「…十年前も、同じだったな」
 「―え?」
 「は…オレを…」
 
 
 
 桐山は以前、を名前で呼んだことがあった。彼の家に行った、その時だ。
 十年前。
 あの時は訳のわからぬまま終わらせてしまった。彼がまるでずっと以前から自分を知っているかのような口ぶりで話していたことを、は思い出した。

 桐山くんは十年前から私を知っていた―
 でも、いったいどこで?どうして?

にはまったくその記憶がなかった。

 「母は、オレが五歳のときに亡くなった」

 「ママは、僕を置いて行っちゃったんだ」
 
 桐山の声に、聴き慣れぬ幼児の声が、重なった。


  ―あ。
  は頭を押さえた。意識が遠のき、そのままそこに倒れ伏した。




 


 ここ…どこ…?

 気がつくとは見知らぬ場所に居た。

 白い廊下、走る看護士と医者たち、どうやらここは病院らしい。なぜ自分がこんな場所に居るのか、いまひとつ理解できなかったけれど。

 戸惑っていると、1人の子どもが集中治療室へと運び込まれていった。たくさんの点滴を繋がれ目を閉じたその子どもにの目は釘付けになった。

 かわいそう…あんな小さいのに…

 子どもは五歳に届くか届かないかの年に見えた。



 はぽつんとひとり取り残された。集中治療室は「手術中」と赤いランプが灯っていた。先ほどの子どもが手術を受けているのだろう。 子どもは頭に怪我をしているようだった。命に関わる怪我であることは明確だった。

 大丈夫かな。あの子…

 は改めて、自分が居る場所を見廻してみた。かなり大きな病院らしい。ぼうっと立っていると、やがて、走ってきた人物にぶつかった。

 「あ、すみません」

 はあわてて謝罪したが、ぶつかった人物はにまるで気がついていないように、先ほどの集中治療室へと入っていった。

 「和雄!!」

 部屋の中から声が聞こえた。

 ―和雄?

 はその名前を知っていた。






 それから、どれくらいの時間が経っただろう。
 は集中治療室から少し遠のき、一般病棟のある階を歩いていた。
 病院の掲示板に貼られたカレンダーは十年前の日付を示していた。

 …これって、どういうこと?
 つまり、私は…

 「過去」にやって来たということなのだろうか。
 
 はある病室の前で足を止めた。
 個室のその部屋の扉には「桐山和雄」の文字があった。
 
 ―え?

 驚いて、はノックもなしにその病室のドアを開けた。

 ベッドに上半身を起こした子どもがいた。


 その子どもは頭に包帯を巻き、無表情でを見詰める。先ほど集中治療室へと運ばれていた子どもだった。

 「あなた、桐山和雄くん…?」
 子どもは無表情のまま頷いた。その目元がどことなく桐山と似ていた。ひどく冷たく、暗い。



 やりにくさを感じないわけではなかったが、無表情の相手は桐山の相手で慣れていたので、は恐れずに手を差し出した。「傷、痛い?大丈夫?」

 「ママ…」
 「え?」

 突然子どもが抱きついてきた。は驚いてその子どもを見つめた。
 驚くに、子どもはぽつりと言う。
 「ママと違う。ママより胸が小さいもん」

 は呆れた。子どもでも気にしていることを言われたらかちんと来る。
 「あのね…」

 しかし子どもはぎゅっとに抱きついて、言った。

 「ママは、僕を置いて行っちゃったんだ」
 「…え?」
 「さっきまで、いっしょにいたんだ、でも、ママは死んだって、パパが言ってた」

 この子のお母さん…死んじゃったんだ…

「ねえお姉ちゃん、僕もママのところに行きたい。なんだか頭の中が真っ暗で、気持ち悪いんだ。怖いんだ。でも誰も助けてくれないんだ」
 子どもはどこか生気の抜けた人形のような瞳をまっすぐに向けていた。
「僕が生きてるイミなんてあるの?こんなに寂しいのに。僕は一人ぼっちなんだ」

 幼い子どもが話しているとは思えない残酷な言葉に、は胸が痛くなった。

 最愛の母親との離別は、幼いこの子の心をひどく傷つけていたのだ。おそらくは、身体の傷以上に、この子にとって母親との別れは辛いことなのだ。
 「…そんなこと…言わないで」
 包帯でぐるぐる巻きになった、幼児の頭をそっと胸に抱きしめた。
 「生きていたら、悲しいこともいっぱいあるけど、楽しい事だってたくさんあるんだよ。大好きな人に会えたりもするの」

 は急に桐山の事を思い出して、胸が詰まった。母は亡くなった、そういったときの桐山の目と、この子の目は同じものだった。
 この子は、…桐山くんだ。桐山くんなんだ。
 

 「大好きな人、お姉ちゃんにはいるの?」
 
 尋ねられて、は少し戸惑ったが、頷いた。

 「うん。いるよ。一緒に居ると、すごく楽しくて、心があったかくなる人が」

 ―桐山和雄のことを、は思い出した。
 初めて会ったときは、ただ「変わった人」としか思えなかった。けれど、会う回数を重ねるうちに、不思議と惹かれていった、あの人。
 



 子どもは首を傾げて、言った。「じゃあ、僕お姉ちゃんの事好きになるよ。そうしたら、僕もまた、心があったかくなるかなあ?」
 は子どもを抱きしめた。抱きしめずにいられなかった。

 「うん、ありがとう」

 「お姉ちゃん、僕、きりやまかずおっていうんだ。僕のことは和ちゃんって呼んで。ママがそう呼ぶんだよ」 
 「…和ちゃん」
 は慣れない調子で呼んで、和雄の頬を撫でた。和雄は相変わらずにしがみついたままだった。

 暫く一緒に居ると、外からドアをノックする音が聞こえた。「和雄」低い声がする。
 「パパだ」和雄が呟く。
 はドアを開けようとして、はっとした。自分の身体が透けてきたのだ。和雄は目を見開いて立ち上がった。
 「待ってよ、お姉ちゃん。お姉ちゃんも僕を置いていってしまうの?」

 点滴の繋がったままの腕を伸ばし、和雄は叫んだ。は泣きそうになりながら応えた。

 「和ちゃん、また会えるよ。私、私の名前はだよ。覚えてて。また会えるから。それまで、待ってて。ちゃんと生きてて」
 
 最後の言葉が和雄に届いたかも分からぬまま、は現実の世界に引き戻された。


 は桐山の傍らで目を覚ました。何だか、とても長い夢を見ていたような気がした。長くて、悲しい、夢。
 いつのまにか桐山が目を開いていた。
 
 「…。」
 「桐山くん…」
 「ずっと、ついていてくれたんだな」

 桐山は手を伸ばしての頬に触れた。はその桐山の手を取った。
 「桐山くん、もう、身体の調子はいいの?」
 「ああ。…もう、大丈夫だ」

 桐山はふうっと一つ息をついた。
 「…夢を、見ていた。そして、全てを思い出したんだ」


 つづく



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