Feeling

桐山和雄は、担任の林田に呼び出されて、職員室に向かっていた。
もっとも、いくら彼が不良グループのリーダーであるからといって、学校に迷惑をかける様なへまをやらかした事は無いので、そっち方面の用件での呼び出しでは無い事は確かだ。

桐山達と一戦交えた他校の生徒達は、どんなに滅茶苦茶なやられ方をしても、自分の学校の教師に泣きつく様な事はしない、
というよりは、出来ない。

桐山の圧倒的な強さを目の当りにし、かつ彼には県内トップ企業の社長である父親という後ろ盾が付いていると知っては、どんなに頭が悪い者でもその場に土下座し、「桐山ファミリー」には二度と手を出さないと誓うしかなかった。

ファミリーの中でも笹川などは、そんな相手の様子に優越感を感じていた様で、
「てめえら、この事、センコーには言うなよ。もし言ったらどうなるか…」

桐山に代わって脅す役を自ら買って出ていた。

すっかり怯えきった生徒は、素直に従った。
何よりも彼らは桐山の報復を恐れた。

桐山はそんな相手の様子を、ただ静かに見ているだけだった。

相手が向かって来れば、容赦無く倒す。
実に見事な戦い方で。
それはもはや「喧嘩」の枠を超えていた。

だが、戦い終わった桐山の目には、相手を打ち負かした事に対する勝利の快感も、優越感も、そんな感情の何一つ、浮かんでは居なかった。

桐山にとっては、無意味な事ばかりだった。
ただ、そうしただけ。その事に対して、特に何も、感じない。
もう随分と前から―そう、彼が生まれ落ちたその瞬間から、桐山和雄は、そうやって生きて来た。

桐山は職員室のドアを開けると、林田の席を探した。
滅多に職員室に来る事などないので、林田がどこに座っているかなど、忘れてしまっていた。
「おお桐山、来たか」
突然明るい声に呼び止められ、桐山は振り返る。

クラスでは「とんぼ」の愛称で親しまれる、黒縁めがねを掛けた教師―林田は、桐山と目が合うと、見る見るうちに相好を崩した。

彼は桐山が不良グループのリーダーと知ってはいるが、別段その事で桐山を差別した事は無かった。林田は、そういう男だった。

「何か、御用ですか」

特に表情を変える事無く桐山が林田に尋ねる。
「ああ、そうだった。お前この前、宿題で読書感想文出したろう?」
「それが、何か?」

林田の言葉に、桐山は少しだけ怪訝そうな顔をして聞き返した。

林田はますます表情を緩ませて、言った。

「あれな、優秀な作文は、県の読書感想文コンクール、ってやつに出す事になってたんだ。うちのクラスからは、お前と中川の作文が候補に挙がってるんだが、もしよかったら出してみないか?」

桐山は僅かに眉を上げたが、別段喜んだ様子も無く、「あれは、そんなコンクールに出せる程のものだとは、思えませんが」と答えた。

林田は、そんな桐山の態度に軽く失望を覚えた様で、苦笑いを浮かべながら、言った。「おいおい、謙遜するなよ。お前の文章、先生も読んだけど、凄いと思ったぞ。中学生が書いたとは、とても思えない位」

桐山は黙って林田を見つめた。
相変わらずの、何の感情も篭もらない瞳で。
林田は溜息をついた。

「まあ、強制じゃないから。そんなに恥ずかしいなら、出さなくてもいいんだけどな。でも、もう少し、考えておいてくれよ。勿体無いからさ。来週の月曜日までに、また返事くれ」

桐山は少しだけ俯き、「分かりました」とだけ答えると、そのまま、踵を返し、林田の机から、ドアの方へと、まっすぐ歩いて行った。
ドアの向こうに消えていく桐山を、林田は苦笑いを浮かべながら見送った。


職員室をあとにした桐山は、そのまま教室に向かった。
あとは、鞄を取りに行って、帰るだけだ。

「あれ?桐山くん?」

聞き覚えのある声に呼び止められ、桐山は振り向いた。

「中川」

「こんな遅くまで残ってたの?」

そこにいたのは、胸に二冊ほどの文庫本を抱えた、
クラスメイトの中川典子だった。

典子の問いに軽く頷くと、桐山は逆に典子に聞き返した。
「中川は、どうしたんだ?」
「あ、あたしは―図書館にいたの。ちょっと本に夢中になっちゃって、こんな遅くなっちゃった」

典子は軽くはにかんだ。
桐山は、そんな典子を無表情で見ていた。

「これから、教室に行くの?」
「ああ」
「じゃあ、一緒にそこまで行かない?」
「ああ」

典子も、桐山を恐れない。
桐山は、女子とは滅多に話さないのだが、
典子とは、何度か話す事があった。

「中川」
「え?」
「中川も、先生に呼ばれたのか?」
「…どうして?」
「さっき、呼ばれて職員室に行った。そこで、この前出した読書感想文の事について話された。県の読書感想文コンクールに出品する候補に、俺と中川が出した作文が、挙がっていると」
それを聞くと、典子の顔が見る見る紅く染まる。

「本当…?」
「ああ」
典子は少し俯いて、恥ずかしそうに言った。
「あの文、自信、無かったのにな」

桐山はそんな典子を、無表情のまま見ていたが、やがて、ぽつりと言った。
「中川は、出すのか」
「え?」
「作品を出すのは強制では無い、と言われた」
桐山の言葉に、典子は顔を紅くしたまま、ためらいがちに答えた。
「ん…恥ずかしい、けど、やっぱり選んでもらえたのは嬉しいし、出すと思うわ」
「そうか」

桐山はそれだけ言うと、また、黙った。

典子はそんな桐山を見て、不思議そうに尋ねた。
「桐山くんも、出すでしょう?」
典子にそう訊かれると、桐山は、そっと目を伏せて、言った。

「…わからない」

その桐山の答えに、典子は驚いた様に瞬きをした。
「どうして?せっかく、選ばれたのに。」
「俺には、あの作文に、そんな価値があるとは、思えない」

桐山はそう淡々と言った。

その桐山の答えに、典子は、少し言葉に窮した様だったが、すぐに桐山の方を見て、言った。
「そんな事はないと思う。桐山くんの作文には、きっと、人を惹きつける様な何かがあったのよ。そうでなければ、選ばれたりしないわ」

桐山はそう言われると、黙ったまま、典子を見つめた。
透き通った瞳。
その瞳は、確かに典子と同じ漆黒色をしているのだけれど。
どこか、冷たい。
他の誰の瞳にも宿っているだろう何かが、桐山の瞳には、宿っていなかった。
典子には、そう見えた。

「読書感想文とは、自分がその本を読んで、感じたままの事を書くものなのだろう?」
暫くして、桐山がそう静かに言った。
「…俺が感じたままの事は、あの文には、書かれていない」

典子はその桐山の独白に、驚いた様に目を見開く。
桐山はまた黙って典子を見つめた。

典子は、言葉を探しているようだった。
何といったら良いのか、よくわからなくなったらしい。
それでも、また少しして典子は桐山に尋ねた。

「それは、桐山くんが、どこかに載っていた文を、そのまま写した、という事なのかしら?」
「いや」

桐山はそう一言だけ答えた。
典子はそんな桐山を見て、微笑した。
「それなら、桐山くんが書いた、桐山くんの文章である事に、間違いはないと思うわ」

桐山は典子を見つめたまま、言った。
「普通なら」
桐山はまた少し目を伏せて、続けた。
「普通の人間なら、あの本を読んで、こう感じるのだろうと思って、書いた」

桐山は目を細めた。
「俺は、あの本を読んでも、何も感じなかった」

典子の顔から、笑みが消えた。

典子は桐山を見た。
相変わらず美しい、冷たい視線が、典子の方にじっと、注がれている。

典子は少し詰まった様な声を出した。

「何も?」

「ああ、何も」

桐山は典子から視線を外した。
「どうしたら、普通の人間の様に、本を読んだ時に何かを感じられる様になるのか、俺にはよくわからなかった」
「………」

典子が黙ったままだったので、桐山は不思議に思い、典子の方に再び視線を戻した。

典子は、とても悲しそうな顔で桐山を見ていた。



「桐山くん」
「何だ?」

「あたしには、桐山くんの気持ちが、どんなものなのかは、わからないわ。でも」

典子と桐山の目が合った。
「何も感じない、という事は、ないと思うわ」

桐山は少し眉を持ち上げた。
典子は続けた。
「桐山くんは、普通の人ならどう感じるか、その事を知りたいと、思っているんでしょう?」

少し間があった。

「ああ」

桐山がはっきりとそう言った。

「それなら」
典子は優しく微笑んだ。

「桐山くんは、わからない事を知りたいと、感じているんだわ」
桐山の目が、少し大きめに見開かれた。
驚いた様に、瞬きをする。

「そうなのかな」

典子は頷いた。

「だからきっと、桐山くんが、何も感じられない、って事はないと思うの」

典子はそう言って、笑った。

典子は桐山の脳に刻まれた傷の事を知らなかった。
それによって桐山が永久に失ってしまった、何かの事も。
何も。

ただ、きっと、桐山は、自分の気持ちを表現するのが苦手なだけなのだと、
そう思ったから、言ったに過ぎなかったのだが。

典子は優しい声で言った。

「だからきっと、自分の感じた事、書ける様になると思うわ」
桐山は目を伏せた。
暫く、何かを考えている様な様子で。

「中川」

桐山はもう一度典子の方を見た。

どこか穏やかな顔をしていた。

「やってみるよ」

桐山は、そう言った。
典子は微笑んだ。

「うん。頑張ってね、桐山くん」




その夜。
桐山は自室の机の前に座っていた。

机の上には十数冊の本が積まれている。

投げ出されたシャープペンシル。

机の横にあるくずかごは、くしゃくしゃに丸め込まれた作文用紙で、いっぱいになっていた。
桐山は暫くの間、無表情で消し粕の散らばった机をただ眺めていたが、ふいに顔を上げて、呟いた。

「やはり、わからない。俺は何も、感じない」

桐山は目を伏せた。
そうしている時の桐山の顔は、不思議にとても、哀しそうだった。
「俺には、やはり、無理だよ。中川」

桐山は目の前の一枚の作文用紙を見つめた。
何度も書いては消した痕のあるその紙を暫く眺めた後、
桐山は他の紙と同じ様に、くずかごに突っ込んだ。

次の日。
桐山は職員室にいる林田のもとへ行き、作文の応募を断った。
「そうか、桐山がよく考えた結果なら、仕方ないな」

林田はそう残念そうに言った。

こうして、桐山は作文の応募を辞退する事となったのだが、
その後林田に呼ばれて、恥じらいながらも応募を快諾した典子の作文も、結局はコンクールに出される事はなかった。

それから間もなく起った、悲劇のために。

林田が自分の机にしまった典子と桐山の作文は、二度と林田の手で取り出される事は、なかった。



おわり