「ずっと、ついていてくれたんだな」
桐山が穏やかな声で言った。
「桐山くん…私…私ね…」
夢の話をしようとして、しかし、涙で声が出てこなかった。自分と桐山は、遠い昔に会っていたのだ。幼い子どもの姿ではあったけれど、あれは確かに桐山和雄だった。
「十年前。オレは五歳の誕生日に、事故に遭った。高松のデパートで、誕生日プレゼントを買って もらった帰りのことだった。一緒に乗っていた母と、運転手が死んだ。オレも頭にガラスの破片が食い込んで、何日も生死の境を彷徨ったらしい。」
桐山は淡々と語り始めた。過去に起きた出来事を。
「目が覚めたときには、全てが終わっていた。母の葬式も。母が居なくなってもオレは泣けなかった。それまでとオレは何かが変わってしまったんだ。それまでは泣けたし、笑えたのに。何も感じられなくなってしまった」
「桐山くん」辛そうに遮ろうとしたを制し、「いいんだ。話させてくれ」
桐山は続けた。
「頭の中が真っ暗になって、何も感じられないのに、ただ怖いことだけは分かった。誰かに傍にいて欲しかった。でも誰が見舞いに来ても、喋ることが思いつかなかった。みんな、悲しそうな顔をして、二度と来なくなった。オレは母に無性に会いたかった。母が死んだのなら、オレもそこへ行きたいと思ったんだ。なぜオレが助かったのか、その意味がわからなかった」
「僕が生きてるイミなんてあるの?」
幼児だった桐山が言っていた言葉を思い出した。―何も感じられない。桐山の言った言葉の意味はよくわからなかったけれど、彼が常人離れした冷たい目をするわけに何か関係があるのだろうか。
「桐山くん…でも」
「…だが」
桐山はを見つめて、言った。
「に会えた。」
は目を丸くした。
桐山は、の手を取った。
「にもう一度会うまでは、生きていようと思ったんだ」
「じゃあ、僕お姉ちゃんの事好きになるよ。そうしたら、僕もまた、心があったかくなるかなあ?」
幼い桐山が口にした言葉。桐山はあのときの事を覚えていて―初めて出会ったときから覚えていて、自分に接してきたというのだろうか。
「そしてにこうしてまた会うことが出来た。礼を言う。がいたから、オレは生きていられたんだ」
胸が高鳴る。幼児だった桐山と、こうして成長した桐山。彼に惹かれたのは偶然なんかではなく、必然のことだったのかもしれない。
「…桐山くんは、ずっと、待ってたの?」
「ああ。…そうだ」
は桐山の手を握り返した。赤い糸なんてものがあるなら、きっと、これがそうだ。桐山と出会ったことは。
「だからきっと、今度も大丈夫だ。生きていられる」
「―え?」
「。オレは、手術を受けようと思う」
その頃桐山家では、久々に帰ってきた主、桐山隆裕が、極秘裏に通じている米帝国と連絡を取っていた。仕事が繁忙期を過ぎたとはいえ、昼間に帰還したのは何年ぶりのことだろう、屋敷の者たちは訝った。ただ、電話の相手を誰も知らなかった。
「何。…それは本当かね。…目覚めたのかね。やっと、やっと…」
隆裕の両目から涙が零れた。
「…旦那様。どうかなされたのですか」
「…十年前の秘密を、今、話そう。私と向こうの人間以外知らなかった秘密だ。」
桐山は一年ほど前、脳の精密検査を受けていた。その結果、それまでの技術では見落とされていた脳の微細な神経の損傷が発見された。感情を司る神経が傷つけられ、断ち切れてしまっているという。それを繋ぐ手術を受けなければ、生涯感情は不自由なままになるという。
はその事実を桐山から聞かされたとき、ショックを隠しきれなかった。桐山が感情欠落者だったということ、そうして、そうなってしまったために彼が味わった孤独感を思って。
「何だか頭の中が真っ暗で気持ち悪いんだ」
そんな思いを背負って、桐山は十年間も生きてきたのだ。
「…桐山くん、辛かったでしょう?」
「…よく、わからない」
桐山はその「結果」を知りながらも、それから暫くの間手術を受けることを拒んだ。どうでもいいことだと思っていたからだ。父は強く勧めてきたが。
しかしここに来て考えを改めたのはと出会ったことが大きかったかもしれない。と過ごしているうち、自分の中に存在する違和感をどうにかしたいと思ったのだ。何をしていても、何も感じない―そんな自分を変えようと、思った。
執刀医は、隆裕が高額の手術代を払って呼び寄せた、「ブラック・ジャック」こと間黒男だった。無免許ではあるが、今まで数々の難解な手術を成功させた実績を買われての抜擢だった。
「脳の傷は治せる。しかし、心の傷は、私には治せないっ…」
ブラック・ジャックは桐山の脳のスキャン図を指差しながら、言った。
「もし神経が治ったとしても、空白の十年間を埋めるのは、君自身だ。いいね」
「はい。わかっています」
執事とに見守られながら、桐山は手術室に向かった。急用で外国に行くと言った父親はまだ戻らない。それでもよかった。桐山はがいてくれればそれで十分に安心できた。手術はきっと上手くいく―そんな確信がなぜかあった。
「ちゃんと、帰ってきてね。絶対だよ。絶対だよ。」
涙をこらえながら桐山の手を握り締めるに、桐山は静かに返した。
「ああ。大丈夫だ。必ず帰るよ」
桐山くん。
ちゃんと無事に帰ってきてね。
そうしたら「おかえり」って言うから。
「ただいま」って言ってね。
「…おかえり」
「…ただいま…あなた」
十年前からずっと眠り続けていた、年を取らなかった「妻」は、白髪混じりの夫を見詰めて呟いた。
「…なんだか、とても長い夢を見ていたような気がするわ」
妻の両目から熱い涙が零れる。彼女は横たわったまま、その白い両腕を持ち上げた。赤子を抱こうとする、母の姿勢だった。
「和ちゃん。…和ちゃんに、会いたい」
「ああ、今すぐ、会いに行こう。…お前がいない間、和雄にはとても寂しい思いをさせてしまった…今からでもきっと遅くない。生きている、元気なお前の顔を見せてやろう。…きっと、あの子は喜んでくれる」
隆裕は、桐山の手術にはもう間に合わないけれど、目覚めたばかりのその女性を連れて日本へと向かった。
つづく
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