答えをくれるのは君だけ。
それは二年生の夏休みの事だった。と記憶している。
特に用も無いので、桐山和雄は学校に来てみた。
城岩中学の生徒達には休業中、最低五回は登校して、プールに入るというおかしな義務が課せられていたのだが、
桐山はそんな決まりに縛られる事など無かった。
制服こそ身につけているものの、手にはなんの荷物も持っていない。全くの手ぶら。プールに入るなどという気は微塵も無かった。
幾らか普段より暑い日だったせいもあるのだろう。午前中でもプールに入ろうと集まる生徒の姿は多かった。
そんな生徒達の様子を、あるいは別の風景を目に留めつつ、桐山は校庭を歩いた。
特に目的がある訳でも無い、ただ外に出るのも悪くない、そんないい加減な理由でここに来たわけであるから、まもなく桐山は踵を返した。
…少し、暑くなってきた。
校門を出ようとして、ふと、脇の花壇にうずくまる人影を見つけた。
見慣れた女子生徒だった。
慈愛に満ちた表情と言うのだろうか。ー彼女は、そんな表情で膨らんだ蕾を撫でていた。
ーそんな彼女の顔を見て、桐山のこめかみに馴染み深い疼きが走った。
そこにそっと手を触れつつ、足はまるで引き寄せられるように彼女の方へと歩を進めていた。
「何をしているんだ」
「…わっ、びっくりした。桐山くん」
クラスメイトの中川典子。
こちらを振り向き、柔らかい輪郭の中、ふわりと紅い唇をほころばせて微笑む。
「…久しぶりね。プールに来たの?」
夏休みに入ってから、彼女とは顔をあわせていなかった。
桐山は軽く首を振ってから、言った。
「何もすることがないから、来ただけだ」
「…そう」
典子は手元の花に視線を戻した。
「中川はその花の面倒を見ているのか」
桐山は腰を屈めて問いかけた。
「ううん。あたしが育ててるんじゃないけど、プールに来る度に見てるの…毎日一つづつ咲くのよ」
彼女の髪は艶やかな濡れ羽色をしていた。
「そうか」
桐山は典子が見ていた花に視線をやった。
赤紫色の大きな花。…朝顔。
生命に満ち溢れた大輪の花。
それから、典子を見た。
元は色白な方だった典子の肌も、ほんのりと小麦色に染まっていた。
夏のせいだろう。
じっと彼女を見詰めていると、恥ずかしくなったのか、視線を逸らされてしまった。
「…あ、あたしもう行かなくちゃ」
典子は腰を上げて、思い出したように、言った。
肩に提げられた紅いプールバックが、勢いよく揺れた。
「またね、桐山くん」
「あぁ」
去っていく彼女の後姿を見送り、桐山はつと足元の花に目をやった。
花はもう早くも萎みかけていた。
その花の周りには、まだいくつも蕾があり、そのうちのひとつは明日辺りには咲きそうな位に
育っていた。
膨らんだ蕾に桐山はそっと触れた。
ふいに、ある衝動に駆られた。
この蕾を壊してみたい。
何の感情も伴わない、単なる興味から出た、衝動。
触れた指で環を作って、その環を一気に狭めた。
手の中で軽く液体の滲む感触。蕾は見るも無残に潰れた。
指を離す。ぽたぽたと指を紅い色素が伝う。
壊すのは造作も無い事だった。もう、興味は失せた。
すっと腰を上げた。
「………」
潰れた蕾に、桐山はもう一度目をやった。
彼女がー中川典子が、この花を愛でていたことを思い出したのだ。
桐山は、再び腰を屈めて、蕾にそっと触れてみた。
花を咲かせる生命力をもぎ取られたそれは、もう元には戻らない。
ーどうでもいい、はずだった。
しかし桐山はー先ほど典子がそうしたように、その蕾を撫でて見た。
「………」
桐山は蕾を手から離した。
それでも手にはまだ、花を潰した感触が残っているようだった。
汚れた手を見詰めた。
滲んだ液体が、血液に似ているなと思った。
赤紫色に染まった手を水道で洗った。
それとともに指に残っていた花を潰した感触も消え失せた。
次の日の朝、同じ時間に学校に来てみると、やはり花壇に典子がいた。
彼女の眼下には、昨日桐山が潰した蕾がそのまま、無残な姿を晒していた。
「誰かがこんな事したのね」
典子は、ひどく悲しんでいるようだった。
ーそれは、俺がやったんだよ。
桐山はそう口に出そうとして、しかしなぜか躊躇した。
「せっかく今日咲くはずだったのにね」
典子は眉をひそめ、首をもたげた蔓の先にあるそれをそっと撫ぜた。
彼女は花を潰した犯人が桐山だとは気づいていないだろう。
桐山には、彼女が花を慈しむ心情がよく理解できなかった。
「…一日で枯れる花に何の意味がある?」
自分の罪状を告白する前に、桐山は無慈悲な言葉を投げた。
言い知れぬ何かが、こめかみのあたりに断続的に疼きを生じさせているようだった。
罪悪感。
それをはっきりと自覚し、その感情にさいなまれることは、彼には決してない、不可能なことなのだけれど。
「…この花は、一生懸命だと思うの。たとえ一日だって、咲きたいって思ってるわ。きっと」
桐山の冷たい言葉にも、典子は声を荒げて怒るような事はしなかった。
ただ桐山を真摯な瞳で見詰めていた。
典子の言葉は、桐山にはやはりよく分からなかった。
彼は遂に自分のしたことを典子に告げることはしなかった。
もう花をむやみに摘み取るのは止めようと思った。
興味は失せた所為もあるが、―典子が悲しむだろうと思ったので。
自分には分からないが、「悲しい」という感情は良くない物だろうと思ったので。
びしゃっと音。
真白いテーブルに出来た紅い水溜り。
弾き飛ばされて、桐山はその上に背中から落ちた。
目の前に紅い放物線が見えた。それは自分の手元と、自分を弾き飛ばした相手の間を繋いでいた。
すぐに途切れて、相手はドアの向こうへと姿を消した。
背中がびっしょりと濡れる感触がしたが、それに構わず身を起こし、足首に括りつけておいた拳銃を抜き出して、
逃げる相手に追い討ちをかけるように、撃った。
どん、どんと音。しかし相手には届かなかったようだ。
更に足元に転がったマシンガンを拾い上げ、引き金を引いた。
だがやはり手ごたえは無かった。空しく激発音のみが建物の中で反響した。
諦めて、マシンガンを下ろすと、腹に鈍い痛みが走った。
そっとそこを押さえた。ここまで自分に抵抗した相手は、二人目だ。一人目は―三村信史だった。
支給されていたとも思えない程強力な爆弾を自分に仕掛けてきた。
もっとも、そのとき受けたダメージは今のものに比べればささいなものだった。
二人目―杉村弘樹。武道の心得でもあるのだろう。正確に自分の急所をつく攻撃。
自分が特殊教育で痛みに対する耐性を身につけている点を考えても、正直、防弾チョッキ抜きで勝てたかどうかは怪しい。
響く痛みが、自分から瞬発力と集中力を奪い、銃の精度を下げた。今後の戦いに多少なりとも影響を及ぼす事になるだろう。
だが残っている生徒はもうあと僅かだ。特に問題は無い。
ふと、典子の言葉が脳裏を掠めた。
「この花は、一生懸命だと思うの。たとえ一日だって、咲きたいって思ってるわ。きっと」
一生懸命。
それは―必死の抵抗。
あの花は何の抵抗も無く自分に握り潰されたが、生徒達は異なっていた。
抵抗の跡が、ずきずきと痛んだ。
桐山は独り言の様に呟いた。
「一生懸命生きていると言う事は分かる。だが、なぜそこまで生に執着する?」
片手に握られた血塗れのナイフを見詰めた。
ここまで汚れてしまってはもう使い物にならない。切れ味が鈍くなる。
見切りをつけて手から放す。きん、と冷たい音が響いてナイフは地に落ちた。
「俺にはよく分からない…分からないよ」
意思とは無関係に摘み取る。
そういう、決まりだ。
―中川。
これはいけない事なのか。
あの時と同じ。
手も制服も、真っ赤に汚れてしまった。
だが、このゲームはそう言う決まりだ。
もはや壊れた人形の様に床に転がった「クラスメイト」だった少女達の屍の間を、桐山は特に何の感慨も持たずに通過した。
あの花びらと同じ。もうなんの用も成さなくなったものに興味は無かった。
自分は今、全ての生徒達を―そうした無意味な物体に変えるべくただ進んでいるのだが。
そういう、決まりだから。
中川にも、いずれ会う事になるだろう。
その時中川は怒るだろうか。それともあの時の様に―ただ悲しい顔で俺を見るのか。
それとも、あの花のように何の抵抗もなく俺に殺されるのか。
あるいは、抵抗するのか。
そしてそれ以前にー俺は中川を壊してみたいという衝動を覚えるのだろうか。
中川に会わなければ、全ては憶測に過ぎない。
とにかくー俺は中川に会わなければならない。
―聞いておけば良かった。
本当ならば、このゲームが始まる前に。
おわり
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