「人魚姫」
桐山和雄はふと目に止まったその本をすいと手にとった。
寒色系の表紙には金色の髪を胸を隠すくらいに伸ばした女―ただし下半身は薄紅色の鱗で覆われている、の姿が描かれている。
その女は、どこか寂しそうな表情をその顔に浮かべていた。
桐山は図書室にこの所足繁く通っていた。
その目的は本を読むためばかりではなかった。
―同じクラスの中川典子に会うため。
図書室に行けば典子に会える、という図式が、桐山の中では成り立っていた。
もっとも―実際会える確率は余り高くなく、一週間に一、二度会えれば良いほうだ。
本当に会いたいと思うのならば本人を直接誘えばいいのだろうが、桐山はそれをしなかった。
会えたらそれもいい、会えなければそれまで、そんな程度の気持ち。
それでも桐山は図書室に足を運ぶ事をやめはしなかった。
自宅の書斎に行けば―この図書室の数倍もの蔵書が待っているにもかかわらず。
中川の話を聞くのは悪くない、桐山はそう思って居た。
最近読んだ本などの感想を聞かせてくれたりする。
桐山自身は本を読んで何かを感じたという経験が無いので、そんな典子の話は興味深いものだった。
「あ、珍しいね」
待っていた人の声がした。
「中川」
桐山と目が合うと、典子は軽くはにかんだ。
相手が県内屈指の不良グループ、桐山ファミリーのリーダーであろうとも少しも物怖じせずに話す。
怖いもの知らずというべきか、典子はそういう少女だった。
桐山はそんな典子を無表情でじっと見詰めた。
「桐山くんも絵本読むのね」
「活字の本はもう粗方読み尽くしてしまった」
「え…本当に」
「ああ」
典子は多少面食らったような顔をしたが、桐山は表情を変えなかった。
「そのお話、ちょっと悲しくない?」
桐山の持っている本を指差し、典子は言った。
そして慌てた様に付け加えた。
「あ、もう読んだ?」
桐山は頷いた。そうして、聞いた。
「どう言うところが悲しいと思うのかな。中川は」
典子はそれで、少しだけ黙った後、答えた。
「人魚姫が可哀相だわ。大好きな人を殺せなかった代わりに、泡になって消えてしまうなんて」
桐山はちらりと手にした本の表紙に視線を向けた。
金髪の女は相変わらず悲しそうな顔で此方を見ていた。
「…俺にはこの女の気持ちが良く分からないな」
桐山は抱いた感想を素直に述べた。
「何故慣れ親しんだ故郷を捨て、姿を捨て、おまけに命まで捨てる事が出来るのか」
生命を維持する事が生物にとってはもっとも原始的な欲求の筈なのに。
すると典子はその桐山の言葉に対して、こう答えた。
「でもあたしは捨てられると思う」
桐山はちょっと瞬きをした。
典子は普段の柔らかい表情とはまた違った―どこか決意の篭められたような、そんな表情をしていたので。
「本当に、大好きな人のためだったら。あたしはきっと、何だって、するわ」
典子ははっきりとそう言った。
桐山はそんな典子をまたじっと見詰めた後―静かな声で訊いた。
「死を選ぶ事になってもか」
「...うん」
典子も桐山を真っ直ぐ見て、そう答えた。
桐山はそれで少し戸惑いを覚えた。
死を選ぶ―中川も?
「なんて、そんな事実際にあるわけ無いね」
桐山ははっとして典子を見た。
いつものような優しい顔をしていた。
「真面目に考えちゃった」
典子はそう言って、照れ隠しの様に少し笑った。
桐山は黙って、そんな典子を見詰めた。
―不思議な女だな、と思った。
桐山はまた手にした本をめくった。
偶然開いたページには、人魚姫が海へと飛び込む場面が描かれていた。
彼女は目を閉じて、泣いていた。
その日、桐山は一ヶ月振りに美術室に入った。
美術部員の姿も見当たらない、がらんとした部屋の中、
桐山はキャンバスをイーゼルに静かにセットした。
青色の絵の具。
赤色の絵の具。
白色の絵の具。
パレットに引き絞った。
白いキャンバスに筆を走らせる。
紙を染め上げる。
感想文を書く事は得意ではなかった。
もちろん求められれば書く。
だがそれは教師が喜ぶと思われる表現の羅列に過ぎない。
自分にはなんの感慨も沸かない。
素直に感想を文章にしたためる事は出来なかった。
だから絵を描いた。
思い浮かんだイメージをキャンバスに焼き付けて置くように。
筆を止めた。
キャンバスには海が広がっていた。
下は群青色の海。
中間からは薄紫。
空に接する部分は赤からオレンジ色のグラデーション。
あの本の中で、人魚姫が身を投げたのは明け方の事だった。
けれど桐山は何故か夕焼けの海を描いた。
生命の終わり。
一日の終わりに太陽が海に還る姿に、それはどこか似ていた。
泡沫(みなわ)は一瞬で弾ける。
あの本の中。
想って居た王子を殺せば自分は助かるのだと告げられた人魚姫は、どうしてかそれをしなかった。
海の泡となって、永遠に消え去る事を選んだ。
あの時は良く分からなかった。
目の前で典子が銃口をこちらに向けるのが見えた。
桐山は動けなかった。
疲労が限界に達していたとはいえ、
手にした銃の引き金の標的を、目の前の彼女に変更する事は不可能ではなかった、
その筈だったのに。
人魚が短刀を握りしめて涙をこぼす。
恋人と顔を並べて、安らかに寝息を立てている王子に背を向け、別れを告げる。
すっかり聴き慣れて居た筈のその音はひどく大きく聴こえた。
ばん。
中川。
あの女がどうして王子を殺す事が出来なかったのか。
漸く、少し分かったような気がするんだ。
同じだ。
俺も、同じ。
中川には七原が居る。
あの王子に恋人が居たように。
「人魚姫が可哀相だわ。大好きな人を殺せなかった代わりに、泡になって消えてしまうなんて」
俺は「可哀相」なのか?
桐山は目を閉じた。
もはや動かす事の叶わなくなったその手から、銃が落ちた。
泡が儚い命を惜しむ間もなく弾ける様に。
桐山和雄の命は、絶えた。
夕陽がゆっくりと海へと沈んでいった。
おわり
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