「母子共に大変危険な状態です。奇跡的に助かったとしても、どちらか一方しかー」
漸く聞き慣れ来た米国の言葉。
それを聞いて夫は泣き崩れる。
共に母国を捨てて以来、唯一の心の拠り所だった妻と、その間に出来た新しい命の危機。
その事実は、彼にとって大きな衝撃だった。
こんな理不尽な運命が、あっていいものだろうか。
夜もろくに眠らず、彼は昏睡状態に陥った妻の傍らに寄り添っていた。
「頼むから、目、開けてくれよ。典子。」
涙で歪んだ視線の先、陶器の様に白い肌をした妻の目は閉じられ、ただ苦しげな息遣いと呻き声だけが聴こえて来ていた。
典子。
名前を呼ばれた気がした。
―秋也?
振り返る。
ぼんやりと白い人影があった。
目を凝らして見てみる。
秋也ではなかった。
白い影は黒いセーラーに身を包んだ、三つ編みの少女の姿に変わる。
「幸枝…」
何年振りかに見る顔。
懐かしい面影。
少女は哀しそうな顔で自分を見ていた。
―ごめんね、幸枝。
幸枝も、秋也くんの事―。
そう言おうとしたけれど、声にはならなかった。
少女は俯いた。
そうして、周りの風景に溶け込む様にして、消えてしまった。
行っちゃうの?幸枝。
手を伸ばしたけれど、もうそこには誰もいない。
ただ果てしなく暗い闇が広がるばかりで。
歩いてみた。
何人も、懐かしい顔を見た。
優しかった林田先生。
楽しく笑い合えていた子たち。
あまり話した事はないけれど、
やはりその存在はかけがえの無いものだったのだと。
あの島を出てからやっと気付いた、
もっと話しておけば良かった、そう思って居た人たち。
皆、こっちを見ていた。
哀しそうな顔をして、見ていた。
そして、消えてしまった。
行かないで。
あたしを置いていかないで。
身体が急にだるくなってきた。
ひどく息苦しくなって。
思わず座り込んだ。
―苦しい。
苦しい。
皆も、苦しかった?
死んでしまう時。
下腹部に手を当てた。
―この子も、苦しんでる。
暗い場所に、ひとりきり。
今はひとりであってひとりではないのだけれど。
落ち着かなかった。
不安と。
恐怖と。
孤独。
それが胸を満たしていた。
お願い、誰でもいいから。
側に居て。
消えないで。
その時。
暗闇の中。
ぱっと一箇所明るい場所が出来た。
紅く、光っている。
誰か居た。
ふらふらとそこへ近づいて行く。
苦しくて。
息も絶え絶えだったけれど。
それでも、必死に、そこへ向かった。
ぼんやりと、人影が見えた。
「苦しいか、中川」
独特の威圧感を持った声が耳に響いた。
ああ、この声。
すっと手が差し出された。
忘れたくても、忘れられない。
「桐山くん」
顔を上げて、手を差し出している少年の名前を呼んだ。
もう何年も前に、この世のものではなくなっている男の子。
あたしが殺めた、ただ一人のひと。
桐山ー桐山和雄。
苦しい息の下、彼に訊く。
「あたしを、迎えに来たの?」
彼は黙っていた。
相変らずの無表情で。
血に塗れた黒い学生服を着ている。
死神に相応しい姿だと思った。
あの日と全く同じ。
最後に見た彼の姿。
綺麗な顔に紅い傷跡。
「痛かったでしょう?」
手を伸ばして、彼の頬に触れた。
傷口から零れた紅い雫が指を染める。
「…痛かった。ずっと」
彼は表情を変えずに言った。
「ごめんね」
そう一言、彼に言った。
あたしはこの言葉を言う機会は永遠に訪れる事はないと。
そう思って居た。
彼が怖かった。
でも、そう感じたのはあの悪夢の時だけ。
日常でほんのささやかなものではあったけれど、言葉を交わす事のあった彼は。
少しも怖くなかった。
「わからない」
そう言って、いつも自分に答えを求めてきた彼は、どこか幼く見えて。
あたしは彼に答えてあげる事が好きだった。
だから、彼の命を奪った事はあたしの心に深く影を落とし続けた。
川田君が幾ら庇ってくれても。
あたしは彼を撃った。―彼の死を、望んだ。
あたしは彼が生まれてきて、生きていた事を否定した。
彼は驚いている様だった。
無表情の眉を少しだけ持ち上げる。
「泣いているのか、中川」
「―え?」
彼に指摘されて、気がついた。
頬を何かが伝う感触。
目の前の彼の顔が不自然に歪んだ。
涙を流したのは、何年振りだろう。
ずっと、泣けなかった。
泣いてはいけないと誓った。
秋也にそんな顔は見せられないと思って居たから。
息苦しさは増すばかりだった。
搾り出す様な声で彼に言った。
「あたしは、連れて行ってもいい。だけど」
この子は連れて行かないで。
自分の下腹部に手を当てて、そう言った。
もう声にならない声で。
この子は、連れて行かないで。
秋也が、ひとりになってしまうから。
ううん、それだけじゃない。
産みたいの。
あたしはこの子を産んであげたい。
彼をじっと見詰めた。
彼の顔は、相変わらずとても綺麗で。
ほんの少し、寂しそうに見えた。
「連れて行かないよ」
彼はそっと目を伏せて、言った。
「中川も、中川の子供も。連れて行かない」
彼は、ふらつきそうなあたしの身体を支えてくれた。
あれから背が伸びたせいか、彼と目線はさして変わらない位置にあった。
以前だったら、見上げる様にして話していたのに。
「自分が死んでも、子供は助けたい」
相変らず感情の篭もらない声で、独り言の様に彼は言った。
「母親とは、そういうものなのかな」
心なしか、寂しそうな声に聴こえた。
「今日は、お別れを言いに来たんだ」
彼の端正な顔は紅く照らされていた。
何時の間にか。
ここは数年前のあの場所に変わっていた。
紅い夕焼け。
引き金を引いた、十五歳になったばかりの自分。
二度と目覚めない眠りに就いた彼。
あたしは、彼の時間を永遠に止めた。
「お別れ…?」
彼は頷いた。
そして、そっと目の下の自分の傷を押さえて、言った。
「痛かったのは、ここじゃないんだ」
彼はそのまま、その手を自分の左胸に当てた。
目を閉じた。
「ここが、痛かった。ここが痛くなったのは、初めてだった」
辛そうな顔に見えた。
そんな彼の表情を見たのは初めてだった。
胸が苦しくなるのを感じた。
彼はその澄んだ瞳でこちらを真っ直ぐ見て、言った。
「俺に足りなかったものが、やっとわかった。きっと、今の中川の様な存在が。」
ねえ、
あなたはどうしてそんなことを想ったの。
「だから俺は中川を殺せなかった。…それに」
あなたの命を奪ったのは、あたしなのに。
「知りたい事が、わかったから。だから、もう、いいんだ」
彼はじっとあたしを見ていた。
とても穏やかな顔に見えた。
「それを、中川に伝えたかった」
ー彼の言葉は、あたしを長い間の悪夢から、解き放ってくれるようだった。
…これが、夢でなければ。ここに居るのが、本当に、彼ならば。
「桐山くん…」
彼の背中に手を回した。
強く抱きしめた。
「…中川?」
少し驚いた様な彼の声。
彼を抱きしめた。
秋也を抱きしめるのとはまた違った気持ちで。
ああ、あの時からずっと。
あたしは彼にこうしてあげたかったのだと。
漸く気付いた。
冷たい目に映る世界しか知らなかったような彼に。
腕の中の彼は冷たかった。
彼には、温めてくれる人が居なかったのだ。
彼に感じていた違和感は、そのせいなのだと。
幻に過ぎない彼の身体を抱きしめながらそう思った。
以前彼があたしにカーネーションを贈ってきた時の事が、くっきりと頭に蘇って来た。
「桐山くん、あたしが桐山くんのお母さんだったら、きっとこうしたかったと思うわ」
ねえ、時間が許すなら、もう少し。
あたしはあなたと話したかった。
あなたを、理解してあげたかった。
あなたを、抱きしめてあげたかったのよ。
あなたには、そんな人が誰も居なかったんでしょう?
彼は黙っていた。
そうして、少しだけその身体の重みを任せて来た様な気がした。
腕の中の彼は子供のままだった。
「中川」
暫くして、彼が静かな声で言った。
「中川がこうするべき相手は、まだ生まれていない」
伏せていた綺麗なその顔を上げて。
「だから、中川は戻らなければいけない」
相変らず彼は無表情だった。
けれど。
冷たい雰囲気は消えていた。
彼の顔を見て、頷いた。
―戻らなければ、いけない。
あなたとは離れなければいけない。
もう、あなたは…。
もう一度彼の身体を抱きしめる手に力を篭めた。
「ありがとう」
彼が、そう言った。
「中川」
彼があたしの名前を呼んだ。
もう、この名前で呼ばれる事はないだろう。
「…中川は、温かい。何だか…悪くない感じがするな」
彼は目を閉じた。
本当に、気持ち良さそうに。
「中川のような母親が…俺にも居たら」
腕の中の彼がゆっくりと紅い光に溶けて行く。
あの日。
沈む夕日と共に倒れて行った様に。
彼は。
桐山くん。
桐山くん、ありがとう。
もうほとんど見えなくなるくらい小さい光のかけらを抱きしめた。
さよなら。
最後に彼の声が聴こえた気がした。
夕陽が沈んでいく。
後にはまた暗闇が広がった。
「戻ろうか」
自分の下腹部に手をやり、そう呟いた。
待ってる人が、居るから。
…あなたを、待ってる人に、会いに行きましょう?
瞼を持ち上げた。
秋也が泣いていた。
「よく頑張ったな、典子」
そう言って子供の様に泣いた。
秋也とは違う泣き声が聴こえて来た。
あたしが抱きしめるべき子供の声。
足りないものなんて何も無い位に。
たくさん、愛してあげたい子供の声。
今、動き出したばかりのこの子の時間。
あなたは、ちゃんと笑って。
ちゃんと、泣いて。
それから…ちゃんと、生きて。
でも、その前に、あなたに言わせて。
あなたに。
それから、…彼に。
「生まれてきてくれて…ありがとう」
心からの、感謝の気持ちをこめて。
あなたと出会うことが出来て。
ー本当に、良かった。
おわり
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