卯月の頃

典子は母親と一緒に林田と向かい合っていた。
「成績は、申し分ないですよ。数学が少し苦手なようですが」
林田は手元に置かれた、二年生の通知表に視線を落としながら言った。
その横には二年生最後に受けた模擬の結果もある。
「このまま頑張っていけば、推薦も狙えます。充分」

まだ下に弟がいるし、家に迷惑はかけたくないから、県立に入りたいと考えていた。
それから、先生になるために大学に行きたいから、普通科へ。
それだけ具体的に決まっていれば十分だろうと林田は言ってくれた。
三年生になって最初の三者面談は、滞りなく終了した。

「数学、もう少し頑張りなさいね」
そう言った典子の母親の声は、言葉とは裏腹に穏やかだった。
少しも揉める事無く面談を終える事が出来たのが嬉しいのだろう。
「はーい」
答える典子の声も明るい。
本格的に受験に取り組み出すのはもう少し先の事になる。
その前に、楽しい修学旅行が待っている。

受験生になったと言う自覚をいまいち持つ事が出来ない、今はそんな時期だった。

教室を出て少し歩いていると、一組の親子とすれ違った。
典子の母親が軽く会釈すると、父親らしき白髪交じりの男性も同じく会釈を返した。
隣に居た少年と目が合い、典子はちょっと驚いた様に目を見張る。
しかしすぐに彼は男性と一緒に去って行ってしまったので、声をかける事はしなかったけれど。

「あの男の子、知ってる子?随分格好いい子ね」
典子の母親が小さくなっていく親子の後姿を振り返りながら訊いた。
「ああ、桐山くん」
「桐山…?保護者会ではそういう名前の方はいなかったようだけれど...」
不思議そうに首を傾げる母親の方は見ずに、典子はぼんやりと考えた。
―桐山くんはもう行く高校とか決めてるのかな。
学年上位十名が発表された二年の学期末試験。
その一番上に彼―桐山和雄は名を連ねていた。
桐山に行けない高校なんてないだろう。
ほんの少し羨ましいような気がした。



翌朝、何となく少し早めに登校して来た典子は、ちょっとだけ驚いた様に瞬きをした。
「桐山くん」

がらんとした教室の中、
窓際の一番後ろの席に桐山が座って居た。
他に生徒はまだ誰も居ない。
桐山はそっと視線を典子の方に向けた。

「おはよう。今日は早いのね」
「ああ」

机に鞄を置きながら典子が声をかけると、桐山は一言だけ答えた。
桐山がこんな時間に学校に居るのは、とても珍しい事だった。
二年生の時も良く遅刻や欠席を繰り返していたのに。

桐山も自分と同じ様に、何となく早く来て見ようと思ったのだろうか。

典子の頭に、ふと昨日考えた事が浮かび上がった。
桐山に聞いて見たい事が、あった。
二人で居る今、聞いておきたい事が。
「桐山くん」

桐山の席から近くも遠くもない位置にある自分の席から、典子は尋ねた。
「桐山くんは、高校どこ行くの?」

桐山はすぐには答えなかった。
ただそのどこか冷たい、しかしとても綺麗な瞳を典子の方へとじっと注いでいた。

典子はしまった、と思う。
差し出がましい事を聞いてしまったかもしれない。
そうだ、自分が桐山にこんな事を聞くのはおかしい。
ただ、少し。
少しだけ、気になって。

どうしてか。

「…そんなに決めてないよね、まだ三年生になったばっかりだし」
典子はそう言って、さっきの問いを自己完結させようとした。
そうせずにいられなかった。
しかし。

「いや。行く高校なら決まっている」
桐山が落ち着いた調子の声で、その時やっと答えた。
典子はちょっと驚いた様に桐山を見詰めた。
桐山は相変わらず静かな声で続けた。
「N高だ」


「N高…」
典子は少し目を丸くした。
県外の超有名進学校の名前だった。
ここ数年、この学校からその高校へ行ったという生徒はひとりもいない。
だが桐山なら恐らくは、と典子は思った。

「そう…すごいね。やっぱり」
「中川は、決めているのか?」
「あ、うん。あたしは…S高」

偏差値的に言って、中の上くらいのレベルの高校だった。
ただ、そこは教育大学に推薦枠があるのだ。

「将来の事考えて、そこしかないな、って思ったの」
典子はそう言って、軽くはにかんだ。
そこまで言う必要はなかったのだけれど。
何となく、話しておきたい気分だったのだ。その時は。

「中川には、目標があるんだな」
桐山がぽつりと言った。
その顔は相変わらず無表情だったが、典子の瞳にはその顔が何故か少し
寂しげなものに映った。
「俺にはない」
「え?」
「ただ、父が行けといったから。だから、行くだけだ」

典子は目を丸くした。
「え?でも…桐山くんだって…将来なりたい職業とか…あるでしょう?」
桐山は典子の問いに、静かに首を振った。
「特にやりたいと思う事はない」

桐山は抑揚のない声で続けた。
「意味があるのか?将来を考える事に。俺にはそれがよく分からないよ」

桐山の言葉は、典子に少なからず衝撃を与えた。
特にやりたいと思う事はない。
桐山は、そう言った。

そう考える人も居るのかも知れない。
けれど。
そう言った時の桐山の目には、本当に何も無いかのように見えたのだ。
未来への憧れだとか、希望だとか。
そんな前向きな気持ちが、何一つ感じられない。
虚ろでとても寂しい瞳。
典子はそんな桐山の様子に、やりきれない気持ちでいっぱいになった。

「桐山くん。あたしは」
改まったような典子の口調に、桐山はちょっとだけ驚いた様に、その形良い眉を持ち上げた。
「目標があると、頑張れるわ。あたしは」

先生に、なりたい。
自分のたったひとつの取り得。
それを活かせる仕事。
それが自分の目標。
ずっと持ち続けた夢。

「勉強とかでもね、そのためだと思えば、一生懸命できるの。
少しでも目標に近づきたいって、思うの」

典子は必死になっていた。
自分のこんな拙い言葉では、言いたい事の半分も桐山に伝える事は出来ないかも知れない。
それでも。
桐山に分かって欲しかったのだ。


一通り話し終えて、典子ははっとして頬を紅く染めた。
桐山は相変わらずじっと此方を見詰めている。

あたし…どうしてこんなにむきになって喋って…。
典子は急に恥ずかしくなって、俯いた。

「目標…」
桐山が呟くように言った。
典子は弾かれた様に視線を桐山の方へと動かした。

桐山は少しだけ目を細めていた。
「それを見つけるのも…悪くないかもしれないな」
光が差し込んできた所為だろうか。
桐山の顔が先程と違って見えた。
虚ろな雰囲気は影をひそめ、どこか生き生きとした表情をしている様に。

「中川は、すごいな」
「…え?」
「自分で、目標を見つけている」

桐山は相変わらず目を細めていた。
まるで目の前に居る典子が眩しいとでも言うかの様に。
じっと見詰められ、典子は少し頬を紅くした。

「桐山くんだって、すぐ見つかるよ」
「…そうか?」

「うん。きっと」
典子が微笑んでそう言うと、桐山は静かに頷いた。

分かって、もらえたのだ。

典子は嬉しかった。
すごく。すごく。


桐山はまた典子をじっと見詰めた。
もう寂しそうな目ではなかった。

それでやっと安心して桐山を見られるようになった気がした。
―そうだ。桐山は。
どこか放って置けないような、そんな雰囲気を持っていた。
そんな桐山に、何かを教えてあげられたらいい。
いつからか、典子はそう思うようになっていた。

そんな、寂しい目をしないで。
考える時間は、まだたくさんあるんだから。

考える時間は、まだたくさんある。
典子は、そう思って居た。
桐山にも、自分にも。

何時の間にか、普段登校して来る時間になっていたらしい。
「おはよー!典子」
典子ははっとして桐山に向けていた視線を、声のした方へと向けた。
二人の間の会話は、そこで途切れてしまった。

「おはよう」
典子は微笑んで挨拶を返す。
同じ様に笑顔で入って来た、幸枝やはるか、有香たちに。

空いていたクラスの席は段々埋まっていった。
「ボス、おはよう」
充に声をかけられ、桐山も視線をそちらへ動かした。
「ああ。おはよう」

いつも通りの朝が始まる。

きっと、時間が経つにつれて。

今よりもっと、進路の事で悩んだり、苦しんだりする時がやってくるのだろうけれど。
それでも。
まだ、考える時間はたくさんあって。

明日も、その次の日も。
きっと。



おわり