Maternal Love

「休みなんだ…どうしよう」
中川典子は家の近くの花屋の店先で溜息をついた。
今日は五月の最初の土曜日、
午前中授業だった学校から帰って来ると、典子は軽い昼食を済ませて出かけた。
明日は母の日。母に贈るカーネーションを買う為に。


けれど、タイミングの悪い事に、行きつけのこの店のシャッターは下ろされていて、
白い張り紙には「臨時休業」の文字。
普段より多くの客が期待できるであろうこの日に限って休みだなんて。
事情はわからないが、ちょっとしたハプニングだった。

仕方ない、もうひとつの花屋さんに行こう。
ちょっとあそこは高いけど、買えないよりはいいよね。
典子は踵を返し、家に向かう。
ベッドタウンの色合いの強い城岩町において、花屋は典子が知る限り、
今来たこの店以外に一つしかない。
そこは歩いていくには少し遠い。典子はいったん家に戻ると、自転車に乗って
目的地を目指した。

自転車をこいで暫く行くと、目的の店につく。
この店に来るのは二回目だった。一回目は、確か母親と一緒の時に。
値段は先程の店に比べると少し跳ね上がるが、花の種類は豊富だし、ラッピングも丁寧にしてくれる。
―選ぶの迷っちゃうかも。
典子は弾んだ気持ちで自転車を店の前に停めた。駐車場はついていないので、なるべく店の邪魔にならない所に。
店に入ろうと近づいて、典子は立ち止まった。
―あ。
ショウウインドウの前に、見慣れた後姿があった。
特徴的な髪型は、後ろからでもすぐそれとわかる。
「桐山くん?」
典子が声をかけると、ゆっくりと振り向いた。やはり、桐山だった。
襟足をやや長めに伸ばした、一風変わったオールバック。個性的ではあるが、恐ろしい程に整った彼の容貌を引き立てるのに充分な。
学校帰りなのか、彼はいつもの黒い学生服のままだった。

「桐山くん、何見てたの?」
典子が訊ねると、桐山は無言でショウウインドウを指差す。
その向こうには、色とりどりのカーネーションが所狭しと並んでいた。
悪いとは思いつつも、典子は零れる笑みを押さえ切れなかった。
無愛想で、どこか硬質なイメージを持つ桐山と、可愛らしい花とが、あまりに不釣合いで。
桐山くんでも、やっぱりお母さんに花あげるのかな。
桐山の母親。どんな人だろう。やはりこんなに格好いい息子が居るくらいだから、飛び切りの美人に違いない。
典子は浮き立つ気持ちのまま訊いた。それが招く結果の事など考えもせずに。
「桐山くんも、母の日の花、買いに来たの?」
「いや」
桐山はそっと目を伏せた。
桐山の反応が淡々としているのはいつもの事だが―それにしても、どこか冷たい反応。
あたし、何か変なこと言ったかな?
典子が戸惑っていると、桐山和雄は伏せていた視線を戻し、いつもと変わらぬ無表情の顔を典子に向けた。
その様子になんとなく、威圧感の様なものを感じ、一瞬典子は硬直する。

特に変わらない口調で、桐山は言葉を紡いだ。
「俺に母親はいない」
その声は典子の耳にりんと響いた。
―え?
お母さんが、いない?
典子は言葉を失う。目の前に立つ桐山は、全く表情を変えない。
後悔の念が込み上げて来た。
ほんの軽い気持ちで聞いただけだったのに、そんな答えが返って来るとは少しも思わなくて。
「ご、ごめんなさい」
「?」
「あたし…知らなくて」
桐山は形の良い眉を持ち上げ、首を傾げた。
「なぜ、中川が謝るんだ?」
典子は申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、言った。
「あたしー知らなくて」

母の日。
きっとお母さんが居る家ではとても幸せな日。
でも、居ない人にとっては?
あたし、桐山くんの気持ちを、踏みにじる様な事、言ってしまった。
典子は俯いた。自分の言ってしまった言葉の重みを感じ、さらに後悔していた。
桐山はそんな典子を不思議そうな顔で暫くの間眺めていたが、やがて、思いついた様に、
典子に背を向け、花屋の中へと入っていった。

自動ドアの開く音で、典子ははっとした様に顔を上げた。
やっぱり…怒ってるんだわ。どうしよう。
典子は店の前に立ち尽くしたまま、そこを去る事もできずにいた。
花屋の中にいる桐山の方をおそるおそる見た。
桐山がカーネーションを一輪手に取る光景が目に映った。

―え?
さっき、お母さんはいないって…。
桐山はそのまま花を会計に持っていった。
店員が花をプレゼント用にラッピングして行く。

桐山はその花を受け取ると、黒い財布からお札を取り出して店員に渡した。
典子は驚いた様にその様子を見ていた。
桐山が店から出て来た。

呆気に取られた様に立ち尽くしている典子に、桐山はすっと自分が手に持っていた
花束を差し出した。
白い包装紙から、可愛らしいピンクの花が覗いている。

「え?」
典子は瞬きして、その差し出された花束と、桐山とを見比べた。
桐山の真意が掴めない。
戸惑っていると、桐山が口を開いた。
とても静かな声で。
「よければ、受け取って欲しいんだ。中川に」
典子はその大きい目をさらに大きくして、桐山を見つめた。
「あたしに…?」
桐山は相変わらずの静かな表情で、頷いた。


「毎年」
「え?」
「毎年この時期になると、花屋にこの花がたくさん並んでいると思った。」
桐山はまたそっと目を伏せ、花束を見つめた。
続けた。
「俺には関係ないと思っていたが、興味があった。母の日というものに。この花を買ってみようと思った」
桐山の澄んだ瞳は典子だけを捉えていた。



「渡す相手を考えた時、中川の顔しか思い浮かばなかった。それだけだ。」
「………」
桐山は花を差し出したままだ。
典子は桐山の独白に、ただただ驚いていたが―。

桐山の持っている花を見た。
可愛らしい花。
「お母さんいつもありがとう」
そうプリントされた包装紙。
どうしてだろう。
桐山は無表情なのに。
典子はとても切ない気持ちになった。
「これ、本当に、あたしにくれるの?」
桐山は静かに頷いた。
手を伸ばした。
典子はそっと桐山の手から花束を受け取った。


桐山は、典子が花を受け取るとすぐに、もう用は済んだと言わぬばかりの様子で、
典子に背を向け、歩き出した。
典子は少しの間ぼんやりとしていたが、桐山が遠ざかって行くのに気付いて、
あわてて、呼び止めた。
「桐山くん!」
桐山はゆっくりと振り向いた。
典子と桐山の目が合った。
少し、典子は顔を紅くした。
「桐山くん、ありがとう。また明日、学校でね」
桐山は黙っていた。
ただ、
少しだけ目を細めた。
「ああ」
そう一言だけ言うと、桐山は踵を返した。
典子はそのまま、小さくなっていく桐山の背中を、暫くの間見つめていた。
桐山くん…とても、寂しそうに見えた。
典子は花束を見つめた。そして、大切そうにその花を胸に抱えた。



次の日、典子の家の玄関には、紅いカーネーションが二輪、ピンク色のカーネーションが一輪飾られていた。
あれから典子は弟の分と、自分の分のカーネーションを買って帰った。
花を母親に渡した時、思っていた以上に喜んでくれたので、とても嬉しくなった。
ふと、桐山の事を思い出した。
「俺に母親はいない」
桐山くんは、こんな顔、見れないんだわ。
母の日に花を贈る。
贈られた母親の喜ぶ顔が見たいから、毎年典子は花を買う。
それが叶わない桐山を思うと、典子の胸は苦しくなった。
そして、思った。
桐山くんは、どうしてあたしに花をくれたんだろう。
「渡す相手を考えた時、中川の顔しか思い浮かばなかった。それだけだ。」
どうして、そう思ったんだろう?

典子は桐山からもらった花だけは、別の花瓶に生けて、自分の部屋に持っていった。
ピンク色の花を眺めながら、典子はぼんやりと考えた。
桐山くんへのお返しは何にしよう。
私が母の日なら、桐山くんには父の日かしら。

でも、桐山くん、お父さんて感じしないな。

むしろ…。

典子は思い出した。
この花を渡して来た時の、桐山の顔を。
とても綺麗だけれど。子供みたいな澄んだ目をしていた。
典子の小さい弟が、母親にぶっきらぼうにカーネーションを渡す姿と、
何となく、重なった。

母の日に、クラスメイトにカーネーションを渡すなんて。
そんな事をするのは、きっと桐山位だろう。
あたしが…桐山くんの、お母さん、か。
笑みがこぼれた。
嬉しかった。
明日、会った時にはもっとちゃんとお礼が言いたいな。
もう一度、典子は桐山に渡されたカーネーションを見た。
あたし、すごく嬉しかったよ。
ありがとう、桐山くん。


おわり


2002年9月初稿、2003年11月改稿