夢を見ていた。
あのゲームから帰ってきてから色々な夢を見続けていた。

見覚えのある顔が変わる変わる出て来た。
俺が物心ついてから辿ってきた事象の中からピックアップされた場面が浮かんでは消えた。
俺は一度見たものを忘れると言う事はまず無い。
そう言う風に造り上げられたから。
だがこれは初めて、見る。
俺の記憶の中には…少なくともこんな出来事は無かった筈だ。
これは、一体何の記憶なんだ?
…思い出せない。

「…ですから息子さんを救うことは出来ます。ただし、それ相応の報酬は頂きますがね」
「いくらでも出します!私にはもう…その子しかいないんです…」
低い声。…少し年配の男の声。
掠れた弱々しい声。…若い男の声。

何故か俺はその声を知っている気がした。



がちゃり。
桐山の病室のドアが、静かに開かれた。

すっと中に入って来たのは、背の高い医師。
桐山の担当医だった。
注意深く桐山のベッドのすぐ傍まで忍び寄った。

彼はひどく憔悴しきったような表情で、手にしていた荷物から何やら取り出した。
細い管。注射針の中には無色透明な液体が満たされていた。

医師はぶるぶると震える手を桐山の布団に伸ばしかけ―幾度も躊躇うようにひっこめかけてはまた伸ばした。
静かに寝息を立てる桐山の端正に整った寝顔は、中学生という年齢相応に幼く、あまりに無垢だった。
医師はとうとう声を上げた。
耐え切れない、とでも言うように。
「許してくれ…」
彼の声は震えていた。
「君にこんな事をするなんて、やはり出来ない…」

その時、ベッドに横たわった桐山がぱっちりと目を開けた。

桐山は重たげな瞼を幾度か瞬きさせると、透き通ったガラス玉の様な瞳で医師をじっと見詰めた。
そして医師の片手にささげられたものを目にすると、ほんの僅かに眉を上げたが、すぐに戻した。
「…誰かに、頼まれたんだな」
医師はびくっとその大きな身体を震わせた。
恐ろしい事に桐山は医師の様子と言葉のみで、注射器の中に満たされたものの正体を察したようだった。

桐山はベッドから身を起こすと、あくまで冷静な様子で医師に問うた。
「教えてくれないか。誰に頼まれたのか」
その声からは怒りや恐怖といった感情は微塵も感じられなかった。
医師ももはや隠し立てする必要もなくなったと判断してか…口を開きかけ、しかしまた躊躇するように押し黙ると言った動作を数回繰り返した後、静かに告げた。
「君の、お父さんだ」

桐山の瞳が一瞬だけ大きく見開かれた。
「…父が」
それはまたすぐにもとに戻ったが、桐山の心の中では僅かな変化が起こっていた。
決してそれは表情には表れなかったのだが。

「君のお父さんだ」
医師からその言葉を聞いた時、きん、と桐山の腹の内側から冷たい痛みが響いた。
それは確かに傷ついた腹の内側から響いてくる痛みには違いなかったが、
いつもとは少し違う痛みのように思われた。
もう大分良くなっていた傷が―疼いた。
痛みに呼応するようにちりっとこめかみにも鈍い疼きが走った。
最近ひどく間隔が狭まってきているように思う。
ふいにさっきのの顔と言葉を思い出した。

「桐山くんが生きてるってだけで嬉しいって人も居るんだから」
。どうやら少し違ったようだよ。

父さんは―俺が帰って来ても嬉しく無かったんだ。

桐山はそれを悲しい事とは思わなかった。
少し考えれば理解できる。
自分は父の本当の息子ではない。
幾らでも取替えの利く存在なのだ。
今まで、父の命ずるままに、ただ生きて来た。
その父が望んだ事ならば。

桐山はそっと目を伏せ、そんな事に思考を巡らせた後、やがて自分の前で注射器を構えて立ち尽くしている医師をじっと見据えて、言った。

「…少しだけ、待ってくれないかな」
「―え?」
動揺する医師の前で、ベッドの脇に残された、可愛らしいパスケースを、手を伸ばして桐山は取り上げた。
「…これを…が取りに来るかも知れないから」
そう言った桐山の表情は信じられないほど穏やかだった。
「それが済んだら、俺が自分でやる。…それでも構わないだろう?」
桐山の瞳に、迷いなど無かった。




ばたばたと言う音が近づいて来た。
医師ははっとしたように瞬きし、桐山を見た。
桐山は僅かにそれに頷いた。

がちゃり。
ノック無しで桐山の病室のドアが開かれた。

「桐山くん!ごめん私忘れ物…!」
病室に滑り込むようにして入って来たはそう大きな声で言ってから、桐山の傍らに居る医師の姿に気付き、あ、…ごめんなさい、と今度は小さな声で言った。
慌てての事とはいえ、ここが病院である事を忘れていた反省からだろう。

「ああ。…。そろそろ来るんじゃないかと思って居た」
桐山は今までの会話など全く気にも留めて居ない様に、先ほどと何ら変わらぬ態度で、そんなを迎えた。
少なくとも表面上はそう見えた。
医師の見守る前で、桐山はすっとパスケースをの方に差し出した。
「あ、ありがと。ごめんね」
そう言ってパスケースを受け取ろうとしたの手を、桐山はぎゅっと握った。
「…桐山くん?」
。少し…こうさせていてくれないか」
驚くに、桐山はごく平坦なトーンの声で言った。
表情は全く変わっては居ないけれど。
桐山はどこか寂しげだった。
「頼む。…少しでいいんだ」
「あ…私は全然良いけど…」
すぐ帰りなさいと怒られた事も思考の隅に追いやって、は顔を真っ赤にして言った。
そんなを桐山はじっと見詰めた。
静かな声で言った。
「もうここに来る必要はない」
「―え?」
はびっくりしたように顔を上げて桐山を見た。
そして―何を誤解してか、ひどく嬉しそうな顔をして、言った。
「じゃあ、退院できるんだ、桐山くん、よかった…」
「いや」
桐山は首を振った。
そして…あくまで淡々と、笑顔のに告げた。
「俺は、これから死ぬ事になる」

それを聞いた途端、の表情が凍りついた。
「せっかく色々貰ったのに、すまないな」
桐山はそんなの様子に構う事無く、あくまで冷静に言葉を継いだ。
「父は俺の死を望んだ。だから死んで見るのも悪くないと思う」

の顔から笑みが消え、みるみる青ざめていくのが分かった。
「…望んだって…」
少し遅れて返って来たの声は震えていた。
完璧に自分の理解の範疇を越えた桐山の言葉に、は動揺を隠せない様だった。
桐山はそんなに、ただ淡々と告げた。
「父は俺を殺そうとしたんだよ」

桐山の口にする言葉には嘘偽りなど無かった。全てが真実だった。
しかし桐山自身には―その事でに同情を求めているつもりなど微塵もなく、
ただ尋ねられたから答えた、その程度の認識しかなかった。
桐山の心のずっと深いところで傷ついた分は、体の不調となって表れ始めていたのだが、
本人はそれと自覚する事は出来なかった。
その事実が―それを知ったにどのような気持ちを抱かせるかも。


「いやだ…」
「…?」
桐山は驚いた。
の瞳から大粒の涙がどっと溢れ出した。
さっきまで笑っていたが―泣いている。
「そんなの嫌だ…私は、生きてて欲しいもん」
ベッドの上で半身を起こしている桐山の背中に手を回して、はぎゅっと桐山を抱きしめた。
それでまた桐山は驚いた。
に抱きしめられたのは初めてだったのだ。
…いや、それどころか、人に抱きしめられたという記憶が桐山にはなかった。

「私は桐山くんが帰って来てくれて嬉しかったのに…そんな事、言わないでよ…」
桐山の胸元で、とうとうはぽろぽろと泣き出した。
ここに初めて来た時とは少し違った泣き方。
顔を顰めて、全身で悲しみを表現している。
肩が震えた。

「…、どうして泣くんだ?」
桐山は最初にここでと再会した日と同じ質問を口にした。
「そんなに泣いていては、苦しいんじゃないか?」
桐山は困った様にの背中を撫ぜた。
「俺が言った事…何か気に障ったのかな?」
の涙の原因が桐山には理解できなかった。
ただ、分かるのは―の涙の原因が、自分の発した言葉にあるらしいと言う事だった。
桐山はの手をぎゅっと握りながら―立ち尽くすしかなかった。


「和雄くん」
少しして、困惑している桐山を見かねたように医師が声をかけた。
それでははっとした様に桐山から身を離した。
ただその手は桐山に取られたままだった。
桐山は医師を見詰めた。
殺意は感じられない。…最初から。
この医師は人前で桐山を呼ぶ時は「桐山君」で、
二人になった時は「和雄君」と呼ぶおかしな習性を持つ男だった。
だが今は、―も一緒なのに。
訝しげに首を傾げる桐山に、医師は胸元から何やら取り出して―桐山に差し出した。
「このお金を君にあげよう。今すぐここから逃げるんだ」
桐山は驚いた様に眉を持ち上げた。
も同じだった。

「私だって君が生きて帰って来た時は嬉しかった。ずっと…君の治療をして来たんだから」
医師はどこか遠くを見るような、そんな視線を桐山に向けていた。
「君が小さい時から、お父さんの受けさせた教育の中で、大怪我をしてここに来るたび…やるせなかったよ。ずっと」
彼は回想していた。
「特殊教育」と称して桐山の父がまだ幼いうちから桐山に過酷な身体訓練を強いてきたこと。
そのために桐山が何回も手術が必要なほどの重傷を負い―よくこの病院に運び込まれ手当てを受けた事。
まだ若かった頃、そんな桐山の父の振る舞いに憤りを覚え直接意見をしたところ―、「壊れても治らなかったら代わりを使えばいい」そう冷たくあしらわれてしまった事。
情けなくも桐山家の圧力に押されその後はただ従容とした態度を取らざるを得なくなったことを。
「今は君を助けたい。君に生きていて欲しいんだ」
医師ははっきりとそう言った。
桐山は静かな表情で、目の前の医師を見詰めた。
何だか以前より白髪が増えたんじゃないか…ふと、そんな事を思った。
そしてまた別の考えに行き着き、疑問をそのまま口に出した。
「だが、父の命令に背いたら…」
「構わない。私には妻も子供も居ないし…失うものが在るとすれば…それはこの地位と命だけだ。…もう今はそれも惜しくない」
桐山の言葉を遮るようにして、医師はそう言い放った。
そして、少しだけ目を細めた。
桐山と―傍らに居るとを交互に見て、医師は穏やかな笑みを浮かべた。
「逃げなさい。…その女の子のためにも」

長身に見合う大きさの医師の手から、桐山は数枚の紙幣を受け取った。
「…ありがとう。先生」
桐山は特に表情を変えずにそう言い―すっとベッドから立ち上がった。
ただ、もう一度じっと医師を見詰めた。
医師はそれに頷いて見せた。
医師の目には僅かに光るものが宿っていた。

そんな桐山と医師のやりとりを固唾を飲んで見守っていたは、ふいに桐山に手を引かれ、
びっくりしたように彼を見上げた。
桐山はあくまで単調な口調で言った。
、城岩へ帰ろう」
「―え?」
はとりあえず家に帰るんだ」
ははっとした様に桐山を見詰めた。
「で、でも―私は…」
そんなの不安を察してだろうか、桐山は心なしか穏やかな調子で言った。
「後の事は…戻ってから考える。心配は要らない」






桐山はどんどん歩き出していた。
病室を出て、階段を下る。
「桐山くん…」
はまだ泣きそうな表情を崩さぬままだった。
先ほど「死んで見るのも悪くない」と言った桐山の声からは、なんの不安も恐怖も感じられなくて。
―目の前の桐山は本当に、それを実行してしまいそうな気がして。
それはひとまず危険から逃れた今でも、の心を曇らせていた。
桐山は一段一段を幾らか早い足どりで下っていった。
思わずぎゅっと桐山の手を握りしめたの頭上から、やや遅れて―静かな声が降って来た。
「生きてみるのも悪くない」




つづく




++後書き++
大変お待たせしました。六話です。
ちょっとは希望が見えて来たかな…。
次回はもう一波乱起きるかも。
続きも読んで下さると嬉しいです。