初恋

澱んだ空に灰色の煙が立ち上っていく。
刺す様に冷たい雨がぬかるんだ地面を叩き、
一面に広がる若草を揺らし続けている。

中川と最後に話したのは、いつだったろうか。
緩やかに燃える枝の山の前に腰を下ろし、桐山和雄はぼんやりと考えた。

もう随分と殺してきた。
残っている生徒はあと僅か。
その中には、中川典子が居る。

ただのクラスメート。
ほんの数回話しただけの、
そんな希薄な繋がりしか無い、
ただのクラスメート。

それなのに、どうしてか、いつも記憶の端に引っかかっていたような、
そんな、女。

つい先週だったか、
桐山は遅刻して、四時間目が終わるぎりぎりの時間に登校して来た。
教室はがらんとしていた。
そう言えば、今日は調理実習があるのだと充から聞いた覚えがあった。
特に興味が無かったので、「俺は出ない」、確かそう答えた気がした。

忘れていた。
今日は学校に行くのも悪くないと、気が向いたから来ただけの事。
今から調理室に行っても無意味だろう。
桐山はそう思って、自分の席に腰を下ろした。
鞄の中には読みかけの洋書があった。
暇潰しには困らない。

桐山がそんな事を考えていると、薄暗かった視界がぱっと明るくなった。
誰かが、照明を点けたのだ。
「あれ、桐山くん」

聞き慣れた声がした。
桐山は僅かに虚を付かれた様な顔をして、声のした方を振り返る。
どうやら一番に教室に戻って来たらしい、中川典子がそこにはいた。

典子は笑顔で、
「今日、休みかと思った。いつ来たの?」と桐山に訊いた。
「今来たばかりだ」桐山は淡々と答えた。

典子はそう、と視線をいったん桐山から外し、今度はなぜか少しだけ悲しそうな顔をして、
「今日、調理実習だったのに。残念ね」と桐山の方を見て言った。

典子は何か紙袋の様なものを抱えていた。

「今日は、何を作ったのかな」
桐山はふと思いついた様に典子に訊いた。
典子は桐山に聞かれると、また少し笑って。

「これ。結構上手く作れたと思うんだけど」
典子は桐山の席の、すぐ傍まで近づいて来て、
持っていた紙袋を差し出した。

甘い香りがした。

「良かったら、食べる?」
典子はそう訊いた。
桐山は頷いた。

そっと手を伸ばして、袋の中のそれを一枚取り出す。
そうしてゆっくりと口に入れる。


焼きたてらしく、まだ少し温かかったクッキーは、
ほんのりと甘く桐山の口の中で溶けた。

「悪くないな...」
桐山は呟いた。
驚く程自然に、その言葉が口をついて出た。

「そう?よかった」
典子は嬉しそうに笑って、言った。

笑っている典子。
典子のその顔を見ていると、クッキーを食べた時とは
また違った、「悪くない」感じが、桐山の心を満たした。
もっとその顔を見ていたい気がした。

人の顔をよく見たいなどと思ったのは、初めてだった。

「さて、と。戻らなくちゃ」
典子が突然そう言った。
桐山は僅かに驚いた様に眉を持ち上げ、
「もう、行くのかい?」
そう典子に訊いた。
典子は軽く頷き、
「うん、ちょっと忘れ物取りに来ただけなの。まだ片付けとかあるし」
「そうか」

桐山はいつもと特に変わらない調子の声で言った。
それでも、
典子の目にはそんな桐山の様子が、どこか寂しげなものに映ったらしかった。
「でも、すぐみんな戻って来るから、ね?」

典子は優しい声で桐山に言った。
桐山はまた頷いた。

典子は微笑み、じゃあ、と言ってドアに手をかけかけ、
しかし思いついた様に振り返って、言った。

「桐山くん」
「…どうした?」


典子は何か言いたげな顔をして、此方を見ていた。
その瞳が僅かに揺れている事に、気付いた。

「桐山くんも、今度は調理実習来れるといいね」

暫く続いた沈黙の後、典子はそう言った。
少しだけ、悲しそうな顔で。

桐山は不思議に思った。
どうして、典子はそんな顔をするのだろうか。
自分が居なくとも、典子にとって何の問題も無い筈
なのに。
しかしその疑問は口に出さなかった。
なぜか。
「ああ」
桐山は一言だけ答えた。

中川がそう言うのなら、今度は調理実習に参加してみるのも悪くない。
そう、思ったのだけれど。
やはり典子には言わなかった。

典子は桐山の答えを聞くと、本当に、嬉しそうな顔をして微笑んだ。
眩しい、と感じた。
自分には決して出来ない顔。
言い知れぬ感覚が、こめかみに生じた。

典子が行ってしまった後でも、
その疼きは、珍しく長く続いた。


典子との思い出はそれでぷつりと切れてしまっていた。

桐山は、目を閉じた。

バードコールが聴こえるまでの間。
ほんの少しでもいい、休んでおこうと思った。

このゲームが始まってから、まだ一睡もしていなかった。
さすがに、疲れてきたような気がした。

意識がゆっくりと闇に溶けていく。

浅い眠りは、桐山にひとときの夢を見せた。

最初に瞳に映ったのはバスの中の風景。
そう、それはたった二日前に目にした風景。

桐山は自分の座席に座っていた。
周りに誰か居るようだったが、輪郭がひどくぼんやりと
していて、顔が判別できなかった。

視界は、等しく灰色だった。

ただ、一箇所。
色が着いている場所を見つけた。
濃紺のセーラー。
肩に届く位まで伸びた、艶やかな黒髪。

―中川。

自分の前方、
典子は笑っていた。

あの時眩しいと感じた、典子の笑顔。

典子の手には小さな紙袋があった。
甘い香りがした。

あの時くれた、クッキーの香り。

悪くないと感じた、
その味を思い出した。

それを食べたい、と言ったら中川はまた俺にクッキーをくれるだろうか。
桐山はふとそう思った。

けれど、
桐山は典子に声をかける事はできなかった。

名前を呼び、手を伸ばせば届きそうな場所に居るのに。
どうしてなのか。

典子と自分の距離は近いようで居て、とても離れているように思えた。
桐山は、典子をただ見つめている事しか出来なかった。

その時、
典子がふいに此方を向いた。
桐山は驚いた。
典子は、自分を見ている。
どこか悲しそうな笑顔で自分に手を差し伸べている。
典子の優しい声が聞こえた。
「こっちに、おいでよ。桐山くんも。」


視界が急に明るくなった。
桐山は僅かに肩を上下させながら、ゆっくりと瞬きをした。

意識はすぐに回復して来た。
夢だった。
バスの中で、やはり自分は典子と話す事など出来なかった。
やはり自分と典子が話した記憶は、一週間前の、あの教室の場面から
止まってしまっている。
その筈だったのに。

桐山は先程見た典子の顔を思い浮かべた。
あの顔。
どこか悲しそうな。
「桐山くんも、今度は調理実習来れるといいね」
そう、自分に言った典子の顔。

こっちにおいでよ?

あの時中川はそう言いたかったのか。

典子が自分にくれた言葉の意味を考え、
桐山はその答えに行き着いた。

もう調理実習には参加出来ない。
少なくとも、典子と一緒には。
あのクッキーの甘さをもう一度味わう事も、もはや叶わないのだろう。

桐山は、空を見上げた。
冷たかった雨はやんでいた。

こっちに、おいでよ?

―空耳か。

典子の声が、聞こえたような気がした。

もう一度目を閉じ、桐山は考えた。
今は、どうなのだろうか。

今、中川の所に行ったら。
中川は―。

自分がした事を思う。
このゲームに、乗った。
自分がやろうとしている事を思う。
このゲームを終わらせる。

自分の今の思考は、矛盾だらけだった。
理解できない何かが。
典子との記憶に付随して、
自分にとって不可解な感覚を与える何かが。
確かに自分の中にはあった。

桐山は耳を澄ませた。
典子の声は聴こえなかった。

聴こえて来たのは、バードコール。

桐山はすっと腰を上げた。


何時の間にか、空を覆っていた雲の隙間から
紅い光が差し込んで来ていた。

雨上がりの空の下、
歩き出す。
片手には重く冷たいマシンガン。

中川の、傍に行く。

中川の顔が、見たくなったんだ。



おわり