「中川」
二月。
もうすっかり寒くなって、雪が降りそうな天気が続いていた時期のこと。
典子が下駄箱から上履きを取り出そうと、かじかんだ手を伸ばしかけた時だった。
典子の耳に、独特の威圧感を持った声がりんと響いて来た。
振り向いてみると、そこには同じクラスの桐山和雄が無表情で立っている。
「桐山くん、どうしたの?」
典子は軽く微笑して桐山を見上げて、訊いた。
桐山はいつも突然現れては、突然典子に声をかけてくる。
最初のうちは驚いていたが、もう随分慣れた。
同じクラスの女子には桐山を怖がる者も多かったが、典子自身は桐山に対し、どこか親しみを覚えていた。
桐山はそんな典子を、相変わらず表情を変えずに見ていたが、やがて口を開いた。
「中川に頼みがあるんだ」
「…あたしに?どんな事?」
典子は少し首を傾げた。
桐山が自分に頼みごとをして来るなんて。
一体どんな事を?
桐山は淡々と言った。
「俺にチョコレートを作ってくれないか?」
「え?」
典子はびっくりして聞き返した。
桐山は無表情のまま、典子を見つめている。
チョコレート。
そう、今月のメインイベント。
バレンタインデーの必需品。
つい最近幸枝たちと「誰にあげる?」という話で盛り上がったばかりだった。
幸枝は「内緒」と言っていたけれど、きっと秋也にあげるのだろう。
それで少し憂鬱になっていた。
結局、手作りにはするけれど、秋也には義理と言って渡すしかないだろうと思っていた。
それが…
「どうして、あたしに?」
典子は桐山の突拍子もない言葉に戸惑いを覚えながら訊く。
桐山は、少し目を伏せた。
別に恥ずかしがっている様子はなかったが。
「俺は、手作りのチョコレートを食べた事がない」
ぽつりとそう言った。
典子はその桐山の言葉に目を瞬かせた。
え、どうして?
桐山くんはこんなに格好いいし、もてない筈、ないのに。
そう考えて、ふっと典子の頭にある考えが浮んだ。
みんな、桐山くんに渡す勇気がないんだわ。
そう、考えても見れば、彼は不良グループのリーダーであるし、大企業の社長の御曹司でもあるのだ。
典子のようにそんな事に拘りなく話せる者の方が、珍しいのかも知れない。
桐山は続けた。
「この前の調理実習の時、中川がくれたクッキーが悪くない味がした。だから」
桐山は典子を真っ直ぐ見つめて言った。
「俺は中川が作ったチョコレートを食べてみたい」
普通に聞いたら、これは間違いなく愛の告白ととられても仕方ないだろう。
桐山自身は全く意識していなかった様だが。
典子は見る見る顔を紅くして俯いた。
桐山くんて、平気ですごく恥ずかしい事、言うんだもの。
たまにびっくりさせられる。
一週間くらい前の、調理実習の時に作ったメニューは、クッキーだった。
典子の班はほとんど典子が作ったようなもので、とてもおいしいと評判になったのだった。
桐山はその時遅れて来たので、調理実習には参加出来なかった。
典子は所在なげに佇んでいた桐山が寂しそうに見えて、自分の分のクッキーを桐山に分けてあげたのだった。
それを桐山は覚えていたらしい。
典子は少し考え込む様にしてから、言った。
「本当に、あたしが作ったのでいいの?」
桐山は黙って頷いた。
典子は微笑した。
自分の作ったもので喜んでもらえるのは、素直に嬉しい。
「わかった。じゃあ頑張って作るね」
桐山は僅かに目を細めて、また頷いた。
典子にはその目がどこか穏やかなものに見えた。
十三日の夜。
典子は湯煎でチョコレートを溶かしていた。
ハート型のホイルにそっと流し込む。
典子は何だか浮き立つような気持ちになっていた。
これは本命のチョコではない。
それがかえって余計な気遣いを感じる必要を生じさせない。
幸枝達にあげる分とは別に、
秋也と、それに桐山に。
典子は出来る限り丁寧にアラザンやナッツを混ぜて、二人の顔を思い浮かべながら、二人のためのチョコレートを、心を篭めて作った。
十四日の朝。
典子は幸枝たちとの義理チョコの交換を終え、秋也にもチョコを渡した。
秋也は喜んでくれたが、隣に居た国信に「慶時、一緒に食おうぜ」と声をかけ、
国信は何故か少し申し訳なさそうな顔をして、「ごめん、俺ももらうな、典子さん」
と言って、典子のチョコを二人で分け合って食べていた。
典子はその様子を見ながら、軽く溜息をついて、思った。
これで、よかったのよね?
少し寂しい気がしたけれど。
あとはー。
典子は教室の一番後ろの席に座っている、桐山の方に視線を移した。
桐山の周りには沼井や笹川、黒長といった桐山ファミリーの面々が集まっていて、何かを話しているようだったが、桐山自身はその話を聞いているのかいないのかわからない様子で、ただじっと静かに座っている様に見えた。
沼井くんたちがいると、少し渡しづらいな。
でも、本命って訳でもないし。大丈夫よね。
典子はそう一人で納得すると、桐山の分のチョコレートが入った紙包みを手に、桐山の席に向かって、歩き出した。
典子が近づいて来るのに気が付いたのか、桐山が伏せていた視線をそっと持ち上げた。
「桐山くん、はい、これ」
典子はやはり少し緊張して頬を赤らめながら、桐山に紙包みを差し出した。
周りにいた沼井たちはびっくりした様な目で典子を見、慌てて横に退く。
桐山は僅かに眉を上げたが、「ああ、すまなかったな」と言い、椅子から立ち上がると、
典子の前まで歩いて来て、紙包みを受け取った。
「あんまり、自信ないんだけど」
典子が少し俯き加減にそう言うと、桐山は、
「いや、ありがとう」
そうぽつりと言った。
典子ははっとした様に顔を上げ、桐山を見た。
桐山は無表情だった。
別に、喜ぶ顔が見たかった、それだけではないけれど。
少しがっかりした。
思った。
桐山くんも、沼井くんたちと分けて食べるのかな?
さっき秋也が、国信とチョコレートを分け合っていた場面を思い出し、
ずきんと典子の胸が痛んだ。
桐山は少しの間、典子を見ていたが、やがて席に戻り、鞄を開いて、典子にもらった紙包みをそっとしまった。
ぼんやりとその様子を見ている典子に、桐山はあまり大きくはないが、よく通る声で言った。
「中川」
「え?」
典子ははっとして返事を返す。
桐山は静かに続けた。
「家でゆっくり、食べさせてもらう事にするよ」
典子は何回か瞬きをした。
桐山は無表情のまま、典子を見ている。
「う、うん。」
顔が紅くなっていく。
一言返事を返すのが、やっとだった。
典子は席に戻った。
すぐに一時間目の授業が始まった。
けれど。
授業の事など暫く頭に入らない位。
嬉しかった。
とても。
桐山の何気ない行動は、
典子の落ち込んだ心を癒すのに充分だった。
もしおいしいと言ってくれたら、
来年もまた桐山くんにチョコ、渡すかもしれないな。
そんな事を思いながら、典子はバレンタインデーの一日を過ごした。
おわり
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