「中川、まだここは温かくならない」
修学旅行も差し迫った五月のある日、桐山は典子にそう言った。
以前桐山は典子に訊いた。
「人を好きになるというのは、どういう気持ちなんだ?」
桐山の問いに、その時典子はこう答えた。
「とても温かくなるの。心が。その人の事を考えると」
「どうしたら、そんな気持ちになれるのかな」
あれから桐山は、色々な本を読んだという。
恋愛に関する、色々な本を。
けれど、いくら本を読んでも、「どうしたら人を好きになれるのか」
という事は、わからなかった、と。
典子は驚いた。
桐山は、本当に、わからないのだ。
そういう気持ちが。
それでも、真剣に、それを知りたがっている。
典子は桐山に、微笑して、言った。
「なろうと思ってなるものじゃないのよ?桐山くん」
桐山は僅かに眉を上げて、「そうなのか?」と典子の方を見て訊いた。
典子は頷いた。
「ある日突然、そうなってるの。それからは、もう急に。自分でも、最初は気がつかないんだけど、何時の間にか、その人の事で―頭がいっぱいになってるの」
何だかこんな事言うの、凄く恥ずかしいんだけど、と典子は頬を僅かに紅く染めながら言った。
「あたしは、そうだったから」
桐山はそんな典子の言葉を聞くと、僅かに目を伏せて、俯いた。
何かを一生懸命考えている、といった様子で。少しの間、黙っていた。
暫くして、桐山は典子の顔をまっすぐに見つめて、言った。
「では俺がそういう気持ちになることができたら、一番先に中川に言う」
「え?」
「教えてくれたのは、中川だから」
桐山は、典子にそう言った。
まっすぐ典子を見つめたまま。
相変わらず美しい、しかしとても冷たい、その目で。
あれからまだ、数日も経っていないのに。
今、桐山は典子の目の前に居る。
けれどいつもとは違って彼は何も話してはくれない。
無言で典子を―、
一緒に居る川田を、秋也を殺そうと、迫ってきている。
典子の方にも、何度か銃弾が飛んできた。
いつ弾が当たるかわからない恐怖の中で、ふと典子は思い出だした。
「俺もいつか、ここが温かくなる様な思いをする時が来るのかな」
そんな桐山の言葉を。まだ彼とささやかな会話を交わす事が出来ていた頃、彼が自分に言った言葉を。
桐山くんは、このクラスの人には、そんな気持ちを感じることが出来なかったのね。
それとも、皆を殺してまで生きて帰って、会いたい人が、いるの?
「中川、まだここは温かくならない」
それとも。
川田くんが言ったみたいに、本当にただそれを選んだだけなの?
何も感じずに?
感じる事が出来ずに?
そうだとしたら、凄く、悲しいね。
桐山に貸した本の中で、主人公の女の子が言っていた言葉を、思い出した。
「本当に大切なのは、あなただけだから。だから私は、他のどんなものだって捨てられる」
典子は、隣に居る秋也に視線を移した。
秋也は必死に桐山に向けて、撃ち続けていた。
「典子、何やってる、早く弾を!」
「うん!」
ぼんやりとしていた典子はそれではっと我に返り、銃の弾を詰め替えて、秋也に渡した。
秋也は、自分を守ってくれようとしている。
このゲームの開始直後から、ずっと一緒に居てくれている。
典子は秋也の事が好きだった。 それは、もう随分と前から。
秋也の事を考える度、典子の心は、温かくなった。
もう自分でも忘れてしまう位前から。ずっと。
また、桐山の事を思い出した。
あの、何の感情も篭もらない冷たい目。
今もすぐ傍にまで迫って来ている、冴え冴えと冷たい目。
あの目が、記憶に焼きついて、離れなかった。
どうして桐山くんは分からないの?
私には、こんなに、そう、あの本に書いてあったのを読んだ時はおおげさだと思ったけれど。
他の何を捨てることになってでも守りたいくらい、大好きな人が、今、隣にいるのに。
悲しいね。
そんな思いをする事が、できないなんて。
すごく、悲しいよ。
川田のショットガンに腹を撃たれて、地面に打ち付けられた桐山を見て、典子は胸が詰まる様な気持ちになった。
死んでしまったと、思った。
桐山が。
何もわからないまま。
冷たい目をしたまま。
けれど桐山は―生きていた。
止まる事を知らない機械の様に起き上がった桐山は、手にした銃で容赦無く川田を撃ち倒した。
桐山は更なる標的に狙いを定めた。
典子の大好きな、秋也に。
―守らなきゃ。
典子は思った。
あたしが、秋也くんを、守らなきゃ。
例え外れて、
桐山くんがあたしに気付いて、撃って来る事になっても、
秋也くんだけは、守らなきゃ。
あたしは秋也くんを死なせたくない
典子はとっさに銃を構え、桐山の額に標準を合わせた。
自分で銃を撃つのは、初めて。
上手くいくかどうかも、わからないけれど。
桐山は典子の方は見ていなかった。
今なら、桐山を倒す事が出来るかも知れなかった。
桐山が秋也に気を取られている今なら。
典子は引き金を引いた。
その時は、罪悪感だとか、そんなものより、
ただ、秋也を助けたいという気持ちでいっぱいで。
撃てば桐山が死ぬことになる。
そんな事に気を取られている暇などなかった。
ぱん、と耳の近くで大きく火薬が弾ける音が響いた。
銃を撃った反動で、身体が震えた。
切れた手に激しい痛みを感じた。
引き金を引く瞬間、一瞬だけ、桐山と目が合った気がした。
外してしまったかも、知れない。
おそるおそる桐山の方を見た。
桐山は上半身を起こした姿勢のまま、銃を秋也に向けた姿勢のままだった。
ただ、
冷たい目は、秋也ではなく、明らかに自分に向けられていて。
典子は戦慄を覚えた。
―どうしよう。
殺される。
殺される。
けれど、彼の手にした銃が、こちらに向けて銃弾を発する事はなかった。
真っ直ぐに典子を捉えた、桐山の冷たい目が。
一瞬だけ、すっと細められた様に見えた。
「―え?」
冷たい目。
けれど、その時だけは、不思議と、
少しだけ優しそうな目に、見えた。
典子は気付いた。
その目の少し下、ちょうど鼻の横あたりに、
小さな赤い点が、ぽつりと刻まれている事に。
桐山の手から、拳銃が落ちた。
やや遅れて、桐山のさして大きくない身体が、再び後ろに崩折れるのがわかった。
典子は目を見開いた。
ぎゅっと胸が締めつけられる様に痛んだ。
あの目。
同じだ。
あの時、
「俺もいつか、ここが温かくなるような想いをする時が来るのかな」
そう言った時の桐山くんの目と同じ。
目の前に悪夢の様な光景が広がっていた。
どうしよう。
あたし―。
桐山は倒れていた。
もう、先ほどの様に起き上がる様子もない。
あれだけ撃たれても平然としていたのに、
自分が撃った、たった一発の弾で、桐山は動かなくなってしまった。
どうしよう。
あたし、
桐山くんを、
殺してしまった。
あたし―。
「…くっ」
典子の前方、桐山に撃たれた川田が、苦しげにうめきながら身を起こした。
けれど典子は半ば放心状態で、彼を労わる言葉をかけるどころか、自分が構えた銃を下ろす事すら出来なかった。
ただ、震えていた。
倒れた桐山の方を、見つめたまま。
その典子の視線は、唐突に遮られた。
どん、という音がした。
さっき、川田が桐山の腹を撃った時の音と同じだった。
典子ははっとした様に瞬きをした。
目の前に川田の広い背中が見えていた。
苦しげに肩が上下する。
「典子サン」
小さな声で川田は呟き、踵を返すと、こちらに歩み寄って来た。
川田の手にしたショットガンからは、白い煙が立ち昇っていた。
―典子の構えたそれと同じ様に。
川田くん?
今、何を。
何を―撃ったの?
身動きの出来ない典子の両手に、川田の骨張った手が伸びて、そっと包み込んだ。
びくりと身体を震わせる典子の両腕を、川田は優しく下ろさせた。
静かな声で言った。
「やつは死んだよ。殺したのは俺だ。典子サンじゃない」
死んだ?
やっぱり、
―桐山くんは、死んだの?
でも、
それは、私が―。
典子の頭は混乱した。
救いを求めるように川田を見た。
川田は優しく微笑していた。
それで恐慌状態だった気持ちがすっと落ち着いていくのを、典子は感じた。
ああ、川田くんは、あたしに罪を背負わせない様にしてー
典子はほっと溜息をついた。消え入りそうな声で言った。
「大丈夫?」
やっと、声が出た。
「大丈夫だ。ありがとな。典子サン」
川田はまた優しい声で言った。
一気に肩の力が抜けた。
典子は、その川田から視線を外して、川田の後ろ―仰向けに倒れたままの、
黒い学生服姿の桐山に、目をやった。
ここからは、よく見えないけれど。
倒れている桐山の身体の周りは紅く染まっている様だった。
それがどんどんと形を変え、面積を広げていくように見える。
典子は思わず口を押さえた。
こみ上げて来る吐き気。
―もう、桐山くんは生きていない。
つい先程まで、自分たちを殺そうとして来た、
桐山が。
―今は。
それは安心出来る事のはずなのに。
川田はいち早く典子の異常に気付いたようだった。
表情を強張らせて、典子の両目を手で覆った。
「見ない方がいい」
典子は頷いた。
桐山の顔。
せめて、死に顔位は見せて欲しいと、思った。
でも、今見たら、
あの思い出が、
記憶の中の、
温かいままの桐山との思い出が、壊れてしまう気がした。
「俺がそういう気持ちになることができたら、一番先に中川に言う」
桐山の言葉。
桐山の顔。
それが一気に記憶の淵からあふれて来て、
典子の頬を涙が伝った。
ごめんね、あたしー。
桐山くんの事。
殺してしまった。
そんな気持ちになる事、これから出来たかもしれないのに。
自分がこの手で、桐山の持てたかもしれない希望を奪い去ってしまった。
彼の命と一緒に。―永遠に。
ごめんね。ごめんねー。
「典子サンが、殺したんじゃない。あいつを殺したのは俺だ。
だから、そんなに自分を責めるな」
川田が右手でくしゃくしゃと泣き続ける典子の頭を撫でた。
秋也は何も言わずに、ただ典子を見つめているだけだったが、
典子の血にまみれた頬を見て、辛そうに顔を顰めて、言った。
「ここ、痛いだろ?大丈夫か?」
典子ははっとした様に秋也の顔を見た。
典子と視線が合うと、秋也は優しく微笑んだ。
―この人を、あたしは守りたかった。
秋也の事が何よりも大切だった。
だから、選んだ。
桐山の命より、
秋也の命を。
また涙が溢れて来た。
秋也はそんな典子を見て、戸惑った様だった。
彼は知らないのだ。典子と桐山との間にあった、僅かな繋がりを。
「―典子」
少し視線を彷徨わせた後、秋也は典子をそっと抱きしめた。
宥める様に、言った。
「泣くなよ、典子。」
典子は泣いた。止めようがなかった。
今は秋也の優しさが、何よりも辛く感じられて。
あたしなんかに、優しくしたりしないで。秋也くん。
傷なんかよりずっと、心が痛かった。
クラスには、秋也を好きだった女の子がたくさんいた。
でも、みんな、死んでしまった。
友美子も雪子も、幸枝も、恵も。
典子だけが残った。
典子だけが―今こうして、秋也の隣で生きている。
もう一度、典子は桐山の方を見た。
先程より少し落ち着いた。もう吐き気は込み上げては来なかった。
桐山くん。
―桐山くんは誰が好きだったの?
物言わぬ屍と化してしまった桐山に、典子は声には出さずに尋ねた。
本当に、誰も好きになれないまま、
「好き」っていう気持ちを知らないまま、死んでしまったの?
「…川田くん」
「ん?何だ?典子サン」
ひとしきり泣いた後典子が突然呼んだので、川田は少し驚いた様だった。
典子は川田を真っ直ぐ見て、訊いた。
「桐山くん、どんな顔、してた?」
川田は僅かに顔を強張らせた。
「どうしてそんな事を聞く?」
「知りたいの。ただ、知りたいだけよ」
典子はじっと川田を見つめた。
涙も枯れ果てた瞳で。
川田はそんな典子を見て、溜息をついた。その顔はとても悲しそうに見えた。
川田もまた典子と桐山との繋がりを知らない。その筈だ。―しかし、何かを察したのだろう。
静かな声で、言った。
「凄く、穏やかな顔、してた。幸せそうだった。俺には、そう見えたよ。」
それは典子を慰める為の嘘などではなかった。
川田がショットガンで砕く寸前に、ほんの数瞬見た桐山和雄の最期の顔は、どこか満たされたような、
ひどく辛い何かから解放されたかのような、そんな穏やかな表情をしていた。
思わず川田は自分が掲げた、「桐山には感情が欠落している」という説を撤回したくなったほどだ。
しかし今更それがわかったところで、もはやどうにもならなかった。
川田自身は確かめた訳では無かったが、典子に撃たれた桐山は即死ではなかった。
銃を投げ出し倒れる寸前、無意識に彼は自分の左胸を押さえた。
ただその時―桐山が何を思ったのかは、もう誰にもわからない。
身体が冷たい地面に再び叩きつけられた時、彼の命もまた、他の生徒同様絶えてしまったのだから。
「穏やかな桐山の表情」
典子は永遠にそれを見る事は出来ないのだけれど。
典子はまたじわりと目元が熱くなるのを感じた。
「本当に…?」
「ああ、本当だよ」
川田は頷いた。
「…そう」
典子は銃を握り締めたまま、胸に手を当てた。
きん、と冷たい痛みが響いた。胸が、痛い。
桐山は痛くは無かったのだろうか。
銃で撃たれたのだ。
自分も足を撃たれた時はとても、とても痛かった。
桐山も、とても、痛かったに、違いないのに。
幸せそうな、顔?
典子の頬を再び涙が伝った。
「典子」
秋也が典子の肩に手を置いた。
温かい手。
秋也は優しい。
前からそう思っていたけれど。
この戦いの中で、更にその優しさが自分だけに向けられている事が、
不謹慎かもしれないけれど、とても嬉しくて。
自分の中で秋也の存在がどんどん大きくなっていって。
忘れていた。
自分がもう一人、心のずっと深い所で、大切に想っていた人の事を。
彼はいつも自分に聞いてきた。
「わからない」と言って。
その全てに答えてあげる事はできなかったけれど。
どうしてだろう。
彼は典子の知る限り、典子にしか答えを求めて来なかった。
あたしは完璧じゃない。
何もかも知ってる訳でもない。
それなのに、どうして?
どうしてあたしに桐山くんは答えを求めたの?
秋也の肩の向こうの、桐山の亡骸を、典子は秋也に気付かれない様に、もう一度見た。
桐山くんは、今回の事は、あたしに聞かなかったね。
こうする事が正しいと思ったの?
自分で、正しいと、そう思ったの?
聞いて欲しかった。こうなる前に。
いつもの様に聞いて欲しかった。
桐山の無言の問いかけは銃弾となって典子たちを脅かした。
典子は答えた。
一発の銃弾で。
もう桐山は二度と典子に問い掛けてくる事はない。
典子は涙を拭った。
ごめんね、桐山くん。
何度謝っても、許されないかもしれないけど。
ごめんね。
あたし、秋也くんが好き。
でも、
桐山くんといる時も、
あたしの心、あったかく、なってたよ。
とても、温かかったのよ?
涙は止まっていた。
典子は自分の胸に手を当てた。
再び酷く冷たい何かがこみ上げて、胸が痛んだ。
胸に一箇所だけ空虚が生じた気がした。
秋也と居ても、
そこに生じた空虚は、決して埋まる事はないのだろう、と。
典子は思った。そんな気がした。
「典子、胸、痛いのか?」
「少しだけ。でも、平気よ」
典子は顔を上げた。
秋也を見た。
心配そうな秋也に微笑みかけた。
「大丈夫」
あたしは忘れないから。
桐山くんの分は、ずっと残ってるから。
桐山くんが痛かった分、
何年でも、
あたしが生きている間は背負っていくから。
許してなんて言わない。
典子は呟いた。
「さよなら、桐山くん」
桐山の名前を口にしたのはそれが最後だった。
もう一度典子の胸が締め付けられる様に痛んだ。
おわり
戻
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