やわらかな傷跡

柔らかな傷跡。
私の頬に残って。
決して消える事のない。

柔らかな痛み。
彼が私に遺した痛み。
それは彼が感じた痛みの、
数百分の一にも満たないのだろうけれど。

私の中の彼の記憶と共に。
決して、消えない。





「中川」
中川典子は聞き慣れぬ声に名前を呼ばれ、少し驚いて振り向いた。
そうして、ちょっとだけ表情を堅くする。

「…何?桐山くん」

「彼」に名前を呼ばれたのは、それが初めてだった。
目の前に居る彼―黒い学生服に身を包んだ男子生徒。

桐山和雄。

「落としたよ」
桐山は凛とした声で言葉を紡ぎ、切り取られたルーズリーフの一枚をすっと
典子の方に差し出した。

形良く整った眉に、凛々しい目元。すっと通った鼻筋。
上品な薄めの唇。
それらが芸術的な配置で、降りたての雪の様に白い顔に収まっている。

氷の刃物の様に研ぎ澄まされた鋭い眼光が、刺す様に相手を射抜く。
冷え切ったその目からは温かな感情を窺い知る事は到底叶わない。
軽く肩に届く長さの、艶やかな漆黒の髪を、中学生に不相応な
オールバックにしている事も手伝ってか、彼は人を寄せ付けない
冷たい威圧感を放っていた。
「あ、ありがとう...」
典子はぎこちなくそう言って、桐山から紙を受け取った。
比較的気軽に男子と話す事が出来る方の典子にとっても、彼は異次元の人の様に思えた。
彼の一言一句、一挙手一投足に付き纏う、不思議な違和感。
まるで彼は彼の周りだけに、他の介入を許さない、見えないベールを纏っているかのような
掴み所の無さがあった。

そこで桐山が典子に疑問を投げかける事がなければ、きっともう典子と桐山が話す事は無か
っただろう。
それ位二人は、お互い遠い場所で過ごしていた。
決して結びつく筈の無い場所で。

桐山はその場を去ろうとした典子に、凛と響く声で尋ねた。
「中川の考えた詩か?」
「―え?」
典子は少し驚いて、桐山を振り返った。

彼が自分を「中川」と呼ぶ事は当然だ。用があったのだから。
けれど、奇妙な気恥ずかしさを感じるのはどうしてだろう。
いや、それよりも―。
典子は見る見る顔を真っ赤に染めた。
「もしかして…見た?」
桐山はこくりと頷いた。
―どうしよう。
典子の手に力が篭められ、持っていた紙が握りしめられて小さく音を立てた。

前の時間は自習だった。
特にする事が無かった典子は、ルーズリーフの一枚に詩を書き綴っていたのだ。
少し前に読んだ話を思い浮かべながら、言葉を紙に並べた。

どうか生きて

喋って

考えて

行動して

時々音楽を聴いたり

絵を見たりして
感動して
よく笑って
たまには涙も流して

もし、すてきな女の子を見つけたら

そのこを口説いて
愛をかわして
きっとそれでこそ

あたしの好きだったあなただと思う

我ながら恥ずかしいものを書いてしまったと、出来上がった直後に思った。
しかしそれをすぐに捨てる気にもなれず、ノートに挟んでおいて家でもう一度
見てから捨てようと思ったのだ。
それが、うっかり手を滑らせて―落としてしまった。
まさか桐山に拾われるとは思わなかった。
しかも、読まれてしまっただなんて。
「中川の考えた詩か?」
典子の動揺など全く気にも留めぬ様子でもう一度桐山は尋ねた。
「う、うん」
すごく恥ずかしかった。
桐山は、笑うだろうか。
自分でも恥ずかしくなってしまうほどの詩。
他人の目からは更に滑稽な物に映ってしまうだろう。

しかし典子の予想に反して、桐山が笑う事はなかった。
相変わらずの美しい、それでいて冷たい視線をじっと典子に向けていた。
暫くして、言った。
「悪くないんじゃないか?」

「―え?」
「悪くない詩だと、思う」
桐山は淡々とした口調で言った。
桐山の口から褒め言葉を聞けるなど予想だにしていなかった典子は、
また顔を紅くした。
「あ、ありがとう…」
「俺には出来ない事かも知れない」
典子が少しどもりながら言うのを遮って、桐山は呟いた。
驚いて自分を見詰める典子に、桐山は淡々とした声で言った。
「分からないんだ。どうすればそんな事が出来るのか」
「分からない?」
桐山は、頷いた。
「どうしたら笑ったり泣いたり出来る?」
突拍子もない質問に、典子はその時ただ目を丸くする事しか出来なかった。
初めて話す相手に訊く事でもない、と思うのだけれど。
どうしたら笑ったり泣いたり出来る?
桐山はそう言った。
そう言えば桐山が笑って居る所を、典子は一度も見た事が無かった。
桐山くんは笑ったり泣いたりができないー?
典子は桐山を見詰めた。
何時の間にか、桐山から威圧感が消えていた。
どこまでも無垢であどけない、何も知らない瞳が、典子に向けられていた。
純粋に知識を吸収したがっている幼子の様な。
典子は戸惑った。
さっき少しだけ触れた彼の手が、温かかった事。
そんな当たり前の事に驚いている自分が居た。


目の前に居る桐山は、自分に答えを求めていた。
他の誰でもない、自分に。
典子は少し深呼吸してから、声を出した。
「楽しいって思ったら、自然に顔に出ない?」

桐山は典子の言葉に僅かに眉を持ち上げた。
典子は続けた。
「そう、例えばー、沼井くんたちといる時の事、想像してみて。
沼井くんたちと居るのは、楽しいでしょ?」

典子なりに考えた答え。
桐山は典子の方をじっと見詰めていた。
真剣に、聞いている様だった。

しかし少しの間の後、桐山が返した言葉は先程と同じ。
「わからない」

そう言った桐山は、相変わらず表情を変えなかったが、少し困っている様に見えた。
典子は多少返事に窮したが、すぐに笑顔に戻って、言った。
「楽しいとか悲しいとか、そう言う事。
桐山くんはきっと無意識に押し込んじゃってるだけだと思うわ。」
「...そうなのかな」
桐山は首を傾げた。

いつか、桐山は威圧的で怖いと、誰かが話していた事があった。
確かに桐山には近寄り難い雰囲気があった。さっきまでは。
けれどこうして話してみて、典子の中の桐山の印象は大分違ったものとなった。
桐山は自分の感情を表現するのが苦手なだけなのだ、と。
典子はそう解釈した。
―思ったより、全然怖くない人なんだわ、桐山くん。
それを知る事が出来て、何だか嬉しかった。

「自然に出るものなのか...まだ良くわからないが、試す価値は、あるな」
桐山はちょっと眉を顰めながら、そう独り言の様に呟いた。
妙に真面目ぶった桐山の物言いがおかしくて、思わず典子は笑みを零す。
「…どうした?」
「ううん。何でも」
―私はこんなに簡単に笑えるのに。
何でも出来る様に見える桐山がこんな事で悩んでいるのが、なんだか奇妙な感じがした。
いや、悩みなんて案外そんなものなのかもしれない。
典子はまた首を傾げている桐山に、優しく言った。
「きっと出来るよ、ね?」

桐山はじっと典子を見詰めた。
見詰められている方が照れてしまう程に、真っ直ぐに。
まるで典子の顔の動作一つ一つをしっかり記憶に焼き付けておきたいとでも言う様に。

やがて桐山は静かな声で答えた。
「ああ、やってみるよ」

典子は笑顔で頷いて見せた。

桐山は座席に戻り、典子はルーズリーフを鞄にしまった。
典子は家に帰ってもこの詩を捨てないで取っておこうと思った。
桐山が悪くないと言ってくれたこの詩を。

その日の夜。
桐山和雄は自室の大きな姿見の前に腰を下ろし、じっと映り込んだ自分の姿を
見詰めていた。
見慣れた顔。
自分にはこの表情しかない。
それが周囲とは違うと言う事に気付き始めたのはいつ頃からだったろうか。

先程、典子に言われた通り、
「楽しい」と思われる事を考えてみたのだ。
自分で「楽しい」とは思わなかったのだけれど。
充たちは「楽しい」と言っていたから、きっと「楽しい」事なのだと。
そう思った事。

例えば―。

充たちと町外れの酒屋の倉庫に盗みに入った事。
「こういうのってスリルがあってわくわくしない?桐山くん」
軽く片目を閉じて笑った月岡。
「ここの酒、すげえ美味いんだぜ」
いたずらっぽく笑って言った笹川。
「…やっぱ美味え…」
初めこそ怯えきった様子だったものの、全てが終わって、各々戦利品の酒を飲んで居た時、
やっと安堵の笑顔を見せた黒長。
「ボス、ありがとな。ボスの計画通りにやったお陰だよ」
酔いが回って来たのか、ほんの少しだけ頬を紅くしながら笑った、充の子供の様な顔。

皆、笑っていた。
自分だけが、笑っていなかった。

その時の記憶を、まるでついさっき起こった出来事の様に反芻したにも関わらず。
自分の表情には微塵の変化も訪れなかったのだ。
帰って来て、何度かこの鏡の前で同じ様な事をやってみたが、結果は同じだった。
―楽しいと思った時。
自然に笑顔になるのではなかったかな。
桐山は首を捻った。
それではやはり違うのだ。
自分は「楽しい」と思っていない。
けれど、「楽しくない」とも思っていないのではないか?
楽しくなかったのなら、自分は充たちについては行かなかった筈だ。

…どちらでも、よかった。
ただ、何もせずにいるよりは、充たちの勧める事をやってみる事で、何か得られる事があるのでは
ないかと、そう思って。
いつも何かを求めていた。
何かを知りたいと思って居た。
自分には理解できない何か。
「笑う」と言う行為はそのわからない「何か」のひとつだった。

ただそれについて不思議と誰かに尋ねる気が起きなかったのだ。
父親にも、充達にも。
尋ねても分からない事なのだと思って居た。
父親の顔は年に数回見る程度でうろ覚えだが、充たちはころころと良く表情を変えていた。
それはきっとどこかで習ってくる事なのだと思った。
出来ない自分はきっと「習う」機会を逃してしまったのだと。

どうして今頃になって彼女―中川典子に訊こうと思ったのか。
桐山は自分の行動に疑問を覚えた。

落ちた紙を拾ったついで。
いや、以前から話してみたいと思って居たような気がする。
何故だったのか。
自分でも、良く分からなかった。

ただ、典子の笑っている顔がよく目に付いた。
それだけは言える事。

話してみて良かったと思う。

彼女の話はなかなか興味深いものだった。
自分にその何かを掴むきっかけを与えてくれた様に感じた。
楽しい、と感じると笑顔になる。
鏡には、相変わらずの無表情の顔が映っていた。

「きっと出来るよ、桐山くん」
典子の顔を思い出してみた。
優しく微笑んだ典子の顔を。

顔の力を緩めてみた。
少しだけ、
柔らかくなった様に感じる自分の表情。

「これが自然に出来たら、いいんだな」

簡単な様で難しい事だなと思った。
もし、これが出来たなら。
自分の中の何かが変わるのかもしれないと。
何の根拠も無く桐山は考えた。

桐山和雄はそれから生まれて初めて、「笑顔になる」努力を始めた。
自分に出来ない事を。
出来る様になりたいと。

桐山にとって、それは初めて得た「希望」だったのかもしれない。


つづく