「なあ、ボスにもさ、やっぱ好きな女とかいる?」
いつものように屋上で、昼食を取っている時、充がそう俺に質問して来た。
それまで充は笹川や黒長や月岡たちと、何が楽しいのか時折笑ったり顔を紅くしながら話していた。
それが漸くひと段落ついたらしい。俺が何も話さなかったから、気にかかったのか、俺にも話題を振って来た。
特に話に加わる必要性もないと思っていたのだが、質問されて困ることでもないので、俺は答えた。
「…好きなのかどうかはわからないが、気になる女なら、いる」
「へっ…?」
充はひどく驚いたような顔をした。俺は何かおかしなことを言っただろうか。
「だ…誰なんだいそいつ…うちのクラスの奴?」
充はちょっとうろたえたように聞いて来た。充がそんな反応を示す理由が、俺には良く理解できない。
「ああ、中川だ」
「え、中川?」
充だけでなく、月岡たちも驚いたようにこちらを振り返った。
「ど、どっちの方?」
そう問われて、そう言えば中川と言う女は二人いたのだな、と気づく。俺の頭にあったのは、ひとりのことだけだった。一応全てのクラスメイトを記憶してはいるが。
「…典子。」
中川典子。
俺にとって興味深い。
俺にとって不可解な、女。
わからないことが多い日常において、更によくわからない何かを俺に抱かせる、そんな、女。
「何でまた、中川なんだ?ボス。」
充は意外そうに尋ねて来た。
それは…俺にもよくわからないのだ。
「…そうだな…中川は、面白い。」
「面白い…?」
「ああ」
「面白い」そんな一言で片付けてしまっていいものだろうか。
よくわからない。自分の中に、何かはっきりとしないものが残ったが、そのままにしておいた。
昼休みが終わって、充以外の連中はそれぞれ行きたいところへ行ったようだ。次の時間は体育だったが、授業に出る気が起こらないと言ったら充も同意してきた。
暫く今後盗みに入る場所や周辺のことについて意見を交し合っていたのだが、終礼の鐘が鳴って、少しして話は一段落したので、俺は充と別れて図書室に向かうことにした。
図書室に行くのは日課のようになっていた。
放課後は必ず行く。特に、読みたい本があるわけではないが。
適当な本を見つけて座ろうとした。しかし、席が空いていない。
今日はいつもに比べて生徒が多かった。
相席しか残っていない。それでも構わないかと思って(なぜかどの生徒も、俺が来るとたちまち席を空けてしまうのが妙だが)見廻すと、見慣れた顔を見つけた。
肩までの黒髪に、黒目がちな目。平均的な女子生徒。
中川―典子。
中川の方に近寄って、声をかけた。
「―何を読んでいるんだ?」
「えっ?あ、桐山くん」
中川はひどく夢中になっていたようで、俺が声をかけてから返答までに多少の時間を要した。
「これ。最近、映画化された小説なんだけど」
彼女が持っていたのは、薄い文庫本だった。
ここに座ってもいいかな、と尋ねると、中川はどうぞと答えた。
俺は中川の向かい側の席に腰を下ろした。
中川の手にした本を見て、俺はまた訊いた。
「それは、面白いのか?」
中川はなぜか少し顔を赤く染めた。
「うん、あたしは凄く好きな話なんだけど、男の子が読むには向かないかも。」
「何故だ?」
「うーん、恋愛小説だから、そう言うのって、男の子は苦手でしょ」
「そういうものなのか?」
「桐山くんは、違うの?」
「今までそういう本を読んだ事が無いから、よくわからない」
俺は考えたことをそのまま口に出した。中川は、そんな俺に少し面食らったようだ。
確かに俺が普段目を通すものとは系統が異なる本だ。俺が主に読むのは海外の学術書や大学の論文集で(父に課題として渡された米帝の言語で書かれた本を学校で読んでいたら充に驚かれたことがあった)、国内の文学作品には一応通じているものの、最近出版されたものには疎いと言えるかもしれない。
そうしたものに触れてみるのも、悪くないんじゃないか?
頭の中で、そんなことを考えた。
こういうのも、おもしろいかもしれない。
「中川、その本を読み終わったら、俺に貸してくれないか。」
「―え?でも…。本当に読むの?桐山くんが面白いかどうかわからないよ?」
―それに。
「中川は、面白いと思うのだろう?」
「それはそうだけど…」
「それなら、読んでみるのも悪くない」
中川が読んでいるものを読んだら、俺は中川を理解する事ができるかもしれない。
「…うん。わかった。じゃあ、私が読み終わったら、桐山くんに貸すね」
「ああ、頼む」
俺は目を通さなかった本を脇に抱えて、席を立った。
中川は少し微笑んでいた。
三日後に中川から約束通り本を受け取って、自宅に戻ってからその最初のページを開いた。
題材としてはごくありふれたものだった。
主な登場人物は、中学二年生の平凡な少女と、歌手を目指す少年。
夢を追いかけて毎日練習に励む少年は、多くの女子から思いを寄せられていた。
その中には、主人公の少女も含まれていた。
彼女は自分の唯一の特技である作詞の才能を活かして、少年と親しくなる。
やがて数年後少女の書いた詩を歌った少年は、見事に夢を実現するー。
途中経過はもう少しあるが、要約すると大体こうなる。
どう言ったところが、面白いのかな。
俺は一ページずつ丁寧に読み―その内容を余す事無く記憶したが、よく理解できなかった。
もちろん、話の流れはわかっている。多少、無理がある設定だという感想は持った。
だが、特別面白いとは思わない。
―いや、俺が本を読んでも何も感じないのは今に始まったことではない。以前、親子の別れを描いた作品を教師が朗読している最中に涙をこぼすという出来事があって、女子の何人かもすすり泣いていたようだったが、俺は特別何も感じなかったのだ。
なぜ、そうした違いが生まれるのだろう。
なぜ俺は中川のように、この本を好きになれないのだろう。
それから、読んでいてもうひとつ、気づいた事があった。
大して気に留める程の事では無かったのかも知れないが。
翌日、何となく目覚めが良かったので早めに登校すると、廊下で中川に会った。
「中川」
「あ、おはよう、桐山くん」
「おはよう」
彼女は微笑んで挨拶をして来た。中川は、他の女子とは違って、俺と話すときに妙にどもったり、脅えた様子を見せることはない。それで俺も、中川とは良く話すことになるのだろうか。きっかけはなんだっただろうか。これも考えるとよくわからなくなる。
「…借りていた本を読み終わったので、返そうと思った」
「…あ、うん。どう、面白かった?」
「…悪くない話だったよ」
特に惹かれるものはない、そう言ったらおそらく中川は悲しむのだろう。なぜかそう考えて無難な答えを口にした。俺は中川を悲しませたくないのだろうか。よく、わからない。中川といるときの俺は、自分でも理解不能だ。
中川は俺が差し出した本を受け取り、少し微笑んで此方を見た。
「どうした?」
「ううん、なんか意外だなーって。…こんな本読む桐山くんて想像つかなかったから」
「そうか?」
何が可笑しいのか、中川はくすくすと笑った。俺は、何か面白いことを言ったのだろうか。それが楽しかったのなら、別にそれも悪くはないと思った。
「じゃあ、また後でね、桐山くん」
中川は笑顔のままそう言って、教室に向かおうとした。
俺はそれを引き止めるように声をかけた。
「…中川」
「え?」
中川は驚いた様に振り返った。
「その本に出てくる詩を書くことが好きな女は、中川に似ていると、思う」
俺が読んで最初に気がついたこと。
「それから」
その次に、気がついたこと。
「その女が好きな歌を歌う男は、七原に似ているな」
「………」
俺がそこまで言うと、中川は顔を赤くして黙り込んでしまった。俺は更に続けた。
「…中川も」
「え?」
「中川も、そんな風に、七原の事を想っているのか?」
少し以前から、俺は知っていた。
中川はいつも七原を見ていた。
ギターを弾く七原の隣で笑っていたり。
授業中、どこか潤んだような目で七原を見つめていた。
声をかけた時、すぐに反応が返ってこなかった、その視線を追った先には、必ずといっていいほど七原の姿があった。
中川は、本の中に出てくる女そのものだった。
「…それは…」
中川はすっかり顔を紅くして俯いた。
俺の指摘は、正しかったのだろうか。
そうだとすれば、俺があの本を読んでも良く理解できなかったのはー。
「どんな気持ちなんだろうな、人を好きになるというのは。」
「え?」
中川は驚いたように顔を上げた。
「人を好きになるというのは、どんな感じなんだ?」
俺には理解できない。
きっと俺は、そんな気持ちになったことが一度もないのだ。
「中川には、わかるのだろう?その気持ちが。」
興味があった。
ああ、もしかすると俺は、そんな風に七原を見る中川の気持ちを知りたかったのかもしれない。
中川はまた少し頬を染めた。豊かな感情表現。知識では理解しているものの、俺にそんな表情の変化が起こったことはなかったように思う。
「うん、とても、温かくなるの。心が。その人の事を考えると。」
そう言った中川はとても「幸せそうな」顔をしていた。
知識の中にある、そんな表情の変化。
温かい、心。
誰かを想う時に感じる。
…それは。
「俺にはよくわからないが、中川がそう言うのなら、悪くない気持ちなんだろうな」
いつか俺も理解したい。
―いつか。
「俺もいつか、ここが温かくなるような想いをする時が来るのかな」
中川と同じ気持ちに、俺もなってみたい。
左胸のあたりに手を当ててみた。
中川が感じているような気持ちにー俺も。
おわり
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