痛みの証明

その日、中川典子は朝から体調が優れなかった。
雨の日。気分も憂鬱。些細な事が反映してしまうのが自分でも情けなかった。
昼には周りに心配された事もあって保健室に行く事にした。

生憎保健の先生の姿は見当たらなかった。
取り敢えずベッドに横になって休んでいようと思い、典子がカーテンを開けようとしたその時、
がちゃりと扉が開いた。

入って来た人物を見て、典子は目を丸くする。
「―桐山くん?」
「中川か」
黒い学生服を袖を通さず羽織った男子生徒。典子のクラスメイトの桐山和雄。
およそ保健室とは無縁に思える彼。―ここ暫く教室に姿を見せていなかった。
桐山は右手で保健室の扉を閉め、典子の方へと近づいて来た。
軽く小首を傾げて訊ねる。
「中川は、どこか悪いのか?」
「ん、ちょっと」
それに典子は少しもじもじしながら答えた。
不思議な話だが。
桐山の顔を見たら、急に具合が良くなってしまったので。
「桐山くんも、具合悪いの?」
典子は立ったままの桐山を見上げる様にして問いかけた。
「ああ、俺は―」
そっと目を伏せてから、桐山は羽織っていた上着を脱いだ。
その光景を―決して忘れる事はないだろう。
典子は思わず声を上げた。
「桐山くん…!どうしたの!?それ…」
それは、あまりに酷い光景だった。
今まで、典子が目にした事のない様な。
桐山の左腕、
白いシャツの袖の中程ががすぱりと切れて、破れた生地に紅い染みが出来ていた。
初めて目にする鮮血。クラスメイトが、血を流している。
典子は青ざめた。平和な世界に生きている典子にとって、こんな血なまぐさい光景は無縁のものだったのだ。頭がくらくらとし、せっかく良くなっていた気分が再び悪くなってくる。
桐山はそんな典子に、淡々とした口調で言った。
「学校に来る途中、突然ナイフを持った男に切りつけられたんだ。避け切れなかった」
特に顔色を変えずに続けた。
「それで、包帯と薬をもらいに来たんだが、先生はいないのかな?」
「…あ、うん」
こんなに酷い怪我をしているのに。
当の本人の桐山は全く動じた様子を見せない。
典子は拍子抜けしてしまった。
不良グループに属する彼にとっては、そんな出来事など日常茶飯事なのか。
典子の理解の範疇を超えたところで、桐山は生きているようであった。
同じ年だけ生きて来た、クラスメイトなのに。

桐山は薬品棚の方に視線を移した。
自分で手当てするつもりなのか。
典子は慌てて椅子を立ち、桐山を遮るようにして言った。
「あ、待って、あたしが出すから!」
「そうか?」
あまり動いては出血が酷くなってしまう気がした。

典子は棚から消毒薬とガーゼ、それに包帯を取り出した。
手当てなんて、自分や弟の軽い擦り傷を消毒して、絆創膏を貼るくらいしかやったことはないけれど。
それでも怪我人にやらせるよりはずっとましだろう。
桐山は腕を押さえたまま、そんな典子を静かに見ていた。


「桐山くん、ちょっと我慢しててね」
「すまないな」
典子は消毒液を染み込ませたガーゼをそっと桐山の傷口に当てた。
眉を顰める。こうして間近で改めて見ると、やはりかなり深く切れている様で。
桐山くん、しみてるかな。
恐る恐る桐山の顔を見上げた。そして、少し驚いた。
「どうした?」
「うん…なんか桐山くんて、あんまり痛がらないなって」
不思議に思った。
痛まない筈はないのに。
少しも痛がる素振りを見せない、桐山が。
典子の弟などは、軽く膝を擦りむいただけでしみると言って騒いだものだ。
しかし桐山は眉一つ動かさない。まるで痛みなど感じていないかのように。

桐山は無表情のまま、ぽつりと言った。
「痛みを感じていないわけじゃない」
「え?」
「痛みを感じている様子を見せてはいけないと、そう、習ったんだ」
まるで典子の心情を読んだかのような桐山の言葉。
典子は虚をつかれたように桐山を見詰めた。
桐山は相変わらず表情を変えなかった。

―痛みを感じている様子を見せてはいけない?
そう、習った?
一体何のために?
「習った…?…桐山くん、一体誰がそんな事…」
「………」
典子が尋ねても、桐山は黙って典子を見詰めるだけで、決して答えようとはしなかった。
ただ、その漆黒の瞳は僅かに揺れて、何かを訴えかけて来る様だった。
触れられたくない部分なのかもしれない。
これ以上深く追求してはいけない、典子はそう思い、桐山への問いかけを諦めた。
桐山の白い腕は、それ以上に真っ白な包帯で覆われた。
紅い血はもう流れない。
けれど、だからと言って彼の痛みが収まった訳では無いだろう。

桐山が痛みを我慢しなくてはいけない理由は典子にはわからなかった。
ただ、思った。
それは、桐山にとってとても辛い事なのではないかと。
「桐山くん…誰に対しても、そうなの?」
痛い、そんな素直な気持ちを誰にも話した事が無いの?
桐山はやはり答えなかった。
ただ、じっと典子をその静かな瞳で見詰めるだけで。
典子は桐山の包帯で覆われた腕を見た。
とても、痛々しく思えた。
桐山の身体に刻まれた傷も。表に出す事を許されない彼の痛みも。

「痛いときは痛いって、言っていいのよ。…あたしには」
思い余って、典子の口をついて出た言葉。
それを聞くと、桐山は僅かに眉を持ち上げた。
ほんの少し驚いた様だった。
どこか不思議そうな顔をして、典子を見詰める。
「あ…あたし…その…」
真顔で見詰められ、典子は顔を紅くして俯いた
言ってしまってから、恥ずかしくなったのだ。
まるで子供に対するような言葉。さすがの桐山でも怒っただろうか。
「中川」
「え?」
典子は顔を上げた。
桐山は怒ってなど居なかった。
ただ、僅かに目を細め―どこか穏やかな顔をしている様に見えた。
「少し、痛いよ」
あまり大きくはない声で。
桐山は、典子にそう言った。



―忘れていた。
そんなこと。
あの時彼が「痛い」と言っていた事。

忘れていた。
彼だって痛みを感じていると言う事。
彼は、そんな素振りを少しも見せなかったのだから。
ううん。違う。あたしは自分の痛みで精一杯で、彼の事なんて少しも
考えてあげられなかった。
どうして、今頃になって思い出したりしたんだろう。

ばん。

銃声が響いた。

狙った箇所。
桐山の綺麗な顔に。
典子の撃った弾は紅い点を深く深く刻み込んだ。
彼の生命を絶つに充分な一撃を。

確かに見た。
崩れ落ちる寸前、少しだけ動いた。
桐山の唇。

中川。―痛い。

彼の声が聞こえた様な気がした。
最後に。
本当に、最後になって。
彼はあたしに「痛い」と言った。
あの時と同じ様に。
どうしてもっと早く思い出してあげなかったんだろう。あたしは。

当たり前だよね。
たった一人でずっと闘い続けて。たくさん、たくさん撃たれて。
桐山くんだって、痛かったよね。
…ごめんね…。


引き金を引いた手が震えた。
刻まれた傷以外の痛みが―全身をさいなむ様だった。



おわり