登校して来て、まず一番最初に視線を走らせる。
窓際の、前から三番目の席へと。
そこに居るのは一人の女生徒。
至極平均的な顔をした。
それでも必ず、桐山は彼女の姿を目で追っていた。
いつからだったかはわからない。
何時の間にか、そうなっていたのだ。
自分でも理解できない行動だった。
「充はどうしてよく金井を見ているんだ?」
昼下がりの屋上。
桐山はふと思いついた様に、自分の右隣に座っている充に尋ねた。
桐山の問いかけに、充はげほげほ、と咳き込んだ。
煙草の煙を吸い込んでしまった様だ。
「ボ…ボス…どうして…?」
まだ苦しそうに掠れたままの声で、充は桐山の方を見て尋ねた。
桐山は充のあまりの動揺振りにちょっと訝しげに眉を顰めた後、
すぐにいつもの静かな表情に戻って、言った。
「考えていたんだ」
「俺が見ている限り、充は金井に話しかける事もなく、ただ眺めている様に思えた。
その意味は何だろうと」
「それは…その…」
充はもじもじとして、なかなか次の答えを言わなかった。
桐山は黙ってそんな充を眺めていた。
その真摯な瞳は、充に一刻も早い回答を求めている様に見えた。
遂に充は観念した。
視線を泳がせながら、言った。
「俺…少し金井の事…いいな、って思ってて、さ。あ、笹川とかには言わないでくれよな。
また馬鹿にされるに決まってるから…」
充の頬はほんのりと紅く染まっている様だった。
そう言えば、金井が充の方を向いた時も、充は顔を紅くしていたような気がした。
すぐに視線を外していたけれど。
興味深い、と思って見ていたのだが。
桐山がそういうものか、と思い首を捻っていると、充が今度は逆に訊いて来た。
「ボスにも、そういう女いるんすか?」
「…あぁ」
桐山が即答したのが意外だったのか、充の顔に動揺の色が見えた。
桐山の方はそんな充に構う事無く、言葉を紡いだ。
「中川の顔を何故か見ていたいと思う。特に用もないのにだ」
「気がつけば、視線がいつも中川を追っている。どうしてなのか、自分でもよくわからないんだ」
充はいつに無く饒舌な桐山に驚きを隠せない様子で、何度か目を瞬かせていた。
「それが知りたくて、充に聞いたんだが」
桐山はそう言って、充をじっと見詰めた。
純粋に答えを求める瞳だ。
時折桐山が見せるこの瞳に、充はひどく戸惑う。
桐山は自分など足元に及ばないほどの知識を持っている様に思えるのに。
ふとした時に見せるこの瞳は、本当に何も知らないかの様にも見えた。
だから充は桐山に問い掛けられたら、必ず真剣に考えた上で答えを返す。
しかし今回は少し複雑だった。
桐山の言動を考えれば、導き出せる答えは、ひとつしかなかった。
だがこんな事を言ったら、さすがの桐山でも怒るかもしれない。
それが、充を躊躇わせたのだが。
「それって、ボスは、中川に惚れてる、って事じゃないっすか」
充は桐山から視線を外し、言いにくそうに言った。
「惚れている?」
桐山はちょっとだけ眉を持ち上げて、充を見た。
充はおそるおそる視線を戻して、目を丸くした。
桐山の表情には、はっきりとした驚きの色が見えた。
普段は滅多に表情を変える事など無いのに。
「俺が、中川を、好きと言う事か」
桐山は、区切る様にそう言った。
自分でその言葉が示す意味を、確かめているかの様に。
「…そうなのかもしれないな」
どこか穏やかな声だった。
充はそんな桐山を、ただ不思議そうに見詰めていた。
今日の桐山は、どこか様子がいつもと違っていた。
そんな桐山に戸惑いを感じたが、少しだけ嬉しくもあった。
―ボスもちゃんと、好きになるんだ...女の事。
ただ、典子というのは意外だったが。
ボスだったら千草とか、相馬とかが似合うかと思ってたんだけどな。
「充」
充はぼんやりと考えていたが、ふいに桐山が立ち上がり、充を呼んだので、
驚いて桐山の方を見上げた。
「何?ボス」
桐山はじっと充を見ていた。
その瞳にはまた不思議そうな色が見えた。
「充は、どうしてその事を金井に言わないんだ?」
桐山は静かな声で訊いた。
充は少し悲しそうな顔をした。
どこかやりきれないような、そんな複雑な表情。
「どうしてって、それは、決まってるじゃないっすか」
「?」
再び首を傾げる桐山に、充はいつもに比べて、僅かに弱々しい声で、言った。
「どうせ俺には、高嶺の花っすよ」
桐山にはその時、充が言っている意味がよくわからなかった。
充の琥珀色の頭が、項垂れていた。
昼休みの終了を告げる鐘が鳴ると、桐山と充は揃って屋上を後にした。
教室に戻るまでの間、珍しく充は一言も喋らなかった。
桐山も、何も話さなかった。
だが別にその沈黙を気まずいものとは感じていなかった。
充はともかく、少なくとも、桐山は。
自分の前を歩く充の背中を見詰めながら、桐山は首を捻っていた。
―どうして、充は金井に自分の気持ちを言わないのだろう。
自分でわかっているのに。
自分はついさっきまで、わからなかった。
充に言われて初めて、
ずっとわからなかった答えを見つける事が、出来た様な気がした。
俺は、中川が好きなのだ。
だから俺は、中川を見ていたいのだと。
好き、という気持ち。
実感は沸かなかったのだが。
自分は典子に伝えなければと思った。
「俺は、中川が好きなんだ」
その気持ちは、まるで初めて百点を取った子供が、嬉しさのあまり母親に
報告しに行きたくなった気持ちに近いかもしれない。
桐山自身は「嬉しい」と感じる事は出来なかったのだが。
ただ、何かを掴めた様な。
そんな気持ちになって。
それを、典子に伝えたいと思ったのだ。
本当にただ、それだけだった。
教室に戻った桐山は、いつもの典子の席に視線を動かした。
しかし、そこに典子の姿は無かった。
桐山は教室中を見回した。
何だか落ち着かない気持ちになりながら。
漸く典子の姿を捉え、彼女の方へと近づきかけて、桐山は動きを止めた。
視界には典子の笑顔があった。
いつも目で追っていたそれ。
それは、典子と話している時は自分に向けられていた。
今典子は、七原の隣に居た。
嬉しそうに、笑っていた。
自分の知らない顔をしていた。
あの笑顔。
惜しみなく振りまかれるそれは。
七原のためだけのもの。
見ていたいと、思う気持ち。
特に用も無いのに。
それが、好きという、気持ち。
典子の方を見ているとき、
典子の視線を追うと、その先にはいつも七原が居た。
それが指す意味を、ついさっき、充に教えて貰ったばかりだった。
中川が見ていたいのは、七原なんだな。
中川が、好きなのは。
「どうせ俺には高嶺の花っすよ」
充が言っていた意味が、何故かわかった様な気がした。
住む世界が、違う。
ただ充が言っていた様な隔たり方では無く。
自分では埋められない何かがあった。
それが埋まらない限り、自分は典子に近づく事ができないのだと。
どうしてか、そう思った。
―俺は、中川の事が好きなのかもしれない。
それを伝えたいと思って居た筈なのに。
典子の事を見て居たかったはずなのに。
今は見たくなかった。
言葉に出さなければ、気持ちは伝わる事は無い。
言葉に出して伝えなければ、何の意味も為さない。
それは、わかっているのに。
桐山は踵を返した。
何も無かった筈の心に。
僅かな空虚を感じながら。
桐山はその時典子に近づき、話しかける事は出来なかった。
桐山が典子に、自分が初めて抱いた想いを伝える事は、遂に無かった。
おわり
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