「ひとつだけ頼みたい。これで適当に服を買って来てくれないか」
病院を出てすぐに、桐山はそうにお金を渡して、言った。
言われてみれば、桐山は病室を抜け出した姿そのままだった。
これでは街中を歩くのに目立って仕方ない。
幸い、ここから歩いて五分とかからない所に大き目のショッピングセンターがあった。
「わかった。…ほかに何かいるものとかある?」
「そうだな。…整髪料も出来れば」
それから十数分して、は買い物袋を片手に走って戻って来た。
「サイズ、適当だけど」
「ああ。構わない」
あまり迷っている暇は無かったので、は白シャツにジーパンという無難な組み合わせの服を選んだ。サイズは男性用のMだ。どちらかといえば痩せ気味で身長もそんなに高い方ではない桐山には充分だろうとの判断だった。
病院の植え込みの陰に隠れて、桐山は着替えた。
はその間、誰か来ないか見張っていたのだが、―少しだけ、頬を紅くしていた。
「待たせたな」
「あ、うん。…平気」
は着替えを終えて出て来た桐山の姿に、暫し、見とれた。
桐山が着ると、安物の服も最高級品に見えてしまうから不思議だ。
桐山はさっと整髪料で髪を後ろに撫で付けて、オールバックに整えた。
「家ではこの髪型はあまりした事がないから、多少カモフラージュにはなるだろう」
桐山は淡々と言った。
はそんな桐山を心配そうに見詰めた。
さっきの会話は…にとって少なからず衝撃的なものだった。
当の桐山本人は全く気にもとめて居ない様ではあるけれど。
病院近くの停留所で待っていると、ほどなくして駅行きのバスがやって来た。
それに乗って、数十分もしないうちに駅に着く。
城岩町方面の電車に乗り込む。…急行では止まらないので、各駅停車を選んで乗ると、びっくりするほど空いていた。
三人がけの椅子に二人で座った。
桐山と隣同士になってもの心は浮き立たなかった。…そんな気持ちにはなれなかった。
重い空気が流れた。
タタン、タタン、という音だけが響く。
先に口を開いたのは、桐山だった。
「…先ほどの事を気にしているのか?」
「―え?」
「が悲しむ事じゃない」
は桐山を見詰めた。
桐山の表情はどこまでも静かで揺るぐことを知らない。
「今の父は俺の本当の父ではないんだ」
桐山は玲瓏な声でそう言葉を紡いだ。
「本当の両親の事は分からない。ただ物心ついた時から俺の『親』は父しかいなかったし、父の言う事だけを聞いて今まで生きて来たんだ。それが当たり前の事だった」
桐山は遠くを見ている様だった。
ここではないずっと遠くのどこか。
は息を飲んだ。
電車はトンネルに入った様だ。
窓から覗ける風景はただ一面の闇。
「俺を養育しているのは父だ。だから俺の生死を決める権利は父にある」
雑音の中でも、桐山の声は不思議とよく通って聞こえた。
相変わらずの無感情な声。
「そんなの違うよ!桐山くんの命は、桐山くんの命じゃない。誰かが勝手に決めていいものじゃないよ!」
思わずは声を荒げた。その声には、自分の命を、他人のものであるかの様に評する桐山への疑問と怒りが篭められていた。
そんなの様子に、桐山はちょっとだけ眉を持ち上げて、驚きの表情を作る。
「。…何をそんなに怒っている?」
ははっとした。
桐山はが憤る理由が理解できないのだ。
桐山は俯いて、小さな声で言った。
「俺は自分でもよく分からないうちにに気分の悪い思いをさせているようだな…すまない」
「違うよ、全然、桐山くんは悪くないんだから!」
が必死にそう言うと、桐山は僅かに首を傾げた。
「…そうなのかな?」
「そうだよ」
桐山くんは一体どんな家で育ったんだろう。…それを思うだけで桐山を育てたという人物へのやり場のない怒りが込み上げてきた。桐山くんは、ものじゃないのに。
は桐山の手を握った。
自分でもびっくりするほど積極的になっていた。
そうしなければ、桐山が本当にどこかへ行ってしまうような気がして。
真摯に見詰めても、桐山は表情をほとんど変えない。
自分の気持ちが全部は伝わらないことには歯痒さを覚えた。
伝えようとすればするほど、桐山を責める様な口調になってしまう。
本当に責めたいのは、桐山くんじゃないのに。
は黙り込んでしまった。
「…」
「え?」
前触れなく呼ばれ、はびっくりして顔を上げた。
そこには相変わらず静かなままの桐山の顔があった。
「少し、疲れた。…休ませてくれないかな」
「あ、…うん」
は桐山の手を離そうとした。
けれど桐山は逆にぎゅっと握り返してきた。
「桐山くん…?」
返事はなかった。
桐山はにもたれて、早くも寝息を立て始めていた。
…やっぱり、疲れてたんだよね?
は肩に預けられた桐山の身体の重みを愛しいと感じた。
ずっとこのまま、一緒に電車に乗っていたい様な気がした。
けれどそれは叶わない事だ。
名残惜しげに、は桐山の頭にそっと頬を寄せた。
県境を越えて、電車はゆっくりと、しかし確実に城岩へと近づく。
その事に小さく落胆した。
やがて電車の窓から見覚えのある景色が覗く。
「桐山くん…着いたよ」
は自分にもたれかかった桐山を、そっと揺すった。
桐山は瞼をゆっくりと持ち上げ、小さく欠伸をすると、椅子から立ち上がった。
「ああ」
桐山の端正な顔には、僅かに疲労の影が落ちていた。
人気もまばらな駅を出ると、見慣れた風景が視界に収まる。
帰って来たのだ。―生きている桐山と一緒に。それで軽い安堵感と脱力感が同時にこみ上げて来た。…今日は色々な事がありすぎた。気持ちの整理がまだ付かない。
「少し、遠回りをしていってもいいかな」
桐山の静かな声が降って来た。は頷いた。
桐山について歩いているうち、すっと手が引かれた。
少し驚いた。
桐山くんが…自分で…。
ひやりとした手にしっかりとの手は握られていた。
それが何だか嬉しかった。桐山は、まだ自分を必要としてくれている。
手を引かれるまま歩き出した。
冷たい手を、はぎゅっと握り返した。
「…」
「何?桐山くん」
「聞いてもいいかな」
「え?」
頭上から浴びせ掛けられた質問に、は軽く小首を傾げつつ桐山を見上げた。
桐山は相変わらずの無表情で、尋ねた。
「が何故俺が帰って来て嬉しかったのか、その理由を教えて欲しいんだ」
は少しだけ目を見開いた。
桐山は眉一つ動かさない。
「…どうしてなんだ?。」
ただ唇だけを動かし、の答えを促した。
さらさらと風が吹いた。
雑踏のほとんど途絶えた夜の城岩町。
闇があたりをすっかり包み込む時刻。
どくん、との胸が高鳴った。
こみ上げてくる衝動。…あの時、桐山が「死んで見るのも悪くないと思う」、平然とそう言い放った時と同じ様に。
今度もはその衝動に抗わなかった。
は桐山を抱きしめた。
包み込むように。どこまでも優しく。
身長差があるから、抱きしめるというよりはしがみつくといった言葉が正しいような、そんな感じではあったけれど。
「…?」
腕の中で、桐山が一瞬だけびくっと身体をこわばらせるのがわかった。
そんな桐山を安心させる様に、はそっと桐山の背中を撫でた。
そうしていると、徐々に桐山は緊張を解いていった。
それを見計らい、は静かな声で言った。
「…私ね、桐山くんの事好き」
「…好き?」
「うん」
驚く桐山に言い聞かせるように、はゆっくりと言葉を紡いだ。
ずっと、言いたかった言葉だ。…気持ちの全てを乗せることはできないけれど。それでも。
「だから私は桐山くんには生きてて欲しいし、元気になって欲しいって思ってるよ。お願い。これだけはわかって。…覚えてて」
の言葉は、そこで少し詰まった。
「もう死んじゃうとか、そんな事、言わないでよ」
桐山は、の言葉を一通り聞いて―しかし暫くは黙っていた。
戸惑っていたのだ。
の言葉はさっき言った事と矛盾していた。
自分の命は自分の命。その言葉に従うならば、の言葉は何の拘束力も持たない筈。
自分が死にたいと思えば、勝手に命を捨てる事はできるーその筈。
けれどの言葉を聞いて、の泣いた顔を見て、一度は決めた事を覆してしまったのは、どうしてなのだろうか。
「逃げなさい。その女の子の為にも」
そう言った医師。
が言っていた、「自分が生きて帰ってきただけで嬉しいと思った存在」は、少なくとも一人はいた。の言葉は、間違っては居なかった事になる。
いや、一人ではなかった。―どうして忘れていたのだろう。
「…わかった」
桐山は呟いた。
の背中にそっと手を回してみた。
腕の中に誰かの存在を感じているというのは…初めてだったが、悪くないなと思った。
自分にとって、は特別な存在なのだろうと思った。
こうしてまだ生きていようと思えるのは、が自分を引き止めてくれたからなのだと。
そんな気がした。事実―そうだ。
の背中に回した手に、桐山はぎゅっと力を篭めた。
こめかみが鈍く疼き続けている。
「どうしたの…苦しい?」
が顔を上げて、心配そうに尋ねてきた。
「いや」
心臓が高鳴っていた。それには気付いたのだろう。
…それが不快なものではないと言う事を伝えるにはどうすればいいのだろうか。
桐山はしかしそれきり黙って、ただを抱きしめているだけだった。
はそんな桐山の背中を、優しく撫で続けた。
真新しい桐山のシャツの胸に頬を寄せて。
さらさらと夜風が二人の間を通り過ぎた。
何時の間にか、二人の間に言葉は必要なくなっていた。
どれくらい、そうしていただろうか。
「の家の者が心配しているんじゃないか」
おもむろに桐山が呟いた。
ははっとした様に桐山を見上げた。
鞄の中には、携帯電話。さっきから何度もかかってくるから、うっとうしく感じて電源を落としてしまったそれ。
桐山に気をとられて、はすっかり家の事を忘れていた。
「あ…」
言葉に詰まる。家に帰らないわけにはいけない。でも、桐山のことは気にかかる。
「あてはある。心配は要らない」
そんなの困惑を察したように、桐山は静かな声で言って、の手をもう一度ぎゅっと握ってから、離した。
「色々と世話になったな。…ありがとう、」
はそれでまた胸が締め付けられる様な気持ちになった。
何だか桐山が―別れを告げているような感じがして。
「桐山くん!」
「…どうした?」
は鞄の中からメモ帳を取り出すと―急いで破って、桐山に渡した。
「…これは」
「私の携帯。何か困った事あったら、すぐ電話して。ね?」
まっすぐ桐山を見詰めて、は言った。
は桐山との繋がりを断ち切りたくなかった。
「ああ」
桐山はメモ用紙をそっとポケットに仕舞いこんだ。
「…夜は危ないから、の家の傍まで送るよ」
「え?…いいの?」
「ああ。構わない」
電灯だけが灯る静かな夜の住宅街を、桐山とは並んで歩いた。
このまま…家に着かなければいいのに。
はそんな事を思った。
僅かな明かりに照らされた桐山の横顔が悲しいほど綺麗に見えた。
何かを話したかったが…こう言う時に限って、言葉は出てきてはくれなかった。
の家の前まで来ると、桐山は踵を返して去って行った。
「またな」という言葉を残して。
はその桐山の後姿が見えなくなるまで―随分と長いこと、その場に立ち尽くしていた。
また、会えるよね?…そう、信じてていいよね?
そう問いかけたかったが、―もう、遅かった。
はやがて諦めて、自分の家の方に向き直った。
「ただいま…」
相当怒られるものと覚悟してがチャイムを押すと、意外なほどの歓迎を受けた。
母親も、電話を受けて早めに仕事を切り上げて帰って来たという父親も、少しも怒ってなどいなかった。
「これ以上帰ってこなかったら…探しに行こうかってお父さんと話してたのよ」
母親は心底安心した様な顔をして、を見詰めた。
はそれで―急に申し訳ない気持ちになった。
「ごめんなさい…」
「とにかく無事で良かったな。さあ、家に入ろう」
父親がの肩をぽんぽんと叩いて促した。
なぜか、桐山の事が頭に浮かんだ。
「今の父は俺の本当の父親ではないんだ」
「本当の両親の事は分からない。ただ物心ついた時から俺の『親』は父しかいなかったし、父の言う事だけを聞いて今まで生きて来たんだ。それが当たり前の事だった」
そう言った桐山の顔はどこか寂しげに見えた。
「の家の者が心配しているんじゃないか」
桐山くんは一体、どんな気持ちで―私にそんな事、言ったんだろう。
の目元から、すっと涙が零れた。
「―、どうしたんだい」
いち早く気付いた父親が、驚いた様にを見詰めて、言った。
「ごめん、なさい…」
ぽろぽろと涙が零れた。
止まらなかった。
「もう、いいのよ?ちゃんと反省すれば」
母親も心配そうにそう言って、の頭を撫でた。
―桐山くんは、こんな風に心配してもらえる事もないんだ。
家族の優しさが、今は逆に辛く思えた。
やがて、布団に入る時刻になっても、はずっと桐山の事を考えていた。
私、ちっとも知らなかった。
桐山くんがそんなに辛い目にあってるなんて。
ちっとも知らなかったよ―。
いつも桐山は変わらない無表情だった。
自分がそんな状況に陥ったら―悲しくて、どうにかなってしまいそうなのに。
は携帯の画面を見詰めた。
着信はない。相変わらずディスプレイには時刻が表示されるのみ。
時間はもう夜の十一時を回っていた。
桐山は―ちゃんと休めているだろうか。
そう考えて―ははっとした。
「行くあてはある。心配は要らない」
―行くあてなんて、桐山にあるんだろうか。
家には勿論帰れなくて。
いつも一緒に居た桐山ファミリーの皆も、今はもう居ない。
の中には―桐山が彼ら以外に親しい人を作っていたという記憶は無かった。
あれは、もしかすると。
を安心させるための嘘だったのかも知れない。
桐山くん、ねえ、本当にちゃんと、行くあてなんてあるの―?
また胸が締め付けられるような気持ちをは味わった。
そのころ、桐山はふらふらと夜の城岩町を歩いていた。
繁華街は避けて、なるべく人通りの少ない道を選んで進んでいた。
特に目的地もないのだが。
幾つか見覚えのある建物のそばを通過した。
古ぼけたアパート。…笹川の家。
狭い庭に、一本だけ大きい木のある一軒家。―黒長の家。
そして一番馴染み深い、一階建ての家。
通りに面したその家の表札には、消えかかった字で「沼井」と記されていた。
充の、家。
それらの家は皆一様に静まり返って、人の気配もほとんどしなかった。
家を賑やかにしていた子供達が消えてしまった所為だろう。
自分が、殺した。
充たちが居なくなった今、それらの建物に自分が足を踏み入れるということはもう二度とない。
ちりっとこめかみが疼いた。
どうして疼いたのか分からなかったが。
「喪失感」と言う言葉が頭に浮かんだ。
よくファミリーの皆で溜まることがあった、月岡の父親が経営するゲイバーの傍も通った。
何となく、足を運んで見ようと思っただけなのだが。
これからが稼ぎ時というのに、その店の入り口は閉ざされていた。
「都合により暫く休業します」と書かれた紙が貼られていた。
まだ桐山は足を止めなかった。
家々の明かりが次々と消えていっても。
桐山は足を止める場所を見つけることが出来なかった。
俺の「行くあて」はどこにあるんだろうな。
桐山は目を閉じた。―俺には、よくわからないよ。
少なくとも以前まではあった様に思えた。
今は、消えてしまったけれど。
住宅街に差し掛かった。
マンションの一つに付設した、公園の隅に古ぼけた電話ボックスを見つけた。
携帯電話が普及した今となっては、もうほとんど利用される事もなく放置されているそれ。
桐山はそのドアを開けた。
受話器を持ち上げて、小銭を入れる。
メモ用紙に記された番号を押した。
そうしてみようと思った。
いや、―そうしてみたかったのかも、しれなかった。
は跳ね起きた。
バイブレーションに設定してあった携帯が照明を落とした部屋の中でしきりに着信を告げている。
携帯を拾い上げると、通話ボタンを押した。
公衆電話からだった。
しかし、一向に声が聞こえてこない。
「あの…どちら様ですか」
いつもだったら気味悪くてすぐに切ってしまうところだが、は妙な予感の様なものを感じて、
幾度ももしもし、と受話器に向かって問い掛けた。
ふうっと、溜息の様な声が受話器から洩れた。
「…俺だ…」
「桐山くん!?」
はびっくりして聞き返した。
それは確かに桐山の声であったけれど。
ひどく苦しそうな…。
「何でもない。…ただ、の声が聴きたくなったんだ」
「ねえ、桐山くん、今どこに居るの」
「用はそれだけだ。…起こして済まなかったな」
がしゃん、と冷たい音。続いてツーツーと耳障りな音。
は電話を握りしめた。
「桐山くん…」
「…どうして、なんだろうな…」
電話ボックスの中、桐山は受話器を置いた、その手をそのまま自分のこめかみに当てて、呟いた。
頭が痛かった。
無理して動いた所為で少し熱が出てきているのだろうと思った。
体が重く、ひどくだるい。
どこかで休みたかった。
どこか。―きっと今は。
桐山は電話ボックスを出て、少し気を抜けばすぐに倒れてしまいそうになりながら、ふらふらとベンチに向かって歩いた。ベンチに腰を下ろした。父親の追っ手が迫ってきているかも知れないという危険も、今は思考の隅においやって。ただ今は―疲れた。休んでいたかった。
さっきに抱きしめられた時の事を思い出した。
出来る事なら、もう一度…。
自分で自分の身体を抱きしめて―桐山は目を閉じた。
つづく
後書き:暗い上にお決まりなパターンになってしまいましたが。佳境に入ってきました。
自分の命が大事だと思えなければ人の命の大事さだって分からないと思うのです。
桐山が簡単にコインでゲームに乗る乗らないを決めてしまった点を考えても、桐山の周りにはっきりとした善悪の基準を示唆してくれる人物がいなかったせいかと思ってみたり。
…暫く弱いボスですがご勘弁を。