面影
桐山の家は、ある程度予想はしていたけれど、それを遥かに上回るーまるでどこかの高級ホテルみたいな、見事なお屋敷だった。敷き詰められた紅い絨毯が目に眩しい。
入ってすぐに、数人の使用人の歓迎を受けた。
「おかえりなさいませっ、和雄様」
「いらっしゃいませっ。ようこそおいでくださいました」
かしこまってそう挨拶されると、かえってこちらのほうが恐縮してしまう。桐山のほうは慣れているのか、いつもの無表情を崩さなかった。頭を下げる使用人たちに目もくれずに歩いていく。は軽く会釈しながらその後を追った。
スタスタと長い廊下を進む桐山に置いて行かれないように、は小走りで歩いた。螺旋階段を登り、少し進んだ所で桐山は立ち止まった。「ここが、オレの部屋だ」
桐山が開けたドアの向こうには進む。白で統一された家具が最低限並ぶ、小奇麗な部屋。そこが桐山の部屋だった。
「お茶をお持ちしました」
30代前半くらいの、小柄な女性が一礼して入ってきた。高級そうなポットと、ティーカップが二つ。それに菓子が添えられていた。女性がポットからカップにお茶を注ぐ。紅茶のとてもいい香りが漂ってきた。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
お茶を勧められるとき、その女性と目が合った。女性がどこか寂しそうな目をしていることに、は気づいた。女性はすぐに目を逸らしてしまったけれど。
女性が出て行った後、は桐山に勧められてソファに座った。ふわりと座り心地の良い、白いソファ。広い部屋に、最低限の家具。の部屋とは大違いだった。
「いいねえー桐山くん、こんな素敵な所に住んでるなんて」
「そうか?」
「うん。凄いうらやましいもん。広いしきれいだし」
「…オレは、の部屋のほうに、興味がある」
「え?私の部屋?ぜんぜんつまんないよ?」
「今度、見せてくれないか?」
「えっ?別に、いいけど」
今日の桐山は積極的過ぎておかしいくらいだ。嫌な気持ちではなかったけれど。
「…他の部屋を案内する。」
桐山がさっとベッドから立ち上がり、ドアを開けたので、慌ててその後を追った。
桐山の家は、やっぱり庶民の生活とはかけ離れていた。敷き詰められた土に熱帯植物が植えられた温室や、何往復も出来るプールがあったり、ざっと100人は入れそうなパーティルームがあったり、他にも色々と。
しかし、それらの部屋に共通しているのは、そこはかとなく漂う、寂しい雰囲気だった。こんなに広い、立派なお屋敷なのに、この家はどこか静かで寂しい。
「ここが図書室だ」
図書室がある家なんて、いったいどれくらいあるだろう。
学校にあるそれとほぼ変わらない、いや、それ以上の規模を持った図書室を目にして、は改めて桐山財閥の偉大さを知らされたような気がした。背の高い桐山の更に上、天井まで届きそうな高さの本棚にびっしりと分厚い本が並んでいる。幾つか、にはわからない字で書かれたタイトルもあった。
それらの本に目を奪われながら、しかしはその本棚の並ぶさらに一番奥の、壁にかけられた写真にそれ以上にひきつけられた。
「…すごい綺麗な人…」
その写真は肖像画のように、見事な額縁に入れられていた。肩につくほどの髪にふわりとしたパーマをかけた婦人が写っていた。彼女は優しい微笑みをたたえて、こちらを見詰めていた。レースのキャミソールから覗く胸元がとても豊かで、同性のでも見とれてしまう。
「母だ。」
「え?桐山くんの…お母さん?」
言われて見れば、その美しい顔に、どこか桐山の面影があった。長い睫に縁取られた大きい目、形の良い鼻、薄く上品な口唇。…そっくりだ。彼は、母親似なのだろう。桐山が、の後ろから、静かな声で言った。
「オレが五歳のときに亡くなった」
ははっとして写真に写る女性と、桐山とを見た。写真の中の美しい女性は、相変わらず慈愛に満ちた表情で、こちらに向けて微笑んでいた。
「ごめん。…辛いこと聞いちゃったね」
「気にするな。」
は桐山を心配そうに見上げた。彼がお弁当を持ってこなかったわけが、こんな理由だったなんて。
には当然のように母親が居て、いつもお弁当を作ってくれて。よく些細なことで怒られたりもするけど。…当たり前のように存在していて。
「…寂しいよね」
あんまり深追いするつもりはなかったけれど、思わず、その言葉が口をついて出た。
「…オレには、よくわからないな」
写真を見上げ、桐山は呟いた。その顔を見て、胸が締め付けられるような気持ちになった。…やっぱり、寂しそうに見えた。
気がついたら彼の大きな手を握っていた。
冷たくひやりとした手。彼はちょっと驚いたような顔をしたけれど、黙っての手を握り返した。彼のとても長い睫が幾度か上下したあと、すっと伏せられた。
「…十年前も、同じだったな」
「―え?」
「は…オレを…」
―?
桐山の言葉がその時よく聞き取れなくて、は彼を見上げ、首を傾げた。
「…いや、何でもない。気にするな。」
桐山はの手を一度ぎゅっと握ってから、離した。彼はまだ何か言いたそうな顔をしているように見えたけれど―、それ以上何も口にしなかったので、も何も聞かなかった。
やっぱり今日の桐山はいつもとどこか様子が違った。家に来ないか、と誘ってきたときからなんだか不思議に寂しそうだった。最初はよくわからなかったけれど、この家に来てから、疑問が晴れたような気がした。桐山は―寂しいのだ。表情にこそ出さないけれど。
だから、自分に構ってほしいような態度をとるのだろうか―?
「……」
さして低くない、よく通る声で―桐山がの名を呼んだ。
気がつくと桐山の綺麗な顔がすぐ傍まで迫っていた。ドキドキと心臓が高鳴ったが、それ以上に、何だか彼が切なそうな顔をしているのに、は戸惑った。
「…側にいてくれないか」
彼のしなやかな両腕が、そっとの身体を包み込む。一瞬どきっとしたけれど、は抵抗しなかった。
桐山の広い背中に手を回して抱きしめた。母性本能をくすぐられる―そんな言葉が頭に浮かんだ。少し変わっていて、けれどとても綺麗な顔をしていて格好よくて、何でも器用にこなして―それなのに何かが足りないような―不思議な危うさを持つ彼に、は保護欲を掻き立てられた。彼が可愛く見えて―抱きしめたいと思った。胸に抱きしめて、優しく頭を撫ぜてあげた。
「…うん」
彼は大人しくのなすがままになっていた。広い額をそっとの胸にくっつけて、ぴたりと寄り添った。
幼児が母に甘えるそれのように。
城岩町随一の屋敷は、昼間でもひっそりと静まり返っていた。十年前の事故を境にそれまでいた使用人のほとんどに、主は暇を出してしまった。今残っているのはごく僅かな人数である。
「…和雄様がご学友を家に連れてこられたのは、初めてでございますね。」
この屋敷にもっとも長く勤めているメイド―先ほどにお茶を持ってきた女性、が食器の後片付けをしながら切り出した。
「ああ。あの和雄様が―」
白髪混じりの執事がそれに答えた。
「本当に。…良かった…奥様が亡くなられてから、和雄様はずっと塞ぎこんでおられましたから」
「…もう、あれから十年になるんだな」
執事は遠い昔を思い出すかのように、視線を白い壁に移した。そこには、家族三人の笑顔の写真があった。桐山財閥の総帥にしてこの屋敷の主、桐山隆裕と、その夫人、桐山真梨子、そしてまだ四歳だった、幼い桐山和雄。彼は満面の笑顔を浮かべていた。両親の愛を一身に受け、幸せの真っ只中に居た頃の写真。執事はため息をつき、続けた。
「…あれから一度も、私たちは和雄様が笑っているお顔を、見た事がない。やはり、実の母親を亡くされた心の傷は深かったのだろうな」
「旦那様も、あれからお仕事で屋敷を空けられることが多くなりました」
「私たちも、和雄様とどう接してよいものか、わからなくなった…あれほど活発で生き生きとしておられた和雄様が…あの事故を境にすっかり変わってしまわれたから…」
「もう一度、和雄様の笑顔を見られる時は、来るのでしょうか…」
写真の中で生き生きと微笑む少年と、一切の表情を無くした現在の桐山和雄を想い、二人の使用人は悲しい顔を見合わせた。
つづく
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