バースデイ

 お腹の中の子がほんの少し動いただけで、私は編み物をする手を止めてしまった。
内側からどんどん、と蹴ってくる。まだ顔も知らないこの子が、生まれる前から元気で暴れん坊な男の子だということをひしひしと感じた。

 「ちびちゃん、痛いから、おとなしくしてね」
 少し撫でてあげると、おとなしくなった。
 再び、編み物を再開する。パステルブルーの毛糸玉はもうだいぶ磨り減っていた。この子が生まれてくるころまでに、とびきりの作品を仕上げておくつもりだった。

 早く仕上げるから。でも、急いだりしないから。どうか元気に無事に、生まれてきてね。言葉は通じなくても、そう想って語りかけるだけで、お腹の子に通じるような気がした。わずかに応じるように、動いた。

 どうか、このまま元気に無事に、あなたがこの世に生まれてこられますように。

 ***

 「おい、聞いてくれよ、面接受かったぜ!」
 俺はここのところ大分立ち直ってこれたような気がした。親父の会社の社員に頭を下げられることに慣れていた俺は、頭を下げる方法を知らなかったのだ。
 そのつもりもなかった。

 自分の優秀さをうりこむ方法は知っていても、自分より頭の悪いやつらに使われるなんて真っ平ごめんだと思っていたから。
 ただ、こうも急に環境が変わって、最初はどうしていいかよくわからなかった。自暴自棄になったりもした。

 でも今はそんなこと言ってられない。俺は、働かなくちゃいけない。心を入れ替えてからは表情も変わったらしい。とんとん拍子に面接を通過して、今日、ついに正式に採用の通知をもらった。

 アルバイトからだが、真面目に働き続ければそれなりの収入をもらえる仕事だ。しばらく苦しい生活が続くかもしれないが、そんなことは気にならなかった。自分の境遇を思えばそれだけの待遇でもありがたかった。

 「あら、おめでとう。あなた、ここのところがんばってたものね。本当におめでとう」
 「当然のことだろ、今までの会社のやつらは俺の実力がわかってなかったんだよ。見返してやるためにも、稼ぐからよ。もうちょっと我慢してくれよ」
 「はいはい。楽しみにしてますよ」
 「お前、本気にしてねぇな?…俺は真面目に言ってるんだぞ?」
 「わかってるわよ。…夕ご飯、あなたの好きなものにするわね」

 五歳上で余裕のあるこいつに、俺は何度も救われた。
 …実際、俺にもう一度やり直そうと思わせてくれたきっかけをくれたのも、こいつなんだ。
 すっかり重たげになった腹を撫でさすって、立ち上がったその背中に声をかけた。
 「…おい、お前、もう大分動くのしんどいだろ、簡単なものでいいよ。それで―調子はどうだ?」
 「ええ、私もこの子もとても元気よ。…もうすぐ、生まれる」
 「…そうか」

 働かなくちゃいけなかった。
 どんな苦しい仕事でも、耐えられる自信があった。自分より大事な存在ができたから。守って行きたいと、思ったから。
 俺は、父親に、なるんだ。

 ***

 ひびの入ったガラス窓の向こうでは粉雪がちらついていた。
 暖房が買えないから、リサイクルショップで買った古いファンヒーターで寒さをしのいでいた。それでも狭いアパートの一室はすぐに暖かくなった。

 妻が寝息を立てている横で、すぐには眠れず布団を被りなおす。二人だから、今は寂しいけれど、来年の冬にはもう一人増える家族がこの部屋をあたたかくしてくれるはずだ。
 俺が長男ひとりきりで苦労した分、こいつには弟か妹を作って、寂しくならないようにしてやりたいな。
 そんなことを考えた。まだ、一人目が生まれて来てさえいないのに。苦笑する。でも、未来のことを描けるようになっただけマシだ。子どもが出来る前の最悪な状況に比べれば。

 机の上に編みかけの、毛糸の手袋みたいなものが載せられているのに気づいた。大きさからして俺向きじゃない、小さな赤ん坊のためのものだ。
 …もうこいつはいつ母親になってもいい準備が出来てるんだな。
 安堵の笑みが零れる。俺も少しは父親らしくなってやろう。明日からちゃんと働くから。

 あとは、お前が無事に生まれてくるだけだ。待ってるから、とびきり幸せにしてやるから―だから、ちゃんと顔を見せてくれ、な。

 温かい暗闇の中、俺はまだ知らない世界のことを知りたいと思った。

 温められて―大切に想われて。幸せに生きられるはずの世界を知りたかった。知りたいから、生まれてきたかった。


 「あなた、…あなた」
 「…どうした?まだ朝になってない…」

 お腹がとてもとても痛かった。予定日は、あと二日先。今産んでも、この子は十分元気に生きられることはわかっていたけれど―なぜか無性に不安になっていた。
私とこの子は…離れ離れになってしまうような気がした。

 「痛い…救急車…お願い…」
 「ダメだ!今呼んだんじゃまにあわねぇ、俺が乗せていくから、がんばれ、がんばれよ」

 まだ、あなたの姿を見ていない。あなたの声を聞いていない。名前もつけていない。抱きしめてもいない。
 …お願いだから、私はどうなってもいいから、無事に生まれてきてね。

 知りたかった。

 わからないことを教えて欲しかった。優しく撫でてくれた人の顔を―暖かく語りかけてきてくれた人の顔を―知りたかった。

 ここを出れば、わかると思った。

 くだらないプライドなんて捨てておけばよかった。あんたたちの言うとおり、親父の会社の土地を売り渡しておけばよかった。
 今いくら後悔しても仕方ない、そんなのわかってる、でも、俺たちからもう十分すぎるくらい、あんたたちは奪い尽くしただろう?

 「くそ、どうして、どうしてそっとしておいてくれねぇんだよ!」

 車のハンドルを握る手が震えた。隣でいつも俺をフォローしてくれるこいつが苦しそうに腹を押さえて呻いている。どうしていいかわからなかった。目の前の景色がぼやけた。

 俺が最後に欲しかったものを奪わなければ、全部許してやるから。
 だから、そっとしておいてくれ―!

 そこが寒いことを知らなかった。暖かい場所が広がっているのだと思っていた。

 冷静に頭が回らなかった。あいつらは、悪魔だ。車をぶつけることもなんとも思っちゃいない。そりゃそうだよな、あんたたちは俺たちみたいなやつを殺すくらい、なんてことないんだ。代わりはいくらでもいる。
 でも俺は違う。死なない。死なせない。守りたいのは、こいつと、こいつの子だけだから。


 痛くて。寒くて。冷たくて。苦しいことを。
 知らなかった。



 目の前に、真っ白な何かが飛び込んできて、その後、一瞬の衝撃。たくさんの白いものが私の身体を、抉った。よくわからないけれど、これで私は終わりなのだ、と思った。

 「お願い、あなただけは生きて」
 


 こんなに寒くて苦しいのに。どうして、生きなくてはいけないの?

 「幸せになって」

 ここで、幸せになれるの?

***

 息子が助かったと知ったとき、妻が亡くなったと知ったときの絶望感がふと和らいだような気がした。
 俺の血のつながった子ども―あいつが命をかけて産んだ子どもが、生きている。あんなに小さいのに、すごい怪我をして―それでもがんばって、あいつは生きているんだ。

 集中治療室で管だらけになった、小さな腕を見て、俺は誓った。ぜったい、守ると―この子を幸せにすると。
 顔もろくに見られなかったが、きっと、あいつに似ている。それで、もう少しでかくなったら―俺に似てくるんだ。俺は、そうなるまで、こいつを育てたいんだ。

 とても苦しかったところから出て、今、少しだけ苦しい場所にいた。頭が痛くて、暗くて、何もわからなかったけれど、いままでいたところで話していた人の声がしたから、少し、落ち着いた。

 「金ならいくらでも用意する、おれの血全部くれてやってもいい、だから、この子を助けてください!」
 プライドも意地もいらなかった、土下座も、借金も、いくらでもしてやる。この子を助けたかった。
 「残念ながらね、お父さん。この子の傷は、脳にまで達するものなのですよ。非常に細かい破片が食い込んでいる。今の技術では手術が成功する確率は5パーセントくらいですかね。それと、この子の血液型はAB型です。お父さん、A型っておっしゃってたでしょう。…お金がいくらあっても足りないですよ。一生この子の面倒見るんですか。」

 「…あぁ、一生かかってもいい。…5パーセントでも、こいつが助かる可能性はあるんだろ?それなら…頼むから、…この子を助けてください…」
「…ふうむ。…そこまで仰るなら…」

 腕組みをして考え込む医師の前で、俺はずっと床に頭をつけていた。医師は誰かに電話しているみたいだった。
 「ええ、はい、ええ、―そうです、そうです、あのときの夫婦の子どもがね、生きていたんですよ。―はい、ええ、限りなく優秀な人間に成長する可能性が、―はい、―分かりました、伝えましょう、折り返しお電話致します、―それでは、失礼します」

 医師は電話を切ったようだった。「お父さん、そんなに卑屈にならないでください、嬉しい知らせですよ」
 「―え?」
 「桐山財閥の総帥が、お子さんを養子に欲しいと言って下さってます。報酬はいくらでも出すと仰ってますよ、会社も立てなおせます。何、子どもなんて、また結婚していくらでも作れるじゃないですか。」

 頭の中で、何かが弾ける感じがした。
 次の瞬間には、薄汚い笑いを浮かべるその医者を殴りつけていた。

 「冗談じゃない!あいつは、俺が育てるんだ!誰にもわたさねえ!」

 ***

 昨日まで来ていた、低い声の人がいつもの時間に来なくなった。なんだかいつもと違う感じがして落ち着かなかったけれど、そのうちに慣れた。いくら待ってもその人は来なかったから。

 「赤ちゃんが生まれたときに泣くのは、この世に生まれてきた喜びを上手く表現できないからなんだって。」

 女の人の声がした。
 
 「―この子は、泣かないのね。」
 
 頭が痛かった。こすってもこすっても痛くて、気になって仕方がなかった。

 「かわいそうに。せっかく生まれてきたのに。お父さんにも、お母さんにも。抱きしめてもらえないのね。」

 かわいそうに。って誰のことかな?

 「―でもきっと、この子は幸せよ。だって、あの桐山財閥の総帥に引き取ってもらえるんだもの」

 俺は知りたかった。
 ずっとずっと知りたかった。
 生まれてきた意味を。
 生きる理由を。

 俺は幸せだったのか?
 幸せに、なれたのかな?



2006/02/21