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その日は真夏日だった。
五月の終わりとは思えないほどの蒸し暑さ。
二日続いた雨が上がった空は、眩しいほどに澄み切っていた。


「こんにちは」
ドアを開けると、まず明るい声でそう言い、は桐山に微笑みかけた。
桐山は微笑み返す事は無かったが、ゆっくりと上半身を起こして、頷いて見せた。
がこうして桐山を見舞いに来るのは二回目だ。

桐山は少し、その形良い眉を持ち上げた。
、もう半袖を着ているんだな」

「今日は、ちょっと暑いから」
は白い夏物のワンピースを着ていた。

は、白が似合うな」
「え?」
「制服以外の格好をあまり見た事が無かったから」
桐山は相変わらずの無表情で言った。

「...ありがとう」
は自分の選択に心の中で拍手をした。
は桐山に会いに来る前に、どんな服を着ていこうか随分と悩んだのだ。
桐山はそんな事は勿論知らなかった。
至極素直に感想を述べたに過ぎなかった。
それでも、にとっては何よりも嬉しい言葉だった。

は視線を桐山のベッドの脇に置かれた花瓶へと移した。
この前が持って来た花が飾られていた。
...飾ってくれたんだ...。
は嬉しくなった。
少し派手な色の花を選んでしまったと後悔して居たのだが、
こうして飾られているのを見ると、白一色で寂しかった病室が、どこか明るくなった様に見えて。


この前とは違い、時間を気にする必要はなかった。
が一言二言話し掛ければ、桐山は淡々と返す。
最初こそ、会話が弾まないのには焦りを感じたが、そのうちに慣れた。
元々桐山はあまり喋らない方だった。
暫く話していなかったので、感覚を忘れてしまっていた。

「...桐山くん。りんごとか、剥こうか」
友達のお見舞いに行くのだ、伝えた時、母親が「持って行きなさい」と言ってくれた
果物が数個鞄に入っていたのを思い出し、は桐山にそう訊いた。
しかし桐山は静かに首を振った。
「食べ物は今は駄目だと言われている」
重度の打撲で内臓が傷ついているんだ、桐山は淡々とそう言った。

「あ...そうなんだ...ごめん」
桐山の言葉に、はしゅんとした。
「別に、謝る事はないんじゃないか?」
桐山は不思議そうな顔をして、首を傾げた。
その腕には相変わらず点滴が繋がっていた。

「じゃあ、飲み物とかも駄目なの?」
「ああ。喉を湿らす程度なら良いんだが」
そう言った桐山の唇は、ひどく荒れていた。
かさかさに渇いて、紫色に染まりかけている。

「桐山くん、唇、痛くない?」
が尋ねると、桐山は、「ああ。少し」
そう表情を変えずに言った。

はそんな桐山の様子が痛々しく見えて、眉を顰めたが、
やがて、思いついた様に言った。
「ちょっと待ってて」
は鞄の中を少しの間探ると、ひとつの紙袋を取り出し、丁寧にそれを
開けた。

「桐山くん、はい、これ。あ、買って来たばっかりだから大丈夫だよ」
目を丸くする桐山に、は袋から取り出したリップクリームを差し出して、言った。

桐山はじっと差し出されたリップクリームを見詰めていたが、やがてその視線を
向けた。
何か言いたげなその様子にはちょっとだけ戸惑ったが、すぐに気付いた。
桐山は利き腕に点滴を打たれていたのだ。

「私が...塗っていいの?」
「ああ、頼む」

すぐ目の前に桐山のとても綺麗な顔がある。
こんな風に桐山にリップを塗ってあげる事になるなんて、思いつきもしなかった。
できる限りそっとリップを動かしながら、は胸が高鳴るのを感じていた。

桐山は相変わらずの無表情で、のなすがままに任せていた。

「はい。これでいいかな」
「ありがとう」
リップを塗り終わった後の桐山の唇は、大分潤って、先程よりずっと安心して見られるようになった。

。これは何の香りだ?」
「ん?バニラだよ」

が答えると、桐山はそうか、と頷いた。
そして、そっと目を伏せた。
甘い香り。

甘いバニラの香り。
半袖の―。


桐山は過去の記憶を反芻した。

去年の夏。
終業式帰りの事。

「冷たいから、うまいっすよ。ボス」
夏服を着た充に連れられて、桐山は小さな駄菓子屋に案内された。
そこで充は二本アイスを買って、そのうちの一本を自分にくれた。
「棒のアイスなんて、初めて見たよ」
「え?...そうなんすか?でも、すげえ美味いから...」
ちょっと照れた様にはにかみ、充は言った。
「ボスに食べてほしいなって思ってたんすよ」

差し出されたそれを受け取って、ちろりと舐めてみた。
甘く冷たい味がゆっくりと広がった。
「悪くないな、充」

去年の、夏の事。
生きていた充。
今年。
自分がこの手で命を奪った充。
どうでも良かった筈の記憶。
ふと、思い出した。

桐山はこめかみに鈍い疼きを覚えた。

「...桐山くん?」
に声をかけられ、桐山ははっとした様に瞬きをした。
「大丈夫?顔色悪いよ?」
心配そうに自分を見ているに、桐山は少し辛そうな声で言った。
、苦しい」

は驚いた。
傷が悪化してしまったのかも知れない。
「桐山くん、今看護婦さん呼ぶから!」
慌ててナースコールを押そうとした。
しかし、桐山は首を振ってそれを制した。
「いい」

「でも...」
「そういう、痛みじゃないんだ」
桐山は左手で胸を押さえ、小さな声で言った。
「傷の痛みじゃない事は分かる。...だが苦しい...」
桐山は僅かに肩を上下させていた。

「大丈夫?」
は心配になって、桐山の顔を覗き込んで訊いた。
「俺にはよくわからないよ。
桐山は目を閉じて、眉を寄せた。
苦痛に耐えるかのように。
「わからない?...桐山くん、何が...」
が尋ねても、桐山は答えなかった。

少しして、桐山はいつも通りの無表情に戻った。
は桐山が落ち着くのを待って、また会話を再開した。
少しでも明るい話題にしようとは必死になった。

思い出しちゃったんだ、きっと。
何となく、には桐山の様子がおかしい理由がわかった。
プログラムがどれほど過酷であるかは、伝え聞いたのみではあったが、知っていた。
そんな恐ろしい場所に行って、そしてたったひとり残されて帰って来たのだ、桐山は。
もちろんは、桐山がプログラム中進んで多くの生徒の命を奪った事を知らなかった。
コインの裏表でクラスメイトと自分の運命を決めてしまった事も。


「早く治って、ごはん食べられるようになるといいね」
は優しい声で桐山に言った。
「栄養は摂れているから、特に困っては居ないが」
淡々と桐山は言った。
は僅かに虚を突かれた様な顔をした。
しかし、すぐに、
「美味しいもの食べられないなんてすごい損してるよ、桐山くん
一生に食べられる食事の回数って決まってるんだから」
反論するように、言った。
静かな表情で、じっと自分を見ている桐山に言い聞かせるように。

桐山はそんなの言葉に、少しだけ驚いた様だった。
おっとりした調子で言った。
は面白い事を言うんだな」

「あ、そ、そうかな」
反応してもらえた事が嬉しくて、は僅かに頬を染めながら、言った。
「ああ、考えた事がなかった」
桐山はどこか遠くを見ている様な目で、言った。
「俺は損をしているんだな」

桐山の表情は相変わらず静かだった。
しかしとても寂しそうな顔にも見えた。
「桐山くん...」
は何かを言いかけ、やめた。
言うべき言葉が見つからなかった。


二人の間を静かな時間が流れた。
「あ、もうこんな時間...」
遮光カーテンの隙間から、うっすらと紅い光が零れ始めたのに気付き、
は慌てた様に言った。
「帰るのか?」
「うん。あんまり遅いと怒られるからね」
「そうか」

は荷物を纏め、身支度を整え始めた。
桐山はそんなを黙って見詰めていたが、やがてぽつりと言った。
「また、来るか?」
「え?」
「ここに居ても何もする事がないんだ」
は少し、驚いた様な顔で桐山を見た。
そこにはやはり無表情の桐山の顔があった。

「うん、桐山くんが元気になるまでずっと来るよ!」
は笑顔で言った。
「...そうか」
桐山はをまたじっと見詰めた。
無表情なのに、いつもとは少し様子の違う桐山には戸惑った。
桐山の澄んだ瞳に宿る光が、僅かに揺れていた。
「ありがとう」
暫くの沈黙の後、桐山はそう静かな声で言った。

「またね」
軽く手を振り、は病室のドアに手をかけた。
桐山はそんなにああ、と頷き、しかしその視線をそっと自分の枕元に
落として、言った。
、これは...」
「ん?良いよ、桐山くんにあげるよ」
はそう言って微笑むと、ドアの向こうに消えていった。



の居なくなった静かな病室。
桐山はひとりきりで横たわって、目を閉じた。
またこめかみが疼いた。


俺は損をしてるのかもしれない。
俺は何も感じなかった。
感じた事が、なかった。
何に対しても。何も。


だが、思い出すと、理解し難い苦しさに襲われた。
自分が手にかけた生徒達の事。
何も感じなかった。
殺すことに。
どっちでも良かった筈だったのに。

分からなかった。
そんな自分の事が。

桐山はうっすらと目を開け、枕元に残されたものを見た。
リップクリームだった。
まだほんのり甘いバニラの香りがした。

...また来ると、言っていたな。
桐山は目を細めた。
の話を聞いているのは悪くないと思った。
ひとりで居ると、どうしても考えてしまうから。
左手でそっと唇に触れた。

次はいつ来るだろうか。


つづく


+++後書き+++
大変お待たせしました...。
第三弾です。暗い...。
わかりにくいですけど桐山、主人公に頼り始めてます。
これから更に暗くなりますがよろしければお付き合いください。