Home Sweet Home

 「おかえり」

 頭に包帯を巻いた桐山は、安堵に満ちたの顔を見て、その声を聞いて、漸く自分が帰るべき場所に戻ってこられたような気がした。 十年分の涙が瞳から零れ落ちた。手術は無事成功したのだ。
 「…ただいま」
 桐山は自分の声が僅か掠れていること、が自分の手をぎゅっと握り締めて泣き出したことをぼんやりとではあるが理解した。手術の麻酔で、まだ意識はぼうっとしている。ただ、の手が温かくて―力をこめて握り返した。
帰ってきたのだ…

 あの日以来、ガラス越しのようにしか見られていなかった、「この世界」に。

 「…
 「…桐山くん…よかった…本当によかった…」
 「…ありがとう、
 桐山は肩を震わせて泣くの頬を、そっと撫でた。
 「…母さんも…生きていたら…オレが治ったことを喜んでくれたのかな…」
 まだ不自由ながらも、再生されたのは「悲しい」という気持ちだったのかもしれない。凍りついた感情。母への愛慕は、感情を持ち続けていたならば押し込めようのないものだったかもしれない。

 「…桐山くん」
 「いや。…すまない、もう、過ぎたことだ…母はもう、帰ってこない。」

 桐山は自分の目から、もう一度しずくが伝うのを感じた。

 「。…苦しいものなんだな、感情が、戻るというのは。」
 「…うん。そうだね、苦しいよね。…悲しいよね…」

 は桐山の言葉にただただ頷き、涙を拭った。自分まで泣いては桐山を悲しませてしまうという判断かららしい。桐山の手を握って、言った。「でも私は、桐山くんが帰ってきてくれて、本当に嬉しいよ…」柔らかく温かいの手は、桐山の冷えた手を暖めてくれた。
 
 「…ありがとう、
 
 桐山はの手を握り返した。



 それから暫く二人で居た。も桐山も何も話さず、ただそこにいた。桐山はようやく溢れ出した涙を止めることが出来た。感情のコントロールを覚えるのには時間がかかる。桐山は生まれたばかりの赤ん坊に戻ったような心地での手を握り締めた。の手は桐山のよるべない想いを癒した。

 「…お医者さん、呼んでこなくちゃね。桐山くん、大分長いこと眠ってたから、みんな心配してるよ」
 「そうだったのか…すまないな」
 「…あやまらなくていいんだよ」
 「…そうか」

 桐山が頷きつつ立ち上がった。は桐山の体を支えてあげた。

 「歩ける?」
 「ああ。大丈夫だ」
 「じゃあ、少し外の空気でも吸いに行こうか」

 に連れられ、桐山が病室のドアを開けようとしたとき、その声は聞こえた。
 

 「和ちゃん」
 

 ドアの向こうから声がした。も桐山も驚いてその声の主を見詰める。そこには、桐山邸の図書室に飾られていた写真の女性―桐山の 母親が、写真そのままの笑顔で立っていた。

 「…マ…母さん?」
 「もう、ママって呼ぶ年じゃなくなっちゃったのね。少し寂しいわ。でも、とっても嬉しい」
 母の瞳からも涙が零れた。「大きくなったわね、和雄。ひとりにしてごめんなさいね。」
 「…母さん」

 あの日、死んだはずの母が目の前にいる。写真でしか観ることの出来なくなった母が、そこにいる。桐山は驚きを隠せなかったけれど―その現実を受け入れる前に、その傍に駆け寄った。「母さん…なのか?」

 女性は頷いた。そして手を伸ばした。「ただいま…和雄」

 桐山の母、真梨子は、十年振りにわが子をその腕に抱きしめた。二十九歳という若さで一度その人生を止めた母と、五歳の幼児から、十年の年月を経てたくましい十五歳の少年へと成長した息子とは、年の離れた姉弟のようにも、見えた。

 しかしお互いに感じ取ったものは―離れていた年月など問題にならないくらい強い、「血」の絆だった。
 「…ううん、あなたには、傍にいて、大切に想ってくれる人がいたのよね。…家のみんなから聞いたわ」

 驚いて立ち尽くしていたままのに、真梨子は優しい声をかけた。

 「ありがとう。あなたがいたから、私の大切な和雄は生きていてくれた。そうして、また会えたわ。ありがとう、ありがとう」
 桐山の母は、次にも抱きしめた。

 「私にとっては、あなたもとてもとても大切な子だわ…」
 もう一度言った。「ありがとう、ちゃん」
 美しい桐山の母を見詰め、は何度も何度も、頷いた。「私こそ…」

 病室の入り口には、大切な息子と妻の対面を目に涙を溜めて見守っている年老いた隆裕の姿があった。何もかも満たされて、幸せだった、十年前。そして一気に不幸のどん底に叩き落された、十年前。あれからしばらく、自分は表情を失った息子と、目覚めぬ妻という現実から逃れようとしていたかもしれない。
 家庭を顧みず仕事に集中するようになって―業績は上がり、会社はより強大なものとなったが―自分が求めていたものは、十年前と少しも変わっていなかった。

 大切な妻と、大切な息子の幸せだった。

 桐山の母、真梨子は、即死こそ免れたものの、あの日からずっと昏睡状態のままだった。意識が戻ることは二度とないだろうとすら言われた。けれど隆裕は、どうしても妻の死を受け容れることが出来なかったのだ。

 「大東亜の治療技術で真梨子を救うことが出来ないのなら、米国に送ろう。いくら時間がかかろうとも、真梨子を目覚めさせてくれるなら、私はいくらでも払おう。」
 大東亜有数の大企業のトップに君臨し、謙虚で誠実な人柄―人望も厚く、誰からも尊敬と信頼のまなざしで見詰められる男、桐山隆裕は、妻と息子を想う時は自分の立場を忘れていた。このことを政府に咎められようと、たとえ財閥の総帥という立場を失うことになろうとも、妻を救いたかった。

 真梨子と共に米国に渡るよう命じられた側近のひとりが尋ねた。
 「和雄様には…」
 「このことは、内密にしなければなるまい。…表には、真梨子を米国に送ったことを知られてはならない。…亡くなったことにしなくては。後のことはそれから考える。」

 傷ついた妻の寝顔を見つめ、まだ意識の戻らない息子を思いながら隆裕は言った。
 「和雄には…辛いだろうが、真梨子が目覚めるまで、寂しい思いをさせてしまうだろうが…」

 執事を始めとする桐山家の人々すべてに内密のまま、事は進められ、形ばかりの葬儀はひそかに行われた。

 「きっと家族で笑い合える日がまた来ると、信じているよ。私は」

 妻の目覚めと息子の目覚め―奇しくもそれがほぼ同時に重なったことに動揺しつつも、隆裕は思った。
 「奇跡というより、他にない」



 隆裕はブラック・ジャックにその話を聞かされたとき、驚きを隠しきれなかった。
 
 「お父さん、息子さんの手術は成功しました。だがしかし、それは私の力だけではない…」 
 
 彼は心底感心するように言った。「本当に信じられないことだが…この一年間で、微細な脳神経の損傷は回復しつつあったのです。限りなく細い糸でそれは繋がれていた。それがなければ、手術は出来なかった。息子さんを変える何かが、この一年の間にあったんだ」

 「先生…私には和雄のことはよくわかりません。家でも何も話さなかったし…いいえ、私は和雄という現実と向き合おうとしていなかったのかもしれません。私にしてやれたことといえば、手術代を支払ったことくらい。父親として失格です。」
 「…それなら、息子さんとこれから話し合えばいいことだ。空白の十年間を埋めるのは、彼と、それから彼の周りの人々の力だ」

 ブラック・ジャックは去り際に言った。「人は一人でなど、生きていけないのだから」



 


 桐山の傷も癒えたころ、桐山家では彼の回復を祝うパーティが催された。
 一次会には多くの人々がつめかけ、にぎやかであったけれど、二次会は家族三人と、それに桐山ファミリーの面々で和やかに行われた。


 真梨子は不良である桐山ファミリーを咎めることはしなかった。彼女いわく、「和雄の大切なお友達」だそうだ。

 「充君には、将来和雄のボディガードになって欲しいわね。黒長君は料理係、笹川君は運転手、月岡君は…そうね」
 「嫌ですわお母様、月岡、じゃなくて彰、って呼んで頂戴。私は夜はお店があるから、昼間のお仕事でよろしくね♪」
 「あらごめんなさいね、じゃあ、彰ちゃんは私の話し相手になってくれるかしら。とっても気が合いそう」

 「オレ、お母さんとボスとをちゃんと守るッスよっ」
どん!と胸を叩いて充は目を輝かせた。「充ッ…」桐山がククッと首を傾げながら言う。
 「お前にも、世話になったな。これからも宜しく頼む」
 「勿論ッス」二人は固く握手をし合った。

 はその光景をほんの少し奇妙なものに感じながらも、笑顔を見せた。
 「もう、みんな仲良いんだから!」「当たり前だっ…」
 充も笑顔を見せる。桐山は僅かに目を瞬かせた。

 真梨子と隆裕は仲良く並んでその様子を眺めていた。

 「あらあなた。ちゃんに見とれてるの」
 「いやいやそんなことはない。私は、君一筋だ。」
 照れ隠しにひとつ咳払いをしてから、隆裕は真梨子の手を取った。もう何年前になるか分からない昔、彼女に言ったプロポーズの言葉を、口に出す。
 「…愛してる」
 「もう、昼間から何を言っているの」

 真梨子は桐山とを見詰めた。あんなに小さかった息子が、こんなに大きく格好よくなって。…いつのまにか、素敵なガールフレンドまで連れていて。何だか少し寂しい気持ちだけれど。

 「…私は、あなたがいるから、いいわ。」
 隆裕の腕に自分の腕を絡ませて笑う。
 「一番辛いときに、あの子のそばに居てくれた。ちゃんになら、あの子を任せられるわ」
 「真梨子…」

 桐山とは二人仲よく並んで、真梨子が作った特製のチーズケーキを食べていた。
 「美味しいね」
 「ああ」

 黒長はもう何個かおかわりをしていて、充に「博っ、お前ちょっとは遠慮ってものを」とたしなめられていた。
 「仕方ねえだろ〜、オレ、こんなに美味えもん、今まで食ったことねえんだもん」
 「た、確かに美味いけどな。…すごく」
 充はそっぽを向いた後、言った。
 「や、やっぱりオレも、おかわりお願いします!」



 「なんか私、すごい、すごい幸せ」
 「のお陰だ」

 「あの日、と出会わなければ、オレは自ら命を絶っていたかもしれない。だがあそこで、と会えた。にもう一度会うまでは、生きていなければ、と思ったんだ」
 「…あの日、私がどうして和雄の子どもの頃に行けたのかわからない。でも、本当によかったよ。和雄が生きててくれて、お母さんが生きててくれて。みんなでこうして居られて」

 「…今は、分かる。オレは、嬉しいと感じている」

 桐山は、感情を取り戻すことが出来たけれど、以前のように豊かな感情表現は出来ていなかった。楽しいと感じても、周りの人のように笑うことは出来なかった。けれど、手術する前であればぽっかりと空いたままだった何かが埋められたことは強く感じていることらしい。今はの前で笑顔の練習をしてみたりしている。は決して焦ることなく、桐山が治るまで見守り続けようと思った。
 「十年分、たくさん嬉しいこと感じて。幸せになろうね、和雄」
 「…あぁ。だから、傍にいてくれないか。。」

 「…うん」

 は桐山にぴたりと身を寄せた。恥ずかしいだとか、そういう気持ちを桐山の側にいるときは忘れることが出来た。大好きな彼と一緒にいられる幸せな気持ちが、それに勝っていたから。
 「。…」
 桐山がの頬に口付け、そっと何事か囁く。「―え?何?和雄。」その言葉がよく聞き取れずにが顔を上げると―そこには、あの日以来待ち望んでいた、一番が見たかった光景が、そこにはあった。
 
 「…和雄…」

 柔らかくて暖かい笑顔。

 の表情を、出会ってからずっと見つめてきた、無表情の自分を恐れずに優しく微笑みかけてくれたの笑顔の記憶を、桐山は再生してみせた。

 「。オレは今、…とても、幸せなんだ」
 桐山の腕に抱きしめられて、は何度も何度もうなずいた。
 「和雄。和雄…私も、私もすごく幸せだよ。和雄に、会えてよかったよ…」

 涙がぽろぽろとこぼれた。
 幸せなのに、どうしてか涙がこぼれた。桐山の大きな手が、その涙をそっと拭う。「…」彼の笑顔はとても優しくて―切なくなるくらい優しくて。その笑顔をこれからはずっと見られるのだという幸せな思いが胸にこみ上げて。は涙を目に溜めたまま、微笑んだ。

 甘くて優しい思い。
 甘く幸せな気持ちは、続けば続くほど、もっと癖になる。
 紅茶に砂糖を何杯でも入れてしまう気持ちに、それは似ている。
 最初はわからなかったけれど、その「感覚」を取り戻すことで、与えられた甘い砂糖の味を、ようやくわかるようになった。ずっと注がれていなければわからなかった気持ち。


 「Suger High」 完






後書き:

終わりました。色々不本意な部分はありますが、連載始めて約二年半でようやく完結です。
途中に漫画版の桐山の過去が出てくるというハプニングが起こったため大幅に軌道修正が必要になった
この作品ですが、「桐山を幸せにしたい」という私のわがままでこんな結末になりました。
原作ではありえない展開ですが、こんなものでも桐山ファンの想いのひとつの形として受け取っていただけたら幸いです。
ここまで読んでいただきありがとうございました。

2007年3月27日 月乃宮 玲

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