1.迷いと憐憫

 どれほど時間が経とうとも、忘れられない思い出があった。
 それはとても残酷で。
 それはとても悲しい思い出。

 きっと君は、俺の閉ざされていた何かへ通じる扉を開けてしまったのだ。

 けれど君はそれに気がついていないだろう。
 自分でもよくわからないこの気持ちが生じるわけを―、君に教えてほしかった。

 求めても求めても、手に入らない、掴めない何か。
 開かれた扉の向こうにある、手に入らないそれをただ、ただ欲しいと思った。

 君を手に入れれば、この空白は埋められるのだろうか。
 君ならば埋められると信じていた。
 だから君が欲しかった。寒くて、果てしなく続くこの虚無の世界から、暖かい君を俺は求めた。




 宿題として出されていたプリントを教室に忘れたことに気付いたのは、もう夕方の六時を過ぎた頃のことだった。
 流れていたニュースで時間を告げるキャスターの声を聞いた。

 「忘れ物しちゃったから、取りに行ってくるね」
 「あら、もうだいぶ遅いわよ。今日はもうよしなさい。明日朝早く行ってやるんじゃ間に合わないの?」
 「すごい量が多いんだもん。行ってきます」

 母親は心配そうに眉を曇らせていた。母親が心配性なのはいつものことで、特に気に留めなかった。血のつながった母は、あるいはこのとき娘の辿る運命を肌で感じ取っていたのかもしれない。

 中川典子は、ごく平均的な女子生徒だった。

 中学三年生になったばかり。来年高校受験を控えていて、他の同級生たちと同じように、塾にもぼつぼつ通い始めて。
 それ以外は好きな詩や小説のことを考えたり、たまにクッキーを焼いたり。本当に穏やかに楽しく毎日を過ごしていた。

 ひっそりと恋している男子生徒も、同じクラスにいた。気軽に得意な詩について話し合える今の関係に満足していたけれどー、いつか、想いを伝えられる日が来ることを期待している自分がいた。


 典子が通う城岩町立城岩中学校は、典子の自宅からは徒歩で十分ほどの位置にある。
 生徒の中では学校に近いほうに住んでいると思う。中には三十分ほどかけて通ってくる生徒もいる。

 ―誰もいないよね、もう。

 ひっそりと静まり返った夜の城岩中学校。昼間賑わっていたときとは一転して、どこか不気味な雰囲気を漂わせている。

 かつん、かつんと響く足音。典子の立てる音以外、何も聞こえてこない。

 やがて一階にある、三年B組の教室に辿り着く。二年生のときの教室は二階にあったので、まだ少し慣れない感じがする。
 典子はちょっと首を傾げた。誰もいないはずの教室の灯りがついている。
 
 ―誰かが、消し忘れたんだわ。

 深くは考えず、教室の扉を開ける。誰も座っていない椅子と机が、ホームルームを終えたときの姿のまま並んでいた。
 前から三番目の自分の机の中をさぐると、確かに昼間配られた数学の宿題のプリントが入っていた。
 ほっと安堵のため息をつきそれを鞄の中に仕舞った。踵を返し教室を後にしようとして典子はふと、気がついた。
 誰もいないはずのこの場所で、人の気配がすることに。

 ―あ。

 不思議な存在感だった。最初は少しどきりとさせられた。

 一番後ろの席で、うつ伏して眠っている男子生徒が一人いた。黒い学生服の背中に少しだけかかった後ろ髪。

 …桐山くん?
 こんな特徴のある髪型をしている人は、このクラスでも「彼」しかいなかった。典子は目を丸くした。
 こんな遅くまで、彼は一体何をしてたんだろう。
 出来るだけ足音を立てないように、桐山に近づいて行った。背中が規則的に上下し、ごく小さい音だけれど寝息も聞こえる。
 彼は完全に眠っている様だった。組んだ腕の間から、端正に整った寝顔が覗いていた。
 それを目にすると、思わず微笑が零れる。
 いつも見慣れている冷たい目が閉じられているせいか、その顔はひどくあどけないものに見えた。
 
 彼―桐山和雄とはつい最近、ほんの偶然から言葉を交わすようになった。

 不良グループのボス、中国四国地方屈指の大企業の社長の御曹司という肩書きに最初は気後れしたけれど、話してみると、そんなに怖い人でもなかったので。
 今では物怖じすることなく、典子の方から挨拶したりもする。

 この学年になってから転校してきた川田章吾とも時折話していた。怖そうなのは見た目だけで、話してみると不思議な落ち着きと包容力のある、優しい人であった。

 彼を例にとっても、やはり噂で人を判断するのは良くないことだとつくづく思った。
 自分の価値観に照らして物事を考える強さを典子は持っていた。

 「こんな所で寝てたら、風邪引いちゃうよ」
 小さな声で囁く。床に滑り落ちたらしい学生服を拾い上げて、軽く埃を払い、桐山の背中に被せてやった。
 硬質で近寄りがたい雰囲気を持つ彼が、たまに寝癖がついていたり、学生服のボタンが取れていたりすると、つい世話を焼きたくなってしまう。

 …もうじき、警備員が巡回にやってくるだろう。部活動の生徒もほぼ下校している時刻。そろそろ起こしてあげたほうがいいだろうか、そんなことを考えていると、小さくうめいて、桐山が身じろいだ。

 「…ん…」
 「あ…起こしちゃった?」
 多少驚きながら、典子は桐山を見つめた。
 「中川…か」
 桐山は顔を上げた。ほんの僅かに崩れたオールバック。それがどこか可愛らしく見える。
 「こんな遅くまで残ってるなんて、珍しいね」
 「少し疲れていて、眠ってしまっていた」

 桐山はまだ眠気が残っているらしく、重そうに瞼を上下させた。それから、典子をじっと見詰めた。
 美しく冷たい目に射抜かれて、身動きが出来なくなってしまった。いつもそうだ。彼の瞳にまっすぐ見られるのは、何だか少し居心地が悪かった。まるで自分の全てを知られてしまうようで。

 「中川は」
 「あ、あたし?ちょっと忘れ物しちゃって」
 どぎまぎしながら言う。以前ほどではないが、まだ桐山は典子にとって未知数な人である。
 その桐山と、放課後の誰も居ない教室に二人きり。
 その状況が、不思議と典子の胸を高鳴らせた。
 
 思わず桐山から視線を外す。頬が熱い。けれどまた、漠然とした不安感が胸にもたげてきた。理由はよくわからない。けれど、何か…
 「どうした。中川」
 「え?」
 「どうして、目を逸らすんだ?」
 「どうしてって…」
 ―何かが足りないという感じ。
 桐山のあくまで澄んだ機械的な声は、典子を責めるような調子だった。
 自分でも、よくわからない。…桐山の顔がまともに見られない理由なんて。

 ―がたん。

 椅子が引かれる音がした。
 驚いて、振り返った。桐山が、いつのまにかすぐ目の前に居た。
 「桐山くん…?」
 相変らず桐山は無表情だった。
 けれど。どこかいつもと様子が違う。

 それに気付いた時、桐山が典子の手首を掴んだ。
ひどく、強い力で。
 「…痛いっ!」
 思わず声を上げた。掴まれているというより、拘束されているような感触。彼の手から人肌の温かさが感じられないことにひどい違和感を覚えた。
 「桐山くん、痛い、離して、何するの!」
 驚きと怒りの混じった声で叫んだ。

 まさか、彼がこんな乱暴を働いてくるなんて、思いもしなかった。…自分に警戒心がなかったせいだろうか。こんなに桐山を「怖い」と思ったことは今までになかった。

 「あまり大声を出さないでくれないか」
 桐山は全く感情の篭もらない声でそう言い、典子の唇を自分の唇で塞いだ。
 
 「―っ…」
 苦しかった。
 抵抗しようとしたが、上手く身体に力が入らない。そのまま、力任せに引き倒された。
床に打ち付けられた背中に鈍い痛みを感じた。次の瞬間には、桐山の身体が重くのしかかってきた。
 桐山はそんなに背は大きくないし、どちらかと言えば痩せ気味の体格だったが、この 細い身体のどこにそんな力があるのだろうと思わせるほど、抗う典子を押さえつけて放さなかった。
 桐山が、やっと唇を離した。
 「何するの、桐山くん、離して…!」

 ほとんど悲鳴に近い声で叫んだ。大声を出しても、ここには誰も助けに来てくれない。逃れようがなかった。
 桐山を宥めすかすのも不可能な気がした。冷たい瞳には容赦というものが感じられない。桐山は少しも動じる様子を見せぬまま、淡々と言った。

 「中川は、持っている」
 「え?」
 「中川は、俺に足りないものを持っている。ずっと、そう思っていた」

 一瞬だけ典子は怯んだ。
 桐山の冷たい瞳が、ひどく悲しそうに見えたから。
 その瞬間だけは彼への恐怖は思考の隅に追いやられ―深い憐憫の情が胸を満たした。

 …桐山くん…
 けれど、次の瞬間。スカートの中にすっと冷たい感触が入り込んできた。背筋に寒気が走った。
 「やっ…」
 桐山の手を止めようとしたが、遅かった。全く潤みのないそこに、桐山の指が侵入してきた。

 「…っふ…」初めてそこを開かれた痛みに腰を揺すった。入り込んだ異物を、全身で拒もうとするが桐山の力がそれを許さなかった。
 桐山くん…まさか。
 典子の思考はそこで中断した。桐山が強引にもう一本の指を埋めてきたから。
 激痛が走った。

 「痛いっ…」

 典子は悲鳴を上げた。身体を引き裂かれる様な痛みだった。同じ年の少女たちの大部分がそうであるように、まだ誰の手にも「そこ」を許したことはなかったのだ。

 「中川…力を抜いてくれ」
 相変わらず、全く感情の篭もらない声で言い、桐山は少しきつめに典子の身体を抱きしめた。
 引き裂かれる様な痛みを感じながら、典子はふと思った。

 冷たい。
 何て冷たい身体なんだろう。

 典子は思わずしがみついた。桐山の冷たい背中に。


 しがみついた彼の背中の冷たさと。
 高鳴る自分の心臓の音と。
 彼の心臓の音とが、やけに鮮明に知覚された。

 桐山が、指を動かし始めた。何の気遣いもない、機械的な行為だった。

 「痛いっ…」
 泣きながら声を上げた。なぜ、こんな目にあわなくてはいけないのか。理不尽な状況への怒りと、悲しみが胸を支配していた。
 「やめて、もうやめて、桐山くん」
 縋るように桐山の顔を見上げた。
 桐山は黙っていた。冷たい目で典子を見ている。感情の抜け落ちた彼の冷静な表情が、ぞっとするくらい怖かった。
 「嫌だっ…」
 桐山の胸を押して、逃れようとするが、彼は一向に力を緩める事なく、典子を犯し続けた。
 快感など感じる筈がなかった。ただ、痛いだけ。ぽろぽろと涙が零れた。初めての行為が、こんなに恐ろしく、痛いものだなんて。相手が、大好きな人ではないなんて。

 「助けて、助けて、秋也くんっ!」

 来ないとわかっていても。
 無意識に、呼んだ。
 大好きな人の名前を。
 「中川…」
 そのとき、桐山の手が止まった。ずるりと指が引き抜かれ、典子を抱きしめる彼の腕に力が篭もる。
 それは強引なものではなく、縋り付くように弱々しいもので。

 押し当てられた、学生服越しに桐山の下腹部が熱く脈打っているのを典子はぼんやりと感じ取った。 それが何を意味しているのか、まだ幼い典子にはわからなかった。

 嵐が過ぎ去った後のように、あたりはしんと静まり返っていた。

 「…俺は七原じゃない」
 桐山の腕の力が緩んだ。彼の呼吸は僅かに乱れていた。その腕から逃れる気力すらもはや典子には残っていなかった。
 「中川は、七原でなければ駄目なのか?」

 涙も枯れ果てた目で、虚ろに彼を見上げると、ほんの少しではあるけれど、桐山の昏い瞳が揺れている様に見えた。身体の力が抜けて行った。
 典子は、意識を手放した。


 怖い。怖い。
 あなたはとても怖い。
 あなたの中にはとても真っ暗で、どこまでも深く、果てしない闇が広がっているような気がするの。
 そこには何も無い。何も何も無い。
 あなたはあたしから、全てを奪いつくそうとしたの?あなたに何も無いから?


 目覚めたとき、典子は自分の席に座っていた。乱れた衣服は直されていて、身体に黒い学生服がかけられていた。
 重い上半身を持ち上げた。ぼんやりとした目で時計を見ると、夜の八時を回っていた。そんなに長い時間は経っていないらしい。

 ………!

 ふいに、先ほどの記憶がフラッシュバックした。頭が痛くなって、体がぶるぶると震える。恐ろしい体験と、それを自分に与えた相手のことを考える。おぞましい学生服を手で振り払った。

 恐ろしい痛みを典子に与えた相手―桐山の姿は既にそこになかった。
 ただ、扉の向こう、遠ざかっていく足音が聞こえたような気がした。

 「ねえ、どうしてこんな事…」
 こんこんと涙が零れて来た。止まらなかった
 ひどい。
 ひどいよ、桐山くん。
 学生服を桐山の机に投げつけた。
 ばさりと落ちた。

 典子は声を殺して泣いた。
 




つづく