桐山和雄はその日帰宅してから、久々に感じた強いこめかみの疼きを持て余していた。それはひどく不快なものだった。
中川典子の涙が、目に焼きついて離れなかった。
―中川が、欲しかった。
中川を手に入れれば、俺の隙間は、埋まるのだと思っていた。
疼くこめかみに指を当てて、擦る様に動かす。
落ち着かなかった。嬉しいだとか楽しいだとか、悲しいだとかー、そういった感情の区別はつけられなかったけれど、快・不快の区別くらいはどうにか分かった。
これは「不快」な疼きだ。
典子に対し、「渇き」のような欲求を覚え始めたのは、ここ最近のことだ。二年生のときも同じクラスだったけれど、こんなにも彼女を「欲しい」と感じたことはなかった。
「欲しかった」から。
中川を俺のものにしたいと、思ったから?
自分が典子に対して行った「行為」のことは、知識では理解していた。
特殊教育の中でも習ったことだし、今はそういったものに関する情報が氾濫している。
快楽を満たすためだけに存在する行為のことも、知っている。
だが欲望のはけ口としての異性なら、他にいくらでもいたはずだ。
それなのに今までその行為に及ぶ気持ちを、自分から起こしたことはなかった。
典子は涙を流して桐山を拒否した。
その典子の意思を無視して、無理矢理典子を抱こうとした。「痛い」典子はしきりにそう口に出していたけれどー、自分も「痛かった」ような気がする。
「助けて、秋也くんっ…」
特に典子が七原秋也の名前を出したとき―こめかみがひどく疼き、胸が締め付けられるような思いを味わった。
そうだ、典子を抱きたいと強く思った―それは七原と親しげに話している典子の姿を見たときからだ。落ち着かなかった。どうしてなのかはわからない。
…寒い。
典子に暖めて欲しかったのに…少しも温まることは出来なかった。
自分の身体が冷たいことに気がついたのはー中学生になってからだ。
いつも傍にいる充にふとしたとき手を取られて、「ボスの手、すげえ冷たいな」と言われたことがあった。
「手が冷たい人は、心が温かいのよ。ね、桐山くん」
月岡がフォローするように言ったけれど、彼もまた桐山の手を取ると言葉を失った。 触れてきた誰の手よりも、自分の手は冷たかった。
…心が温かい。いや、そんなはずはない。
何も感じないのだ。この胸には、何も無い。いつからそうなったのか、自分でも分からない。どうしてそうなのかも。
中学に上がるまでは、家に関わる者以外の人間とのあいだに交友関係を持つことはなかったし、自分と他人との違いについて意識することもなかった。
充は初めて近づいてきた他人だった。
充の傍にいれば色々な新鮮な出来事に触れることができたし―なぜか、いつも「悪くない」と試してみたことごとのように飽きることもなく、彼への興味はいつまで経っても失せなかった。
異性である中川典子に対しては、充とは違った興味を抱くようになったのだ。それは単に男としての女体への性的欲求だったのだろうか。…よくわからない。
身体が冷たい。
典子とひとつになれば、温かくなれると思った。ひとつになる方法を、「それ」以外に思いつかなかった。愛情とか、そういった類のもので結びつく方法が自分にはよく理解できない。
しかし結局、あの方法で典子と結びつくことは出来なかった。恐怖と拒絶の色を露にしたあの表情を見れば理解できる。
…そうとわかっていれば、途中で止めてもよかったはずなのだ。自分の欲望を制御できなかったことが不思議だった。
特殊教育の中で、痛みや空腹、眠気に耐える訓練は幾度も受けてきた。性欲を抑えることも不可能ではなかったはずなのに。
…なぜ?
こめかみの疼きが止まない。
自分は何も感じない代わりにーここだけが疼いた。そこが疼くとき、本当は何を感じるべきなのだろうか。
…感じなければいけないのに。
―中川は、傷ついたのだろう。
相手を思いやらぬ行動を取るべきではない、感情が理解できなくとも、知識としては理解して、自分の行動の結果、相手がどのような反応を返すか、日常生活を円滑に過ごせるよう、膨大な量の知識を得たのは、何のためだっただろうか。
…中川。どうしたら、俺は。
いや。もう遅いのかもしれないが。
結局目覚めた典子に何も言えなかった。
言うべき言葉が見つからなかったし、典子は自分を何より恐れていた。
自分が乱暴をしたために、傷ついた典子の手当てをして、彼女が気を失っている間、ずっと 彼女に何かを言おうと考えていたのだけれどー、何も思い浮かばなかった。
典子が笑顔を向け、話してくれているとき、こめかみに、不快ではない疼きが走っていた。それを悪くないと思っていた。
だが、―もう典子は、二度と自分に微笑みかけてはくれないだろう。
―理解できないままなのか。
桐山は、まだ気がつくことができなかった。自分の抱える典子への気持ちに。自分が典子に求めている「何か」に。
ただ典子を求める気持ちだけが募り―桐山自身も知らない古傷を疼かせていた。
翌日、やはり典子は学校を休んでいた。
あまり学校を休むことのない彼女が姿を見せないことで、女子主流派の内海たちは心配そうに話しあっていた。
「典子、具合悪いのかな」藤吉文世が空いたままの机を心配そうに見やった。
「今日、典子の家寄ってプリント届けるとき様子聞いてくる」金井泉はややすると暗くなりそうなグループの皆を元気付けるように言った。
「委員長、今日典子サン休みなの?」
女子と話すことにあまり慣れない国信の代わりに、七原秋也が幸枝に尋ねる。
「うん。…ちょっと連絡つかないから、心配なのよね。…気になる?」
「まあ。…俺もそうだけどさ、慶時がすごい心配してそうだからさ」
「秋也!」
おっと、と口を押さえる秋也と、顔を真っ赤にする国信を、幸枝は微笑して見詰めた。 「きっと、すぐに元気になってくるわ。あの子、学校好きだもの」
「―ボス?」
桐山は前から三番目の、空いたままの典子の席をぼんやりと見詰めていて、充に声をかけられたのに、暫く返事を返すことが出来なかった。
「…ああ、何だ、充。」
「明日の放課後、F中の奴等とやり合うことなんだけど」
「俺は今回は遠慮しておく」
「…そっか。まあ今回は俺たちだけで何とかするよ。」
充はそう言った後、「今日、ボスなんか考え事してんの?」さりげない調子で聞いた。 それで桐山が答えにくそうにすれば深く詮索はしない。彼と付き合いの長い充は距離の置き方を知っていた。
それに 軽く頷くと、桐山が逆に質問した。
「充。」
「なに?」
「女を抱いたことはあるか」
桐山のあまりにもストレートな質問に、充は度肝を抜かれたような顔をした。
「どうなんだ?」
「ボ、ボス…また質問?何でいきなりそういうこと言い出したのか知らないけど、ここで聞くなよな…」
「なぜだ」
「とにかく、ここでは駄目!屋上でな」
首を傾げる桐山を、充は無理矢理納得させた。周囲の好奇的な視線がとても痛かった。
充の危惧したとおり、桐山の爆弾発言は、教室の女子主流派にちょっとした話題を提供した。桐山が充に連れられて教室を去った後、年頃の女子たちはすぐに騒ぎ始めた。潔癖な野田聡美は眉を少し吊り上げただけで話には加わろうとしなかったが。
「あたし、沼井くんはまだみたいな気がするけどなあー。いつも桐山くんばっかり見てるから女の子が見えないんだよー」
「そうかな?沼井くんって結構露骨だと思うけどなー。ねえ泉?」
「んんー?」
中川有香と谷沢はるかが好き放題言っている横で、金井泉は、お父さんには昔いっぱい抱っこしてもらってたけど…などと的外れなことを考えていた。
「俺はまだセックスとかしたことねぇーよ。まだ早いと思ってるし」
充は「そのこと」を告白するとき、少し照れくさそうな顔をした。桐山はそうか、とだけ言った。
「竜平とかさ、最近でこそ落ち着いてるけど、少し前まですげぇ遊んでただろ、そういうのこそ俺だっせえと思うよ」
「なぜだ?」
「そういうのって、遊びでするもんじゃないと思う。セックスが好きなだけの女ばっかりじゃないと思うし。竜平は何人も泣かしてるしさ」
…泣く。
なぜ、中川は泣くんだ?
典子の涙をふと思い出し、こめかみにずきんと疼きが走った。
「一方的なのは駄目だと思う。ちゃんと相手も自分も思ってなくちゃさ。…でないとお互い傷つくよ」
「お互い?」
「そうだよ。ボス、罪悪感とかって、結局消せないものだろ?」
罪悪感。
それは、何だ?
充が、自分より弱いものには決して手をあげないことと何か関係があるのだろうか?
桐山はもう少し充に質問したい気分だったのだけれど、「それじゃ俺、行くからさ。またな、ボス」充が笹川からかかってきた電話を受けて踵を返してしまったので、それ以上何も答えを得ることは出来なかった。
―誰も何も教えてくれない。
いや、教えてくれないだけではなく―自分は誰からも、何も、今まで知ろうとはしなかったのかも、しれない。
どっちでもいい、と思っていたのだ。
自分のことも、他人のことも。おそらくは。
充に出会うまでは、周りの誰もが自分に関心を持つことはただ、教育に対し成果を出せるか―いかに優秀な子どもであるかということだけだった。充ですら、自分の内面に関しては干渉してこなかった。
おまえは実に正しい、いい子だから―ただ私の言うことだけを聞いていなさい。何もわからなくていい。ただ、従っていなさい―。
物心ついたとき―義父に言って聞かされた言葉―それだけを道標に、今まで生きてきた。自分の意思なんていらなかった。
俺は、時々、何が正しいのか、よくわからなくなるよ。
正しく生きてきたのならば―なぜ俺は中川を傷つける以外の術を知らないのだろう。
きっと、求めているのは―こんな形のものではないのに。
またこめかみが疼いた。
典子は学校までは来たけれど、教室に足を向けようとするとどうしてもあのときの恐ろしい出来事を思い出して、結局踏みとどまってしまった。
青ざめた顔で保健室に向かった。母親は具合が悪いの、と聞いてきたけれど黙って首を振るしかなかった
誰にも言えないことだった。いくら理由を聞かれようとも、答えるつもりはなかった。
保健医は外出していた。それがかえってありがたかった。
誰かに詮索されるのは何よりも嫌なことだった。
陰鬱な表情のまま、典子はその扉を開けた。気分が落ち着くまで、しばらく休ませてもらおうと思った。
「お姉ちゃん、先客かい」
やましいことをしているわけでもないのに、心臓が止まるかと思うくらい、驚いた。
その低い声の主を振り返る。思慮深げなまなざし。
川田章吾だった。
どこかニヒルな笑みを浮かべながら典子の脇をすり抜け、そこにあった壊れかけの椅子に「よいしょっと」と腰を下ろす。
その顔を見たら、なんだか急に涙がぽろぽろと溢れ出てきて、自分でもびっくりした。
「おいおい、どうしたんだ。おれの顔がそんなにこわかったか」
太目の眉を上げて、川田は目を丸くして見せる。典子の泣き方が尋常でないことを悟ったらしい、すぐにおどけた表情を正した。「何か…あったんだな?」
「…川田くん」
隠し事が出来ない性格の自分はやはり、まだまだ子どもなのかもしれない。
けれど、このやりきれない気持ちを、川田にならば話していいような気がした。彼は全てを受け入れてくれそうな気がした。普段親しい幸枝たちより、もっとずっと大人に見える彼ならば。
あるいは、理不尽でやりきれない今の思いを―誰かに打ち明けることで、典子自身、自分の気持ちを整理したいと思ったのかもしれない。
「あたし…」
声が震えた。自分のこと。桐山のこと。話したいことがいっぱい過ぎて、何から話していいのか、わからなかった。
幼いとき、ふと疑問に感じたことがある。その疑問を持ったきっかけは些細なものだったと思う。
通っていた特殊教育が行われる施設と、屋敷との間に公園があって、そこで遊び戯れる母子の姿を見つけたのだ。
人間は「父」と「母」から生まれる。それくらいのことはとうに理解していた。それならば当然自分には「母」が存在しているはずなのに。なぜ、いない?ただそう考えただけだった。
お父さん、俺に、お母さんはいないんですか―?
後にも先にも、母のことを義父に尋ねたことは、それきりだった気がする。
いつも厳格な表情を崩さない―自分と同じように、感情の揺らぎを見せない義父が、ほんの僅かに動揺の色を示したのは今でもよく覚えている。
「お前は知る必要のないことだ。お前の本当の両親はこの世にいない。『親』は私が全てなのだ。二度とそのような話をするな」
読み漁った本のどこかに、男子は母親に似るという話が書いてあったことを思い出した。鏡に映る自分の無表情な顔。それを見ながら、桐山は取り出してきたスケッチブックに鉛筆を走らせた。
自分は笑うような気分になったことはないけれど―自分に母親がもしいたら、こんなふうに笑ったかもしれない。
ただそう考えて、微笑む女性の肖像を描いた。出来上がったのは、桐山に瓜二つの、この世のものならぬ美しい女性の絵だった。
桐山の世話をする屋敷のメイドたちの中には桐山と同じ年くらいの子どもを持つ者がいて、そんな桐山の様子を哀れに思ったのだろう、スケッチブックを見て泣き崩れた。
「ねえ、どうして泣くの」
不思議に思った。幼い桐山にはよくわからなくて、ただ、つきりと疼いたこめかみを押さえた。架空の母親を描いた絵は、そのあとくずかごに突っ込んでしまった。必要ないと、思ったから。
思い出したのは、どうしてだろう―
ふくよかな唇、丸い鼻梁、黒目がちな瞳、さらさらと靡く、黒い髪―、どれひとつとっても柔らかい雰囲気を持つ、彼女。中川典子。触れたその手がとても暖かかった―彼女。
ねえ。どうして、泣くの?
どうしたら、笑ってくれるの?
泣いて欲しかったわけではない。ただ、興味を持った―その手に抱きしめられたら。優しい声で名前を呼ばれたら、どんな気持ちになるのか。知りたかった。知りたかっただけだ―。
泣かないで欲しい。
涙が収まるのを川田は待っていてくれた。少しづつではあるけれど、典子は自分の身に起こった出来事をほとんど川田に打ち明けた。
「…あいつは、とても空虚なタイプの人間だと思う」
典子を傷つけた相手が桐山だと知ったとき、川田はその意思の強そうな眉をちょっと曇らせたあと、言った。ふうっとため息をついた。
「…空虚?」
典子はその言葉を頭の中でもう一度繰り返した。「くうきょ」
「善悪の区別をつけるための、あらゆる基準があいつには欠落しているのさ。人を思いやるとか、そういう感情は持ち合わせていない、そういう人間だ。理由は知らない。ただ言えるのは、そういうふうに生まれてきて、そのまま育つ人間が、現にいるってことさ」
川田の分析はあくまで冷静だった。桐山に、特に思い入れがないせいだろうか。
「でも、川田くん!…あたしは…」
自分だって…桐山と特別親しいわけではなかった。それなのに、あんなことをされて…ひどく傷つけられて。怖くて、哀しくて。自分の感情とはまるで無縁のように冷たく表情を変えない彼が…許せなくて。
―それなのに。
「桐山くん、とても、寂しそうな顔をしているように、見えたの。それを見たら…あたし …」
この感情は、いったいなんだろう。
「怖い気持ちが全部消えて、ただ、悲しくて…それで…」
桐山を見ていると、彼を思い出すと、胸がひどく痛かった。あのときの「怖い」気持ちが「かわいそう」な気持ちに摩り替わっていた。
最後に自分を抱きしめた、彼の果てしない孤独が、渇望が、ひしひしと伝わってきて。
「…お姉ちゃんは、優しすぎるのさ」
桐山を恨んでいるはずなのに、いつのまにか彼を庇い始めてしまった典子にふっと苦笑してから、川田は感慨深そうに、言った。
「きっと、俺や桐山にはそういうところが、足りないんだろうな…」
川田は無骨な手で、深いオリーブグリーンのタオルハンカチを差し出した。「だからこそ、お姉ちゃんに、救いを求めてたのかもしれない」
深いため息をつき、川田は一度言葉を切ってから、言った。
「それでもあんまり気に病むな。…お姉ちゃんが、あいつのすべてをどうにかしてやれるわけじゃない。荷が重過ぎる。そんな義理も無い。あいつの一方的な気持ちの押し付けに付き合ってやることもない」
「でも…」
「…かわいい顔がだいなしだぜ。泣きたいときには、泣けばいいと思うがな」
なおも反論しそうになって、しかし典子は黙った。自分がいったい彼に何をしてあげられるというのだろう。
…どうやって、彼の孤独を癒してやれるというのだろう。
彼の抱える果てしない闇を、どうやって埋められるというのだろう。
桐山は、置いて行かれた子どものように見えた。川田が言ったように、「そう」生まれたときから、誰にも愛されないまま、冷たい場所でただひとり佇んでいる。あの冷たい瞳が訴えかけているような気がした。何も教えてもらえず、何もわからないまま。「空虚」なまま。
ほんとうに、誰も救えないままなのだろうか。だとしたら桐山はいつまでも、何もわからず冷たい闇の中で、置き去りにされたままなのだろうか。
いつのまにか典子は桐山のことばかり考えていた。
つづく
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