「行ってきます」
中川典子はその日の昼下がり、上機嫌で家を出た。
久々に何も予定が入っていない日曜日。
激しい雨が降った翌日の空は、目も覚めるような蒼色だった。
買ったばかりのスニーカーを履き、親しんだ道を歩く。
目的地は特にない。先ほどまで、部屋に篭って何本か詩を書きかけては断念していたので、
気分転換のつもりだった。
暫く歩いていくと、城岩中学校のある通りに出た。
誰もいない日曜日の校舎は、何だか別の建物の様にも見えた。
その通りを抜け、また暫く行くと、城岩町の高級住宅街の区域に入る。
同じクラスの織田敏憲や、金井泉はここに住んでいる。
…泉、今日はどうしてるのかなあ。
住宅街に入って間もない所に彼女の家はある。
前に遊びに来たことがあったので、泉の家の位置は覚えていた。
典子の家の倍はありそうな庭にそびえたった、和風のしっかりとした建物。
町議会議員の持ち物に相応しい作りの家からは、落ち着いたピアノの音色が聴こえてきた。
泉、偉いな。ちゃんと練習してるんだ。
そう言えば、発表会が近いのだと聞いた。
典子は歩き続けた。住宅街の奥のほうへ進むと、織田敏憲の家がそびえたっていた。
こちらも泉の家に負けず劣らずの豪邸。しかし、古風な感じの泉の家に比べると、やや派手な印象を受けた。住むものの趣味だろうか。
ここからは、ピアノではなく、バイオリンの音が聴こえてきた。
…そういえば織田くん、バイオリン上手いんだっけ。
教師に促され、得意げに演奏した彼の姿を思い出し、典子はくすっと笑った。
確かに彼は上手いのだが、いかにもそれを自慢にしているようなところがある。
そのことで、陰で文句を言っている女子も居たが、典子はただすごいなあ、と思っただけだった。
他の皆もどうしてるかなあ。
いつも遊ぶメンバーたちの顔を思い出し、それから秋也のことも思い出した。
幸枝とはるかは…大会とか言ってたかな。
秋也くんは、ノブさんと遊んでるのかな。
「中川」
澄んだ声がした。
立ったまま物思いに耽っていた典子は、突然背後から声をかけられて、危うく悲鳴を上げかけた。
「きゃ…」
彼の登場の仕方は心臓に悪い。…本人に悪気はないのだろうけれど。
「何をそんなに驚いているんだ」
「桐山…くん」
典子は改めて、声をかけて来た人物を見上げ、彼の名を呼んだ。
典子の驚きぶりに、彼の方が少し面食らっているようだ。形の良い眉が僅かに上がっている。
桐山はいくらかカジュアルな服装をしていて、学生服のときよりも幼い印象に変わっていた。
「ごめん。ぼーっとしてたから驚いちゃって」
典子は微笑した。そう言えば、彼もこの辺りに住んでいたように思う。彼の親は中国四国地方合わせてトップクラスに
位置する会社の社長なのだ。織田や泉よりも広大な家に住んでいるのかもしれない。その家を見たことはなかったけれど。
「桐山くんは、どこか出かけるの?」
「いや。…外に出るのも悪くないと思っただけだ」
桐山は言葉少なに言った。典子はそれでちょっと目を丸くした。
彼が自分と同じような理由で外出するのが、何だか不思議だった。
「中川は、どこへ行くんだ」
今度は桐山が尋ねてきた。典子はそれに頷き、答えた。
「あたしも、特に決めてないの。ただ晴れてて、散歩したら気持ちいいかなあ、って」
「晴れていると、散歩したくなるものなのか?」
「え?…別に、そういう決まりな訳じゃないけど…何となく、そう思っただけよ」
「そうか」
桐山は気難しい顔をした。典子は首を傾げた。彼は、どうしてそんなことを訊いて来るのだろうか。
時々、彼の質問の意味が飲み込めないときがあった。
「中川。」
「え?」
「行き先は特に決めていないと言ったな」
「…?うん」
「それならば、俺も一緒に行っても構わないかな」
また典子は驚いた。
天下の不良のリーダー、桐山和雄と、特に目立つところのない女生徒、中川典子。
何ともアンバランスな組み合わせの二人は、城岩中央公園に来ていた。
ここは、城岩町でも一番大きな公園だった。
桐山を連れて行くのに相応しい場所がなかなか思いつかず、典子は悩んだ挙句にここを選んだ。
一人で散歩するときは、必ずここに来ることにしている。
「あたし、この公園好きなの。楽しいんだ。色々な人が居て」
「そうか」
桐山の返答はひどくシンプルだ。人によってはこの間に耐え切れない者もいるだろう。
「桐山くんは公園好き?」
「…悪くはないと思う」
典子は桐山とのやりとりを苦痛とは思わなかった。
人の意を汲んで話すことに、典子は不思議と長けていた。
公園には、たくさんの人が居た。
キャッチボールをする小学生。犬を連れて歩く老人。砂場で遊び戯れる小さな子供。それを見守る母親。
ベンチに腰を下ろし、典子はそれらの人々を優しい目で見詰めた。
桐山も典子に続いて座り、典子の見ているほうに目をやった。
それからその視線はいつの間にか、典子の見ている方向ではなく、典子自身へと向けられていた。
「………」
そこへふいに、勢いよくボールが飛んで来た。
「危ない!」
ぽん、と一回弾んで、それはゆっくりと首を動かした桐山の額に命中する形となった。
「あ!」
典子ははっとして桐山を見た。
「………」
桐山は黙っていた。その右手にはボールがある。
彼自身戸惑っていた、いつもの彼ならば、この様な油断などしないはずだ。
反射的に、ボールを避けていただろう。
「すみません!」
いがぐり頭の少年が駆けてきて、ぺこりと頭を下げた。
「…いや」
受け取ったボールを少年に軽く放って、桐山は無表情で言った。
それを桐山がひどく怒っているものととったらしく、少年は顔を青くして、もう一度「すみませんでした!」
と言い、逃げるようにして走り去って行った。
「桐山くん、平気?…おでこ」
「問題はない」
桐山は僅かに眉を寄せて、ボールのぶつかった自分の額を撫ぜた。
その様子が何だかとても可愛く見えて、典子は悪いとは思いつつも、笑みを零した。
…高校生との喧嘩でも負けたことのないという桐山が、小学生の投げたボールを避けられなかったのは、
少し意外だったけれど。
「中川。…俺は昨日、雨が降っているときに一人で外出してみたんだ」
「…え?」
暫くベンチに座っていて、桐山がふと思い出したようにそう言った。
彼の突然の言葉に、典子は目を丸くした。
昨日は激しい雨だった。傘を差しても意味がない位に強い雨が、一日中降り続けている日だった。
学校も休みだった。そんな日になぜ、彼は出かけたのだろう。
「傘を持たなければ濡れる。それ以外に、雨の日よりも晴れの日のほうがいいという理由はよくわからない。
だが、一つだけ言えるとすれば」
いつも無口な桐山は、今日は不思議なほど饒舌だった。
「今日、中川と過ごして居るときは、何だか悪くない感じがした」
澄んだ声だった。
綺麗な黒い双眸は、典子に真っ直ぐ向けられていた。
桐山と別れた後、典子は一人で元来た道を歩いていた。
もう既に日は翳っていた。
まだ夕陽が見える時間でもなかった。夏場は日が伸びている。だが、あまり遅くなっては家の者が心配する。
先ほどまで居た公園のほうから、子どもに帰るよう促すチャイムが響いてきていた。
高級住宅街を抜け、城岩中の通りを抜け、そして自宅へと戻ってきたとき、典子はふと空を見上げた。
紫色の雲が、ゆっくりと動いているのが見えた。
…また、嵐が来る。
桐山の言っていることは、良く分からなかった。
いつも彼ははっきりした言葉を残す事無く去って行ってしまう。
…桐山くん。
典子はそっと胸に手を当てた。彼の「悪くない」という言葉の持つ重みが典子にはよくわからなかった。
ただ残るのは、彼の「彼らしくない」一面のこと。
額にボールがぶつかってびっくりした時の、彼の顔が可愛く見えたこと。
一人で雨が降る中出かけたことがあると彼が言った時、何だか切ない気持ちになったこと。
それでも彼は、明日、何事もなかったように典子に話しかけて来るのだろう。
「中川、そういうものなのか」まるで典子の行動が、全ての規範になると信じているかのように。
おわり
桐山と典子の幸せな日常…のはずがまたしてもシリアス落ちです。
ごめんなさい。
ボールに当たってしまったボスは典子さんに見とれてたようです。
雨の日と晴れの日、雨だったら憂鬱に、晴れだったらいい気分になる人が多い。
感情のない桐山にはそれが理解できない。ってことを書きたかったような。
雨が好きな人も居ますけどね。
2004年5月
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