「おう、坊ちゃん。今日は大学の帰りですかい」
「おいおい、俺様に向かって坊ちゃんはもうやめろよな。―次期社長だぞ、俺は」
「へいへい、すみません。ついいつもの癖が出ちゃってね。今日もみんなまじめに働いてますよ」
「当然だろ。さぼったら承知しねえ」

大学は最低でも出ておけ、親父の口癖だった。
母親もあまり口うるさくは言わなかったが、進学塾のチラシをこれみよがしに見せたりしては俺の気持ちをあおった。

結局地元の、国立の大学へ進むことになった。順風満帆な人生。これ、万歳。

四年間は遊んで暮らした。勉強もそこそこしたが、とにかく「遊んだ」という印象が強かった。
もうすぐ、卒業だ。サークルの女どもに泣かれるだろうが、たまにはまた顔を出してやってもいいか。


卒業か。……


俺は空を見上げた。真っ青で、白い雲ひとつない。快晴。俺の未来に幸あれ。感慨にふけることもなく、家への道を歩いた。

そろそろ家の桜が咲くころだ。ほかのどの桜が堅くつぼみを閉じていても、俺様の家の桜だけは寒くてもちゃんと咲く。…当然だろ。



そこで、ひとりの女とすれ違った。女は急いでいるようで、一枚のハンカチを落としても、それに気づかずに、走り去った。

「おい―って、仕方ねぇな」

薄桃色のハンカチにはわずかに紅い跡があった。俺は首をかしげつつ、しかしそのハンカチを家まで持って帰ることにした。





春、工場は俄かに忙しくなる。親父はここのところ機嫌が悪かった。桐山財閥の連中が土地を売れと持ちかけてきているのだと、母親が青白い顔をして言っていた。

「ふざけんな、誰が、この土地と工場を渡してたまるかってんだ」

酒をあおりながら呟く親父。その姿が、少し老けてきたと感じたのは、俺の気のせいではなかったのかもしれない。

 つづく



 2008/04/29