やわらかな傷跡

笑う事

楽しい事

泣く事

悲しい事

どちらか一方では成り立たないのだという



―どうしてだろう。
今まで自分に出来ない事なんて無かった。

物心ついた時から様々な教育を受けて来た。
正しい一つの答えを教え込まれた。
間違った答えを選んだ事はない。
自分は正しい答えしか教えられていなかったから。
「正しい」と教え込まれた答え。
自分はそれ以外の答えを知らなかった。

運動にしても、勉強にしても。
やり方を習ってしまえば出来ない事は無かった。
それなのに。
どうして、自分は笑う事が出来ないのだろうか。

桐山は典子の顔を思い出した。
何度も、何度も。
「きっと、出来るよ」
典子はそう言っていた。

出来なかった。
何度やってみても。
正しい答え。
模範解答は中川の笑顔。
あの顔が自然に出来る様に。

出来る様に、なるまで。
典子の顔を見ていようと桐山は思った。
模範解答を典子に求めた理由はわからなかった。
いつものように、「そうしてみようと思った」それだけの事だった。
少なくとも桐山はそう認識していた。

登校すると、桐山はいつもの様に典子の方へと視線を走らせた。
模範解答。
典子の笑顔を求めて。

だが今日はいつもと違った。
桐山はほんの少し驚いた様に眉を持ち上げた。

典子は笑ってはいなかった。

表情が無いというわけでもない。
ああ、あれは。
「悲しい」時の顔。
涙を流す前の状態。
知識では知っていた。
桐山自身はそんな顔をした事はなかったが。

いつも笑っていた典子が。
俯いて自分の机に座ったまま。
いつもは他の女子や男子に混じって笑っているのに。
今日は。

一日中見ていた。
典子は笑わなかった。
ずっと沈んだ表情のまま。
気にかかった。
典子が笑わない理由が知りたかった。

終礼が終わり、典子が一人で席を立ったのを、桐山は追いかけた。
両隣の充や笹川が何事か言っていたが、ほとんど耳に入らなかった。

まっすぐ家に帰る気も、充達といつもの様に繁華街に繰り出す気も起こらなかった。

桐山の頭の中には典子の事しか無かった。

典子は早足で教室から遠ざかった。
下駄箱に向かう訳では無いようだ。
桐山は黙ってそれを追った。
全力で走ればすぐに追いつけたのだが、そこまで急ぐ必要もないと判断した。


「中川」
やっと追いつき、後姿に声をかける。
典子は驚いた様に一瞬身体を震わせてから、振り向いた。
その典子の顔を見て、桐山は少し眉を持ち上げた。
泣きそうな顔をしていた典子は。

泣いていた。
大きな瞳から透明な雫が伝っていた。

典子ははっとした様に瞬きをした。

「ご、ごめん。あたし…」

慌てた様に左手を頬に当てる。
しかし涙は止まる事無く流れ続けた。

典子は再び背を向けた。
「あたし、帰る…ね」

消え入りそうな声でそう言い、歩き出した。
桐山はそんな典子を少しの間、目を瞬かせて見ていたが、
典子が去って行こうとしているのに気付き、呼び止めた。

「待ってくれ」
典子がびくっと震えた。
足を止めた。
しかし此方を振り向く事はしない。
桐山はそれに構わず、言葉を紡いだ。
「教えてくれないか」

「え?」
やっと典子が振り向いた。
相変わらずその頬は涙で濡れていた。
桐山は続けた。

「笑えなかった。俺は」

桐山のその言葉に、典子が僅かに驚いた様な表情を作る。
桐山は全く表情を変えないまま、そんな典子に問い掛けた。
「だが泣く事は出来るかも知れない。どうしたら、泣ける?」

以前典子は笑う方法を教えてくれた。
けれど、泣く方法は教えてくれなかった。
それについても尋ねてみたいと桐山は思って居た。

典子は暫く黙っていた。
桐山をじっと見詰めた。
桐山も黙って、そんな典子を見詰めた。

「泣きたいって人はいないよ、桐山くん」
典子が先に沈黙を破り、そう言った。
桐山はそれに屈する事無く言った。
「俺は泣いてみたい」

典子はまた少し驚いた様だった。
しかし桐山の目が真剣なのを悟ったようで、静かな声で言った。
「笑うのと、基本的には同じかも、知れないね」
桐山は目を丸くした。
「悲しくなったら自然に…涙が出るんだもの」

そこまで言って、典子は俯いた。
悲しくなったら。
悲しい、事。
悲しいと思った経験の無い桐山は少し戸惑ったが。
やがて記憶の中から「悲しい」と思われる記憶―だいぶ以前、充に「泣けるから」と誘われて観に行った映画のラストシーンを探り当て、念入りに思い出してみた。
しかしやはり表情が動く気配はない。

それならば、笑顔を真似たように涙を流す事は?
やってみた。
しかし両の目は乾いたまま。

笑顔を真似る事は出来たのに。

典子の真似をして、涙を流す事は出来なかった。
「…これも…無理なのか」
桐山は静かな声で呟いた。
聴きようにによっては、どこか悲しげな声にも聴こえる声。
どこか落胆したような。
桐山は「がっかりする」という感情すら持てなかったのだけれど。

典子がその時、弱々しい声で言った。
「泣かなくたって、いいじゃない」

桐山は首を捻った。
「何故だ?」
「泣いていいことなんて、なんにもないよ、桐山くん」
典子は少し紅く目元を腫らしていた。
「格好悪いでしょう?…あたし」
そう言って、典子は桐山を見上げた。
典子の顔は涙で汚れていた。
赤く腫れた目元。
普通だったら、こんな顔を「格好悪い」と形容するのだろうか。
桐山はそんな典子の顔を静かに見つめながら、考えた。
やがて、首を振った。
「分からない。俺には」
「―え?」
虚をつかれたように典子はまた瞬きをした。
桐山の表情は相変わらず静かだった。

「自然に笑う事も、泣く事も出来なかった。俺は」
その声も、いつもと変わらない。
「きっと俺は両方知らない。楽しいという気持ちも。悲しいという気持ちも」
平坦で、何の感情も篭もらない。少し冷たい声。
「知らないのなら、分からない。中川が格好悪いのか、そうでないのか」
しかしどこか哀しそうな、声で。
「だから俺は知りたい。両方の気持ちを」
桐山は言葉を紡いだ。
典子を真っ直ぐ見詰めながら。
「どうして中川は、悲しいと思ったんだ?」


二人は図書室に居た。
放課後の図書室には人もまばら。
典子が腰を降ろした、その向かい側に桐山は座った。
典子の目元は既に乾いていた。

典子は少し虚ろな目をしていた。
やがて口を開いた。

「桐山くん、好きな人、いる?」
「いや」
桐山は即答した。
典子はそれで少し言葉に詰まったようだ。
黙り込んでしまった。


「中川には居るのかい?」
おっとりとした調子で桐山が問いかけた。
典子は僅かに頷いた。
また悲しそうな顔をしていた。

「でも、その人にはね…好きなひと、いるの。すごく、素敵なひとよ」
どこか苦しそうな表情にも見えた。
「あたしなんかじゃ勝てないって…わかってるんだ」

それだけ言って俯いた。
桐山は黙って、そんな典子を見詰めた。
そんな事で、ずっと悲しんでいたのだろうか。
人を好きになった事の無い自分には良く分からないけれど。
それに―。
桐山は頭に浮かんだもうひとつの疑問を、少しの間の後、口に出した。

「なぜそう思うんだ?」
「え?」
典子がはっとしたように顔を上げた。
「どうして勝てないと思うんだ?」
「だって、それは…」
再び俯く。
ひどく辛そうな顔をして。

しかし桐山は言葉を切る事はしなかった。
「俺には中川が素敵だというやつがどんなやつなのかはわからない。だが」
そこでやっと一呼吸おいて、言った。
「そいつが素敵で、中川が素敵じゃない理由も分からない」

典子がその大きな瞳を更に大きくするのがわかった。
桐山はひとしきり話し終えると、また黙った。
彼には慰めるつもりなんて無かった。

素敵かそうでないか。
どうやって決めるのか桐山にはわからなかった。
だから。
ただ、思った事を口に出しただけ。
それだけ。
それだけなのに。

「…ありがとう」
典子は笑顔になった。
泣きはらした目を細めて、笑った。
桐山はそれで少し驚いた。

「何故だ?」
「え?」
「俺は何か楽しい事を言ったのかな?」
浮かんだ疑問をそのまま口に出すと、典子は目を丸くした。
桐山の質問の意味が飲み込めて居ない様だ。

「笑って、いる」
桐山は典子の顔を指差して言った。
「楽しいと思ったら自然に顔に出る。以前中川はそう言った」

それでまた典子は僅かに驚いた様に目を見張り―しかしすぐに笑顔になって、言った。
「違うよ。嬉しいの」
「嬉しい?」
不思議そうに首を捻る桐山に、典子は優しい声で言った。
「桐山くんが言ってくれた事、すごく嬉しかった。ありがとう」

桐山は瞬きをした。
「嬉しい…そう思った時も、笑えるものなのか」
典子は頷いた。
「桐山くん、嬉しいって思った事は?」
「…わからない」
桐山はまた典子に問い掛けた。
「中川はどう言う時に嬉しいと思うんだ?」

典子はそんな桐山の問いに、少し困った様に視線を泳がせた。
「うーん…」
桐山は相変わらず真剣に典子を見詰めていた。
「そんなに難しく考える事じゃないと思うんだけど…」

典子はやがて、桐山をまっすぐ見て、言った。
「すごく些細な事だと思う。嬉しい事も。悲しい事も。楽しい事も」
桐山はそんな典子の言葉にまたちょっと驚いた様な表情を作った。
「ちょっとした事で嬉しかったり、悲しくなったりする。具体的に言うのは、難しいわ」
「…そうか」

桐山はそっと視線を伏せた。
「では俺は、周りでそんな事がたくさん起こっているのに、何も感じていないのかもしれないな」
桐山の声は変わらない。
しかしまたどこか寂しそうな顔をしていた。
典子はそれで少し慌てた様に言った。
「桐山くん、きっと気がついていないだけよ」
桐山は伏せていた視線をそっと持ち上げ、典子を見た。
「…そうかな?」
「何も感じられない人なんて居る訳、ないもの」
典子は少し悲しげな顔をしていた。

桐山はそんな典子を黙って見詰め、そうして。静かに頷いた。



静まり返った図書室。
桐山はがたんと椅子を引いて立ち上がった。
「もう、帰るの?」
「あぁ」
窓から赤い光が零れ始めていた。
下校時刻が迫っている。

「またね、桐山くん」
桐山がそう言われてゆっくりと振り向くと、そこには典子の笑顔があった。
紅い夕陽に照らされた典子の笑顔。
もうほとんど涙を流した跡は見られなかった。

「中川」
「―え?」
「この前、中川の書いた詩を読んで、考えた事がある」
典子はその桐山の言葉にほんの少し頬を紅く染めた。
しかし夕陽の色の所為で、桐山はそんな典子の僅かな変化を知る事は出来なかったのだが。

「前半に書かれていた事は、やった事がある。俺も」

どうか生きて

生きている。

喋って

話している。

考えて

考えている。

行動して

行動している。

時々音楽を聴いたり

聴いている。

絵を見たりして

見ている。

それは、出来る事。
「だが後半は出来た試しがない。あれから幾らやってみようとしても無理だった」

感動して

よく笑って

たまには涙も流して


それは、出来ない事。
「出来る様になりたかった。俺は。」
桐山は典子をじっと見詰めた。
「最後に書かれた事は、まだ試していないが」
桐山の漆黒の瞳が、僅かに揺れていた。
「いつか出来る様になりたいと、思う」

虚をつかれたように黙っている典子に、桐山は背を向けた。
「もう少し、やってみるよ」
そう言い残して、
桐山は図書室のドアの向こうへと歩いて言った。
後には夕陽の所為でなく頬を紅く染めた典子が残された。

静まり返った放課後の廊下。
桐山の足音だけが響いた。

―また、新たな知識を得る事が出来た。
中川が、教えてくれた。
ほんの些細な出来事でも。
嬉しくも悲しくもなるのだと。



典子の詩の最後に書かれていた一節。


もし、すてきな女の子を見つけたら

そのこを口説いて
愛をかわして
きっとそれでこそ

あたしの好きだったあなただと思う


分からない事。
知りたい、事。

どうやったら、俺は。

知りたい。
人を好きになると言う事も。

中川の様に人を好きになってみたい。
例え中川の様に涙を流す事になっても。

あの詩に書かれていたこと。
出来るようになりたい。

何かを変えたい。
俺の中の、何かを。


つづく