真理子が妊娠していることに気がついたのは、家を出て少しした時のことだった。
俺たちの置かれている状況を考えれば堕ろすことを考えるべきだった。だが、俺も真理子も絶対にそのことは口にしなかった。
真理子の腹に宿った最後の「希望」に。俺はすべてを託そうと思った。
日雇いで体力勝負の仕事を続け、家を維持した。桐山家はまだ俺たちを追っているらしいということを風の便りに聞いては住まいを変えた。桐山家の狙いがわからない。なぜ、そっとしておいてくれないのだろう、十分すぎるくらい、俺たちからすべてを奪い尽くしたのに。
真理子の腹は日増しに大きくなった。俺はいずれ生まれてくる子供の名前を頭の中で考えては、そんな柄ではないと足踏みしたりした。小さな幸せだった。
真理子の陣痛が始まったのは、クリスマスの夜のことだった。
苦しむ真理子を連れて、俺は車を走らせた。どうしても、助けたかった。この母子を助けられなくて、何もかも失ってしまうのが怖かった。
しかし無情にも桐山家の車が追ってきた。追突されて、コントロールを失って、ガードレールに激突。激しい衝突。そこで俺は意識を手放した。
真理子は死んだ。
腹にいた赤ん坊はとりだされて、集中治療室に入った。頭蓋を抉って脳にガラスの破片が食い込んでいるのだという。このままでは死ぬ。
「お父さん。…私と取引をしませんか」
高名だと自負する医師に、俺は藁にもすがりつく思いで土下座した。「息子を…助けてください!俺には…もう…もうその子しかいないんだ…」