身体もやはり相当のダメージを受けていた。
「和雄が痛い思いしてる時は、私も痛くなるんだ。心が。どうしてだろうね…」
桐山は気持ちよさそうに目を閉じていた。まだ息は荒かったが、こうしていると気休め程度には痛みが和らぐのだろう。
「和雄。一緒に生きていこうね。苦しくても、生きていこうね…」
肯定の証に、桐山はの頭を自分の胸に押しつけて抱きしめた。
二人が大東亜を無事に脱出できたのは、それから一週間も経ってからのことだった。
おわり
2007/11/23
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