「桐山くんて、数学得意なんでしょ、教えてくれない?」
予備校で人に声をかけられたのは初めてだった。その女は、僕の頭一個分下にいた。この地区の名家の女子が集うM高校の制服を着ていた。
常に成績トップを守っている僕を、クラスの奴らは指を差して笑っている。僕が家で母に叩かれながら勉強していることを知らない奴らは、勉学の場を弁えず恋愛ごっこをしている。
みんな、みんな敵だった。
だが僕には僕の居場所があった。僕が成績を落とさないように、いつも笑顔で僕を迎えてくれる予備校スタッフの田中さんは僕の味方だった。僕が偏差値を上げたときだけ、優しく微笑んでくれる母と、僕の合格を心待ちにしてくれているスタッフの人たちのために、僕は意地でも合格してやるのだ、東京の大学に。
「初めて見たときから、ずっと気になってたんだよね、桐山くんがどんな勉強してるのかさ」
鼻をくすぐる香水の匂いがした。
僕は息を飲みながら、後ずさった。「女」の匂いがした。
***
和雄が出て行って、もう三ヶ月が経つ。
私以外誰にも興味を持たないように、あの子を育て上げたはずなのに、あの子は私を裏切ったのだ。
いや、あの子は、私がいなければ、何も出来ない子だ。きっといつか、私の支持を仰ぎに、この屋敷に戻ってくるに違いない。そうだ、十五年もそうやって育ってきたあの子が、私を裏切るはずがないのだ。私の、私の「息子」なのだから。
「旦那様、お茶をお持ちいたしました」
「そこにおいてくれ」
この屋敷でも最年長のメイド、甲斐田が一礼して部屋に入ってくる。甲斐田は少年時代からの私を知る数少ない、心許せる存在だった。置かれた日本茶を一口口に含む。 渋みと甘みの交じり合った絶妙な味が広がった。子会社の役員から先日贈られたものだ。
まだ他にもたくさん、受け取りはしたが口にしていない贈り物がある。その大半は処分してしまう。自分に対し媚を売ってくる奴は信用していない。財閥の恩恵にあずかりたいと顔に書いてある、頭の悪い連中ばかりなのだ。
利用価値のある部下は取り立てた。彼らが自分を本当の意味で尊敬していないことは知っているから、使うだけ使い、成功すればそれもよし、失敗すれば切り捨てた。
「少し、顔色がすぐれないようですが」
慈悲深い目を向ける彼女に、「いや。たいしたことはないんだ」と言って制した。本当は、数日前からずっと胃がきりきりと痛んでいる。濃い茶を飲みすぎてはいけないが、彼女の好意は無駄にしたくなかったのでもう一口、口に含んだ。
途端にぎりっと胃が抉られるような、激しい痛みを覚えた。
「旦那様…!」
甲斐田の絹を裂くような悲鳴が聞こえた。口元から、たらたらと流れ出す赤い液体を、私はどこか他人事のような目で眺めていた。
***
「へえ、意外!桐山くんて映画好きなんだ!」
「……まあ、少し…」
席の向かい側に足を組んで座る彼女と目を合わせぬよう、僕は俯き加減で話した。
彼女はひどく驚いたようだった。僕が一般の学生と同じような趣向を持っていることに。
彼女はしきりに髪を掻きあげながら僕を見つめる。光の加減で赤茶色く光るその長い髪、くっきりと引かれたアイライン、潤んだ唇。高鳴る僕の心音をよそに、彼女はひどく慣れた調子で僕に話を振ってくる。
―ダメだ、と思った。
父にも母にも、僕は多大の期待をかけられて、今、この場にいるのだ。長女として生まれながら、女であるがために財閥を継げなかった母の想いを、能力はあるけれど、三流大学しか出ていない父の無念を、僕は知っている。勉学に励み、常にトップに君臨すること。それが、僕に与えられた使命なのだ。下らない世間の慣習に染まってはいけない。友人たちも信用してはいけない。
もちろん、女などもってのほかだ―
「ねえ、よかったら、今度一緒に観にいかない?受験の息抜きにさ」
女の屈託の無い笑みが目に映った。だまされてはいけない。この女は、僕を、利用しようとしているのだ、金か、勉強のノウハウか。それとも―いや、しかし―
女の、ピンクのマニキュアが塗られた形の良い爪から視線が離せなかった。
***
目覚めて最初に視界に映ったのは、白い天井だった。
窓は締め切られ、薄暗い個室で私は一人横たわっていた。きりりと痛む腹を押さえ、首を横に傾けた。腕に違和感、点滴が刺されていることを知った。
―私は、そろそろ、死ぬのかもしれないな。
そんなことを考えた。もう五十に近い。会社を大きくすることに心血を注いできて、立ち止まる時間などほとんどなかった。…もう少し、疲れた。休ませて欲しいと思った。誰にも言ったことはないけれど。
父が亡くなったときは、嗚咽する母を支えた。
妹が出て行ったときは、何とも思わなかった。
母が亡くなったときは、医師が去った後に一度だけ泣いた。
―それきり、涙は流していない。
***
和雄が出て行った屋敷が、妙に広く感じられた。
朝食の時間、いつも静かな表情で座り、私が来れば「おはようございます」立ち上がって一礼していた和雄。
学習の成果を報告してきた和雄。
いつもここに在ってここに居ない様な、危うさを持っていた和雄―。
和雄はあの日、私の言葉を聞かずに自ら出て行った。
「あなたは一度俺を捨てた。だから俺はもうあなたの息子じゃない」
「あなた以外に、俺を必要としてくれる人が出来た。だから俺は二度とここには戻らない」
あの子があんなことを私に言ったのは―はっきりと私に逆らったのは、初めてのことだった。
あの子は命令を与えられなければ何も出来ない子だった。だから私が、いつも正しい方向に導いてきた。
人の情などに惑わされてはいけない。―お前は、他の人間とは違っているのだから。
「情」ほど、不確かで曖昧なものはない―
簡単に、それは壊れてしまう、脆いものなのだ。
***
映画の内容はありふれた恋愛映画だった。僕にとっては全くもって興味の無い分野だったが、彼女が懇願したのでとりあえず観に行く事にした。あくまで、とりあえず、だ。僕は彼女の誘いに乗りはしたが、彼女を好きになどなっていない。
一人の女を守るためだけに作られた、感情の無いロボットが主人公。他の全ての敵を倒して、最後には女と結ばれるという話。実に、陳腐なものだ。生身の女とロボットが結婚するなんて馬鹿げている。結局その女は、生身の男を選ぶに違いないのに。
僕は彼女のほうを見た。彼女は、涙を流していた。
「…すごく、感動するよね。桐山くん…」
女の涙。僕を叱り付けながら泣く母とは違った、涙。
…同情心とでも、いうべきものなのだろうか。
***
彼女とは受験が終わるまで、色々な場所に行った。
一人で入るには気後れしてしまうファーストフードショップ、塾のカフェテリア、オープンキャンパス。
彼女は、文系クラスに所属していた。成績で言えば国立大学には到底及ばす私立大志望だったが、東京に出たいという夢をよく語っていた。
「桐山くんも、東京出るんでしょ」
「…ああ」
両親は東京の国立大学以外に行くことを許さなかった。選択肢が絞られている分、スタッフとの面談もスムーズだった。「社長になる」僕の進路はほぼ決まっているのだ。
本当は天文学に興味を持っていた。しかし、会社を継ぐためには要らない知識だ。成績は文系理系に偏らず高水準を保っていたので問題は無かった。強いて言えば国語が苦手分野だったが、経営学を学ぶ予定の僕にとってはやはり必要のない学問だった。
「大学入ったらいっぱいやりたいことあるよ。とりあえず、こっちより遊ぶ場所いっぱいあるでしょ」
彼女は学問に対する興味より、東京での生活のほうに興味があるようだった。
「あっち行っても、またどっか行こうね、桐山くん」
「…そう、だな」
彼女が苦手な歴史の年表の覚え方を、僕は彼女に分かるように説明した。課題を出しても彼女は家で勉強してこないので、その場で教えた。
***
3月の終わり、僕は国内で最高の偏差値を誇る大学に主席合格を果たした。
さすがに、今までの苦労を思い出し涙がこぼれた。先に掲示板を観にいった母から電話を受けてすぐに泣いた。予備校のスタッフはその場に居た全員で拍手をして僕を迎えた。父が珍しく仕事を早く切り上げてきて、ひさびさに家族揃って食事をした。
予備校には大学合格者の名前が張り出された。
歓喜に沸く周囲をよそに、僕は急に不安な気持ちに襲われていた。―彼女の名前が、無かった。
あとでスタッフに尋ねると、彼女は東京の大学を二校受けたものの、両方とも落ち、結局地元に近い短期大学への入学を決めたらしい。
僕は彼女に何度か連絡しようとしたが、彼女の両親に冷たく遮られてしまった。彼女とは、それきり二度と会えなかった。
「これでわかったでしょう、あなたの将来のためにもね、大事な時期にあんな女と付き合うべきではなかったのよ。―あなたはちっとも悪くなんて無いの」
母が僕の頬を撫でながら言った。「あなたは、会社を継ぐことを考えなさい」
母は、僕が彼女と親しくしていたことを知っていた。しかし、それでも黙って、僕のためにいろいろ配慮してくれた。母を責めることは僕には出来なかった。
「健康診断の結果が出たわ。…悲しいけど、あなた、子どもを作れない身体なんですって」
母は僕の学生服をぎゅっと掴んで言った。「孫の顔が、見たかったのだけれど…」
***
「ヒト」として生きられない存在となった私は、「ヒト」を支配する立場になった。
家族と過ごすことを言い訳に会社を休む人間は、合理的に切り捨てていった。冷たいと言われようが構わなかった。「幸せ」になりたいのなら、「幸せ」でいられる場所に行けばいいだけの話だろう?
私が求めている「幸せ」はもっと崇高で、一般社会では得がたいものなのだ―
***
母が亡くなったのは、私が三十歳の誕生日を迎えて間もなくのことだった。父に遅れること数年。母が求めていたこと―奪われた桐山財閥の実権を、正統な桐山家の血筋に戻すこと。そして、強大にすること。それは果たした。母が静かに眠るさまを私は看取った。そして、涙を流した。同時に、二度と人を愛さぬことを誓った。
***
養子を迎えることを考えたのは、一度肺炎にかかって死に掛かったときだった。
私が築き上げた財産を、私が死んだ後他人に譲渡するのは許しがたいことだった。私が生きていた証を継承する存在は、必要だ。
養子選抜テストに応募してきたのは、親を失った孤児、あるいは自ら子どもを売りつけてくる親も居た。私は特別に編成した教育プロジェクトチームに子どもの教育を命じたが、たいていの子どもは逃走を図った。私はそれを全て処分した。
私の理想どおりに育てるにはやはり、何も知らぬ赤子のうちからが望ましい―
その答えに行き着くのに時間はかからなかった。
***
その土地に惹かれたのは、ほんのきまぐれだった。高松にあった自宅を売り払い、新しく城岩町に広大な敷地を買って、家を建てようと考えた。私は、そろそろ都会での生活に疲れていた。休日だけでも雑踏を離れた場所で静かに暮らしたかった。
出来てから、かなりの年数が経っているだろう工場地帯。私は部下にその土地の買取を命じた。
***
工場の買取を拒んだ若夫婦の話を耳にしたとき、正直私は驚いた。いまどき、桐山財閥に逆らう人間が居たことが新鮮だった。しかし、土地を手に入れたい欲求が変わるわけではなかったから、報告してきた部下に告げた。「逆らうなら、いつもどおりの対応を」
部下を去らせた後、私はふと、報告書の中にある写真を見た。そして、全身の血の気が引くのを感じた。
若夫婦のほうの、妻が年の頃も顔も、「あの女」に瓜二つだったのだ。
***
若夫婦が事故に遭い、妻のほうが死んだこと、その腹に居た子どもが瀕死の重傷を負いながらも生きていたという報告を受けたのは、それから間もなくのことだった。
青山が手術を担当したという。そして、その子が常識を外れた記憶力を持っているとわかった。それで引き取った。抵抗した父親のほうは殺せと命じておいた。
何の因果だろう、家に連れられて来たその小さい赤ん坊は、生まれつき整った顔をしていた。そう、母親に良く似ている。世話をしたのは甲斐田と臨時に雇った保育士だったが、私は仕事の合間を縫っては赤子の傍で時間を過ごした。
赤子には、「和雄」と名づけた。思い付きだったが、あとでよくよく思い出してみれば、それはあのときあの女と見た映画の、ロボットの名前「カズオ」だった。
和雄は泣きもせず笑いもしなかった。
私は和雄と居るとき、心から安らぐことが出来た。
抱き上げるとじっと私を見つめている。しかし乳をねだることも、むずがって暴れることもなく、ただ静かに目だけを開けて私を見ている。私が「ヒト」ならざるものであることを、忘れさせてくれた。腕の中にある温かくて柔らかい、壊れやすい命を、私は自分が壊してしまうことが怖くて、そっとベビーベッドに戻した。
***
和雄が一人歩きが出来るようになるのを待ち、私は教育プログラムを開始した。和雄は与えられた課題を完璧にこなした。次の課題、次の課題へと、与えれば与える分だけ和雄は知識を吸収した。私は、身震いするほどの歓喜を覚えた。和雄の教育にはいくらかけても構わないとさえ思った。実際、私の遊行費の何倍も投資していた。
しかし、時に和雄が弱音を吐くようになった。
「痛い」「苦しい」通常の子どもより早く言語を獲得した和雄は、回らぬ舌で私に助けを求めた。
私はそれが許せなかった。―なぜ、なぜ私の命令が聞けないのだ?
私はお前に情を施さなかったはずだ。…私に何も求めるな…私はお前の親であって親ではないのだ―
私には、「何も無い」のだ―
すがりついた小さな手を、私は振り払い、美しいその頬を叩いた。
***
白い天井。白い部屋。
私はモノクロの部屋の中で深呼吸する。今、ここには私一人だ。私がもしここで死んだのなら、部下たちが盛大な葬式を催すことだろう、ああ、しかしそれも形ばかりのことだ。私が心から人を信用しなかったように、きっと、誰も私を心から理解していない。流す涙は偽りで、与えられる祈りは何も無い。
天国など存在しない。死んだら、土に還るだけだ。私が葬ったものたちも、そうやって消滅してきた。私もそうなる。それだけの、ことだ。
浮かんだのは、あの美しい顔だった。
手に入れることが出来ないまま、私に背を向けたあの女。
「受験、絶対第一志望合格しようね。そしたら、東京でいっぱい遊ぼうよ」
私は遊び方なんて、知らなかったんだ。
「勉強ばっかじゃなくてさ、そういう時間も絶対必要だって」
…そうだとしたら、私は必要なものすら手に入れることが、できなかったのだな?
美しい顔。
―和雄の、顔。母親に瓜二つの顔。
私がきっとただひとり、信用して―そして、信頼された、子。
血の繋がりに、やはり私は勝てなかったのか。
そうだとしたらやはり―お前はあの夫婦の子どもであることを、捨てなかったのだな?
***
甲斐田が青い顔をして病室に駆け込んできたのは、それから間もなくのことだった。彼女は涙を流していた。「旦那様、なぜ、なぜ、こんなにお辛い想いをしていたのに―言ってくださらなかったのですか」
「…甲斐田、私は、もうこれで十分だと思っているんだ…財閥は、十分大きくなった。後のことは、役員たちで勝手に決めてくれ。私はもう、どうでも良い。」
「何を弱気なことをおっしゃって…いつもの旦那様らしくもない」
「私が、生きている意味はもう何も無い。和雄は私を捨てて出て行った…私は、子をなせない身体だ、私は、ひとりで死ぬのだ、誰も悲しむものなどいない」
甲斐田の目からじわりと涙がにじむのを私は見た。気丈な彼女は、私がこうしてたまに不安定になったときも決して揺らぐことなく、いつも励ました。「旦那様。あなたは財閥の総帥でいらっしゃいます、信頼を集め、そして、一人でも輝くお方なのです。負けてはなりません。お気を強くお持ちになってください」
母に代わって私をいつも、支え続けてくれた彼女の涙を、私は数年ぶりに見た。
「旦那様、あれは―、嘘だったのですよ」
「何?」
「旦那様が、世間の女に囚われ、ご自身を見失わぬように。ご両親が考え抜いた末に告げた嘘なのです。診断書も、ご両親が医師に命じて作らせたものです。貴方様は、子どもを作ることが出来るのです。」
甲斐田はうなだれた。彼女の涙が、真実を肯定しているように、思えた。
俄かには、信じられないことだった。
「何ということだ…」
世界ががらがらと、音を立てて崩れていくような気がした。私が守ってきたものは一体なんだったのか。誰にも心を許さず、ここまで、ずっと一人で生きていくものと、そう決めて進んできたことは?いったい、いったい何だったのか―?
「旦那様、貴方様はこれからでもお子様を授かることが―」
「いいや。…もう、いいんだ」
血を吐きながら立ち上がった、幼い和雄の姿を思い出した。
「痛い」和雄の救いを求める声を私は押しつぶした。
あの子の母親ならば、きっと庇っただろう子を私は死の淵まで追い詰めた。
全ては私の身勝手な欲望のために。―私の知る、最高の愛し方のために。
「私の息子は、和雄ひとりだ。それは今までもこれからも、ずっと、変わらないことだ―」
まだ少し、痛みの残る腹部を押さえた。私は、あの子の痛みを許さなかった。私の痛みが許されなかったように。あの子には、痛みを、弱さを、人に見せずに育って欲しかった。―しかし、それは、…
「旦那様、ごゆっくり、お休みになってください」
あの子自身が、決めることだった。
甲斐田が去った後、私は、数十年ぶりの涙を零した。
あの子が、私の傍を去ったときも、泣けなかったのに。
あの子の前でも一度だって涙を見せたことは無かったのに。
―和雄。
お前を、もうそろそろ自由にしてあげよう。
私の身勝手で、苦しめて、奪いつくしてしまったお前を、今度こそ私は自由にしよう。
しかし、…しかし、もしもお前が戻ってきたときは、そのときは、今度こそ父親として、お前を迎えたい。
お前の生みの親は私が殺してしまったけれど―お前を十五年間育てた親の私は、まだ、生きているんだ。
…いや、それは私の自分勝手な想いかな―
私をお前の「親」でいさせてくれないか。
―せめて、私が、生きている間は。
おわり
2006/03/27
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