卒業


机の中に忘れ物をしたことに気づいて、中川典子は慌てて引き返した。
一度は出た校門をくぐりぬけ、がらんとした校舎に入って。
黒いセーラーの胸元で、「祝卒業」と書かれたバッチが揺れた。



「良かった…」
机の中を探ると、すぐに文庫本は見つかった。
安堵の溜息をつき、それから改めて教室を見廻す。
三年B組の教室。黒板には「卒業おめでとう」と、
林田先生の書いた皆へのメッセージが記されていた。

「先生になれるといいな、中川。期待して待ってるぞ」
典子が教師になりたいという夢を告げた時、林田は「もちろんここに来るんだろうな?」
と目を輝かせた。中川が戻って来るときまで居るからな、と声を弾ませて言った。
典子は微笑んだ。…本当に、いい先生だった。

何ともいえない気持ちが、胸にこみ上げてきた。
思い出の一杯詰まった教室。もう、ここで授業を受けることもない。


溜息をついて、教室を見回した。
クラスメイトの大部分とは、この後打ち上げの約束をしているから、すぐにまた会うことになるのだけれど。
打ち上げに参加しない人とは、もうー。

その時突然、がらっ、と背後から音がして、典子ははっとしたように振り返った。
「…あ」
目を丸くし、典子は教室に入ってきた人物を見詰めた。
「桐山くん」

桐山は一度立ち止まり、じっと典子を見詰めた後、こちらへと歩み寄ってきた。
「…どうして」
他の生徒はもう帰ってしまっているとばかり思っていたのに。

「…もう少し、ここにいるのも悪くないと思ったんだ」
相変わらずの静かな声で桐山は答えた。
艶やかな漆黒の前髪が、さらさらと風を受けて靡いた。
典子は瞬きして、それから気になっていたことを口にした。

「もう、あの髪型は止めたのね」
「充が、切ってくれた」
「…そう」
卒業式に現われた彼を目にして、顔を赤らめた女子生徒も多かった。
威圧的だったオールバックの髪型を改めた彼は、ごく普通の、しかしとびきりの美少年に見えた。

典子は少し眩しいという風に目を細めた。
「…寂しく、なるね」
桐山を除く沼井たち不良グループは、同じ県立の工業高校に進学することになったらしい。
桐山はといえば、県外の超有名私立校に主席合格したと聞いた。
仲の良かった沼井たちと離れるのは彼だってやっぱり寂しいだろう。
桐山は無表情のまま頷いた。


修学旅行の最中、典子は国信に告白された。
思いがけない人物からの告白に、典子は驚きを隠せなかった。
嬉しくない、と言えば嘘になるけれど。
返事は少しだけ待って、そう伝えて。
ずっと思い続けていた秋也に告白した。

「…ごめん。俺、好きな人いるんだ」
わかっていた。
わかっていたけれど、伝えておきたかったから。

国信の想いを受け入れ、付き合うようになったのはまた少ししてからのことだった。
彼の優しさに自分でも驚くほどの速さで惹かれて行った。
愛される幸せを十分に味わってきた。
一方的に想い続けていた頃の辛さが嘘のような。

高校は第一志望の県立高校に推薦で合格した。
遅れて一般で受験した国信、それに秋也、科は違うが谷沢はるかや一年生のとき知り合って
仲良くなった女子二人も一緒の高校だ。

秋也を見て、辛い想いをすることもほとんどなくなった。
あれからも詩や音楽の話はする。
「典子さん、最近作風変わったんじゃない」
「そう?」
秋也に指摘され、典子は頬を紅く染めた。
自分でもそう思う。
幸せな気持ちを言葉にするのはとても楽しい作業だった。

修学旅行の少し前に、ちょっとしたきっかけで話すことがあった、他の生徒には敬遠されていた川田章吾は、
クラスでは典子にだけ自分の進路を教えてくれた。
「神戸の高校に行くことになった。前住んでたところだ」


卒業式でピアノを奏でる役に抜擢されたのは金井泉だった。
彼女らしい優しい旋律は聴くものの心を打った。

それに合わせて皆合唱練習をした。
大きい声でぶっきらぼうに歌っていた大木や旗上。
澄んだソプラノの女子たちがそれに合わせた。
普段不真面目だった沼井たち不良グループが皆黒髪になって歌っていた。

相馬光子もさぼらずに参加していた。
彼女の歌声が存外澄んで可愛らしいものだったのに皆驚いていた。
そういえば、彼女の悪い噂を最近あまり聞かなくなった。
滝口優一朗と並んで屈託のない笑みを浮かべる彼女を見かけるようになったのは、
典子が国信と付き合うようになって少ししてからのことだった。

一日、また一日と。
三年B組のメンバーで過ごせる日が減っていった。

「典子、先生が文集の冒頭文お願いって」
そう言って微笑んだ幸枝は県立トップの進学校へ行くことになっている。
もうひとりの委員長、元渕と、野田聡美も同じ高校だ。

三学期になってから、幸枝と二人きりで話すことがあった。
「私ね、七原くんに告白した」

彼女が特に思いつめるふうでもなくそう言ってきたときはさすがに驚いた。
典子も以前秋也を好きだったことを、幸枝に話したことはなかったけれど。
「やっぱり駄目だった。でも、すっきりしたよ」
幸枝はそう言ってはにかんだ。

あれから、以前よりも幸枝と仲良くなれたような気がした。

「何書けばいいのかな…」
「典子の思ったとおりでいいんじゃない」
幸枝がぽん、と典子の肩をたたいて笑った。
典子も微笑み返した。


このクラスが好きだった。大好きだった。
皆と過ごせる時間が大好きだった。

これで終わってしまうのは、あまりに残念で。
卒業式では、思い切り泣いた。
クラスメイトの半分以上が泣いていた。




「…中川」
感傷に浸っていた典子を現実に引き戻すかのように、桐山が静かな声で切り出した。
「…え?」
「…中川といるとき」
桐山は、そっと手を持ち上げて、自分の胸に押し当てた。
なぜか、典子の心臓は高鳴った。
「俺のここが、温かくなったような気がした」


いつだったか。彼に話したことがあった。
「人を好きになるというのは、どんな気持ちなんだ?」
そう問いかけてきた彼に。
「とても温かくなるの。心が。その人の事を考えると」

「今も、熱いんだ。苦しいくらいに」

開けっ放しになったままの窓から強めの風が吹きこんだ。
桐山の艶やかな黒髪が揺れた。

典子は目を丸くして桐山を見詰めた。
桐山の表情は相変わらず静かだった。

ー桐山くん。
何か。
何かを、彼に言おうと口を開きかけた。
けれどそれはなかなか言葉にならなかった。
「…桐山くん」
「それだけ言いたかったんだ」

桐山は典子の答えを促そうとはしなかった。
以前なら、自分に納得のいくまで、典子に尋ねてきたのに。

何だか胸が苦しくなった。
収まりかけていた涙が、また溢れてきそうになった。

「…桐山くん…」
秋也を愛しているときは辛かったけれど幸せだった。
国信に愛されているときはただ満たされた。

けれど、
どうして気がつかなかった?

「…中川」
桐山が僅かに怪訝そうに眉を寄せて、典子の顔を覗き込んだ。
「どうして、泣いている」

そう問われて、はっとした。
彼はまだ理解できていないのだろうか。
笑ったり、泣いたりする。その意味を。

「…ううん。ごめんね。…違うの」
無理に涙を引っ込めた。
彼は、こうして強がる典子のこともきっと理解できないのだろうけれど。

桐山はまた黙ってじっと典子を見詰めていた。
どうにか涙を収め、典子が改めて桐山のほうを見た時、一瞬、凍りつくような気がした。
「…桐山くん」


そこに、桐山和雄のいつもの無表情はなかった。
目は穏やかに細められて、口の端は持ち上がって。

典子が当たり前のように目にして来た。
けれど彼が今まで決して見せることのなかった。
「笑顔」が代わりにそこにあった。

「笑っていろと」
桐山はぽつりと言った。
「笑った方が、楽しくなれる。以前そう言っていなかったかな」

そっと口の端を持ち上げたまま、桐山は典子を見詰めた。
相変わらずその瞳は作り物じみて、硝子玉を嵌め込んだように無機質ではあったけれど。
とても澄んでいた。

心から、笑っているわけではない。それはわかったけれど。
またじわりと熱いものが典子の胸にこみあげた。
桐山は、典子の言葉を覚えていてくれたのだ。

「…ありがとう」
ごしごしと目を擦ってから、桐山を見上げ、典子は微笑んだ。
「すごく、嬉しかった」

優しい空気。彼といるときの。
秋也といたときに覚えた激しい想いでも、国信といるときの幸福感でもなく。
けれどとても温かい気持ちが典子の胸を満たした。

桐山の顔からすっと微笑が消え、いつもの無表情に戻った。
彼は無機質な声で言った。
「…国信が、待っているんじゃないのか」
「あ…うん」

ー彼に話した覚えはなかったのに。

桐山とはもう別れることになる。
もうこんな風に話すことも出来なくなる。
言いようのない寂しさがさっと広がり、また典子は泣きそうになった。

「…なぜ、皆泣くのかな」
「ーえ?」
「生きている限り、会えないという事はないだろう」
典子は目を丸くした。
桐山の口から、そんな言葉が聞けるとは思っていなかったのだ。
いつものように淡々とした声。
けれど、どこか温かく優しい、それでいて彼らしい、言葉。
「…そうだね」

「生きている」のだから。
…会えないことはない。

彼が本当に心から笑えるときだって、やって来るのかもしれないのだ。

「…元気でね、桐山くん」

典子はすっと手を差し出した。
「…ああ」
桐山は、ほんの少し目を大きくした後、その典子の手をとった。










「ボス、最後だしさ、ぱーっと皆で飲もうぜ、これから」
第二ボタンのなくなった学生服を身に纏った充たちが近寄ってきて、立ち尽くす桐山に声をかけた。
「ああ」
「…ボス!」

桐山はそっと頬に手を当てた。
「…………」

温かく、透明な液体が桐山の手を濡らしていった。




おわり



後書き:プログラム月間。追悼小説。
七典ファンの方にも七内ファンの方にもかなり失礼な内容となってしまいました。
私なりの、プログラムに選ばれなかった3Bの未来です。
典子は七原とも川田とも桐山とも結ばれずに、一途に想ってくれた国信とくっつきました。
ノブさんに告白された後、「ちょっと待って」と言ったのはノブさんを振られた後の保険にした訳じゃないです。
典子なりに色々気持ちの整理をして、それからノブさんと付き合うことにしたんです。
七原がいつまでも和美さんを想ったか、あるいは別の誰かと結ばれることになったのかは分かりません。

桐山と典子の関係は複雑すぎて語りきれません。
桐山から典子に対する想いは恋と呼ぶにはあまりに未熟すぎ、「憧れ」の範疇に留まるものかもしれません。
あるいは彼が与えられなかった母性を求める気持ちとか。

パラレルでも、あれだけ自分が否定してきた「涙を流す桐山」をついに書いてしまいました。
原作で桐山は遂に涙を流すことはなかったけれど。
「生きている限り」どんな不可能だって可能になる。
「もしかしたら」という希望を持つくらい許されるんじゃないか。
そんな身勝手な気持ちで、彼に感情を持たせてしまいました。
感情を持つことが彼にとって幸せなのかどうかはわからないけど。
少なくともうちの桐山は、他の皆と同じになりたいと望んでいました。

ここではそのきっかけは典子さん。
卒業は、桐山が精神的に依存してきた母親のような典子さんから独立することを指しています。
桐山ファミリーとはその後も付き合いは続くかもしれないけど。

…あくまで私の妄想の集大成です。