雨が降っていた。

一日晴れたかと思えばその次は雨、そんな日が一週間近く続いていた。
は買ったばかりの傘を差し、濡れた通学路を歩いていた。注意しないと、そこら中に
水溜りがあって、うっかりはまり込んでしまうこともあった。黒いセーラー服は雨水を含んでじっとりと重く湿っていた。
早く家に帰ってシャワーを浴びて着替えたいな、そんなことを考えながら、早足で家へと向かっていた。

暫く歩き、は小さくあ、と声を上げて、立ち止まった。
前方に男が居た。
金髪の男。男は道の端に突っ立って、ぼうっとしている。その視線は昏く、どこに向けられているのかいまいちわからない。

ざあ、っと雨が勢いを増した。
男は傘を差していなかった。男の髪はすっかり濡れて、水滴が滴り落ちるほどだった。それにもまったく無頓着で、男は
雨の中一人で立っている。
焦点の定まらない瞳は、狂気の色をうっすらと含んでいた。

…まともな人間じゃない。
は一呼吸置いて、後ずさった。本能的に、はこの男の危険さを察知した。



帰りの学活で、担任が「最近この町の近くで殺人事件があった。皆も十分注意して、一人ではなるべく帰らないように」
そう渋い顔をして言っていたのが思い出される。調べ物をしていて、気がつけば下校時刻を過ぎていた。
嫌な汗がの額に浮かんだ。男と目を合わせないようにして、きびすを返す。
背後から、何か見詰めてくるような気配がしたが、無視した。
走り出した。雨水が跳ね返って白い靴下に染みを作ったけれど、それにも構わず、走った。
家に着くまでは立ち止まらなかった。


次の日も雨は上がらなかった。

太陽が雲に覆い隠された日は、昼間でもうす暗い。
教室で、欠席が目立った。雨の日は授業を受ける気がしないのか。それとも本当に
体調が悪いのか。どちらかは判らないけれど、がいつも一緒に帰る女子も姿を見せなかった。
は溜息をついた。憂鬱だった。一人で帰るのが怖い。もう中学生にもなって、ひどく情けない話だけれど、
昨日の男がまた居たらどうしようという思いが頭を掠める。
それでも学校に何時までも居座るわけにはいかない。

学校を出る頃には、雨は土砂降りになっていた。

は早足で歩いた。あの男が居た道は避けた。多少遠回りになっても、仕方のないことだった。

…それなのに。
もう一度会うすることになるなんて。

男は昨日よりもいくらか学校よりの道に、同じようにひとり佇んでいた。
また傘を差していない。
…いったいこの男は、何の目的でこんなところに居るのだろう。


美しく整った顔立ちは、どこか危険なものを感じさせた。
何をされたわけでもないけれど。
が男に気がつかないふりをして、通り過ぎようとしたとき、背後から掠れた声がした。

「おい」

「ーえ?」
「傘、貸してくれないか」
はびっくりして振り返った。
傘、貸してくれないか。
そう言ったのが、目の前のこの男だと認識するのに、数秒を要した。

「…寒いんだ」

声を発した男の目は虚ろだったけれど、何だか潤んでいるようだった。
狂気の色は影をひそめていた。

ーどうして、怖いなんて、思ったんだろう。

雨の日に小さな声で鳴いていた、捨てられた子猫をは思い出した。
何か形容し難い感情がの中にこみ上げた。
ほぼ初対面に近い、しかも得体の知れないこの男に対しそんな感情を抱くのが、
自分でも不思議だったけれど。


「…いいよ」
は傘を男に差し掛けた。
感情の命ずるままの行為。―雨に濡れたこの男を、放っては置けない。
男は顎を持ち上げて、を見詰めた。
すっかり色素の抜けた髪と対照的に、真っ黒な瞳をしていた。

男は「桐山和雄」と名乗った。
それ以外のことは何も喋ろうとしなかった。

結局、成り行きで傘に入れただけでなく、こんな男を家に連れてくることになってしまった。
帰るとことかあるんじゃない、と言う問いに、ただじっとを見るだけで答えなかった彼には、
どうせ行くあてなどないのだろう。行くあてがあるのならば、あんな所で一人雨に打たれてなどいないだろう。
お節介かもしれないけれどー放っておけなかったのだ。

ぐっしょりと濡れた学生服はの学校のものだった。
あちこちがほつれて、ボタンも取れかけた彼の学生服を十分に乾かしてから、はそれにアイロンをかけた。
彼は相変わらず考えの読み取れない目で、ただじいっとのすることを観察するように見ていた。

水気を拭いて乾かした金の髪は、孵り立ての雛の羽毛のようだった。
卵から孵化した雛は、最初に目にしたものを親と思い込んで慕い、ずっとついて行くのだそうだ。
どこかでそんな話を聞いた。

「…ちょっと」
が考え事をしている間に、何か重いものが膝に乗ってきた。
桐山和雄の雛頭だった。

彼は相変わらず何を考えているのか読み取れない目をしたままだった。

は驚いたけれど、その頭をのけることはしなかった。
「…あったかい」
ぽつりと、呟いた。
微かに掠れたような声だった。風邪をひいたのだろうか。
「…そんなに寒いなら、あんなとこで雨に打たれてることないじゃない」
がそう言っても、彼はの膝に頭を乗せたまま、黙っているだけだった。







「もう、あったまった」

彼が暫くして、ぽつりと言った。
「…え?」
「満足した。これで思い残すことはない」


訝しげに首を傾げたに、彼はまるで遺言のような言葉を吐いた。
「…何。それ」

の疑問に答える事無く、彼は立ち上がった。ふわっと金色の髪が揺れた。


彼は一度、のほうを振り返った。
満面の笑みを浮かべた。

「…ばいばい」

戸を開けて彼は出て行った。

は少しの間呆然としていて、それから、急いでその後を追った。
雨は止んでいた。
…遺言みたいな言葉だった。

「待って!」

息を切らし、は彼を捜し求めたけれど、桐山和雄の姿はもうどこにも見当たらなかった。

まだ小さいころ、雨が降る中捨てられていた子猫に出会ったことを思い出した。
幼いその身体を抱きしめ、は「お母さんに、頼んでくるから待ってて」
そう言って、急いで家に帰った。
母親をどうにか説得して、が戻って来たとき、子猫はダンボールの中で丸くなってじっとしていた。
もう一度抱き上げると、子猫は既に暖かさを失っていた。

「どうして…」

は涙を流した。

雨が止んだ空は哀しい程綺麗に晴れていた。

突然現われて、突然姿を消した彼に、それから会うことは二度となかった。




ニュースで、プログラムに志願し、優勝寸前で死亡した男ー桐山和雄のことが流れたのは、それから数日後のことだった。


おわり



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