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夏の葬列

さらさらと風が頬を撫ぜる。

身の丈ほどに生い茂った夏草の間を掻き分けて進んだ。
主を無くした家々は無残に取れかけた扉を開け放していた。
ぎいぎいと響く音。苦しみ呻く人の声の如く。

空には雲ひとつ見当たらない。
真新しい青絵の具をそのままパレットに引き絞った時の色。
陽射しが少し強過ぎる気がした。

帽子を被り直した。
軽く眩暈を覚えたが、どうにか座り込まずに済んだ。
満足に舗装されていない道を歩く。もう少し踵の低い靴を選ぶべきだったと、軽い後悔の念が胸にさしたが、今思っても詮無い事と打ち消す。

やや強めの風が吹き、ざわざわと木々が騒いだ。
生きている「人」が姿を消して久しいこの島は、それでも生命に満ち溢れていた。
小鳥がしきりにさえずっていた。まるで「来訪者」を歓迎するかのように。

何しろ何年振りかの事で、道もうろ覚えだ。無事にそこに辿り着ける保障は何もなかった。
けれど不思議と焦りも不安も感じないのは、単に自分が成り行き任せな性格であるせいばかりではないだろう。

忘れる筈がない。否、忘れてはいけなかった。

雨ざらしになった廃墟の横を通る。
誰も片付けようとはしなかったのだろう。そこはほとんど手付かずの状態で残されていた。
剥き出しになった鉄骨が痛々しく見えた。
そして、ここまで来ればもう道筋を間違えると言う事はない。

視界が開けた。

雑草が一面を覆い尽くすそこは、もはや往時の面影をほとんど残してはいないけれど。
確かにそこはそう。その筈。

木々がまたざわざわと騒いだ。

胸に手を当てる。少し、苦しい。
けれど目を背ける訳にはいけない。
それでは自分がここに来た意味がなくなってしまう。


足を踏み出した。
―やはり「彼」はそこにいた。
あの日の姿のまま。
そこに佇んでいた。


「桐山くん」
黒い学生服の後姿に声をかける。
一目でそれとわかったのは、彼の特徴的な髪型の所為だ。

至極緩慢な動作で、彼は振り向いた。
形良い眉が、僅かに持ち上がる。驚きの表情。
「…中川、か?」
彼の疑問に答えるように、そっと頷いた。
「良かったら、座って?」
彼が草に覆われた地面にそのまま腰を下ろしているのに気付いて、そう言った。
薄めの敷物を地面にふわりと広げた。
彼は少しの間の後無言で頷き、敷物の上に移動した。
その隣に座った。

記憶の中の彼は…随分と大人びていると思って居たのだけれど。
こうして間近でみるとその顔には年相応の幼さが残っていた。
何時の間にか彼との間には随分と年の開きが出来ていた。

「ずっとここに一人でいたの?」
「ああ」
彼は膝を抱え、どこか遠くを見るような目で、言った。
「帰る場所が無かったんだ」

ざわざわと、また木々が騒いだ。

「…そう」
さらさらと風。彼の長めの襟足が踊る様に揺れた。
彼の端正な横顔は月日の流れを全く感じさせなかった。
けれど彼は確かにここに居た。ずっと、ひとりきりで。

「寂しかった?」
…尋ねずにはいられなかった。
返答はすぐに返ってきた。
「わからない」

無機質な声。どこか冷めたような視線。
それがふと此方に向けられた。
「中川は…どうしていた」

漆黒の硝子玉がはめ込まれたみたいな、澄んだ瞳でじっと彼は此方を見詰めた。
この瞳に正視されるのは、ほんの少し、辛かった。

「…色々な事があったわ」
瞼を伏せた。…色々な事が、あった。
ここを出てから数年。
目まぐるしく動いた周囲の環境。
辛く苦しい戦いが続いた。
「秋也は…今も戦ってる」

胸を押さえた。…また少し、苦しい。
大切な人たちの面影がよぎった。
彼は相変わらずじっと此方を見詰めていた。
やがて、静かな声で言った。
「それならば…中川は何故ここへ来たんだ?」


ざわざわと、今度は少し強めの風が吹いた。
…嵐になるのかもしれない。
胸に当てた手を、そっと離した。
彼を真っ直ぐ見詰めた。
「きっとあたし…貴方に謝りたかった」

「…謝る?」
彼の形良い眉がほんの僅かに持ち上がった。
それに頷いた。
「忘れられなかったの。あの時からずっと」
彼は幾度か瞬きをして、此方を見た。
ひどく驚いているよう。
…でもこれは彼に言いたかった事だ。ずっとずっと、言いたかった事だ。
ここに戻って来る決意をした、理由なのだ。
「あの時、桐山くんは、すごく寂しそうな顔してた。だから」
彼をじっと見詰めた。
視線が絡む。…あの時と、同じ。
彼は発せられた銃弾を拒む事は無かった。
その気になれば、避ける事は不可能ではなかった筈なのに。…どうして?
一瞬だけれど目が合った。
最期の彼は言葉に現せないほど、寂しい顔をしていた。
自分の身勝手な推測に過ぎないと打ち消す事はどうしても出来なかった。
彼は少しだけ俯いて、言った。
「俺は…自分が寂しいのかどうかよく分からない」
「…あたしにはそう見えたの」
彼は哀しそうな顔をしていた。
限りない諦めと、絶望と。
…何に対するものなのかは分からなかったけれど。
手を差し出した。
驚く彼に、微笑みかけて、言った。
「一緒に、行きましょう?」


さらさらと風が吹く。
飛び散ったままの硝子の破片。
その一つに映し出された風景。
そこには一面雑草に覆われた風景。
他には、何も。何も映してなど居なかった。

この島に生きている「人」はいない。

「他に行くところが無いのなら」
それが、あたしの償い。
貴方の命を奪ったあたしの償い。

「…中川」
彼の瞳に映り込んだ光が揺れている。…それは見間違いなどではないだろう。
「中川も…」
そのあとの言葉を、しかし彼は続ける事はしなかった。
その代わりに、差し出された手にそっと自分の手を重ねた。
ひやりと冷たかった。

彼の手を優しく握った。
不思議。
こうして手を繋ぐ事になるなんて思いもしなかった。
先に腰を上げた彼が、相変わらずの静かな声で尋ねた。
「中川。…これからどこに行くんだ?」



遠い異国。
雲ひとつ無い青空の下。
一団の葬列が進んでいた。
開けた草原の中。
黒い喪服を着た人々はゆっくりと歩を進めた。
すすり泣く声も聴こえて来た。
先頭に立つ男の表情は硬い。
涙すら枯れ果てた、そんな言葉が相応しいような。
傍らに居た幼い子供が、あどけない瞳で男を見上げて、言った。
「お父さん」
「…どうした?」
「お母さん、幸せそうだったね」
「…そうだな」

子供の頭をぽんぽんと軽く叩き、男は胸に抱いた写真を見詰めた。
写真の中には、まだ此方へ来てすぐの頃撮った、少女のままの妻の、
穏やかに微笑む顔が映っていた。
男は視線を空に移した。
陽射しがきつくて、男は少しだけ目を細めた。
「…典子。お前、今どこに居るんだ?」



さらさらと風が吹く。
夏の葬列はゆっくりと進んでいった。
黒い喪服を着た人々は、ここには居ない、もう届かない人に想いを馳せて、進んだ。


「…あたしにもわからないわ」
ただ迎えに来たかった。
貴方を。

何よりも大切で大好きな秋也と子供達のところでも、慣れ親しんだ城岩町でもなく。
あたしは貴方を迎えに来たかった。


「一緒に、行きましょう?」



おわり