コインを投げないで決めたのは、どうしてなのだろう。
それもまた、どちらでもよかったこと。
桐山和雄はまだ発車していないバスの窓の外に視線を向けた。
夜の街は静かで、ぽつぽつと灯った明かりが目についた。
この街―城岩にやって来てからまだ三年と経っていない。
小学生時代のことは良く覚えていない。
ただ、今よりも更に学校に行っていなかった。
教育は家で主に行われたから。
桐山は大企業を経営しながらも実子に恵まれなかった父親が集めた、多くの養子候補のひとりに過ぎなかった。
それが幼いうちに行われたいくつかの選別試験に合格して、結果最後のひとりに
選ばれて、父の経営する会社のある香川の家に住むことになった。
それを望んだわけではない。物心ついたときから「そうしろ」と命じられて、
育てられてきた。
自分が本当はどこで生まれて、本当の親がどうしているのか、桐山は誰にも教えてもらえなかった。
ただ周りの大人の言うがままに勉強し、体術も習った。
今の父親の期待に背いた事も無い。
教わった通りに行動していればそれでよかった。
そんな自分が「普通」とは違う事を意識し始めたのはいつ頃からだっただろうか。
左隣りに目をやる。座席二つ分空けて、笹川竜平が座っていた。その隣りには沼井充がいた。
すぐ傍には月岡彰、それに黒長博もいる。
彼らは、桐山が「修学旅行に行く」と提案したのに従った。もっとも、桐山が彼らに強いたわけではない。
充が「ボスが行くなら、もちろん俺も行く。お前らもだぞ」と言って、他の三人を説得したのだ。
充は自分を「すごいやつだ」と言う。
頼まれて、自分の名を出して万引きで捕まった弟を助けてやった時(警察でも、桐山財閥の名を出しただけでたいていの刑事は顔を真っ青にして桐山のご機嫌を窺うくらい、桐山財閥の力は強大になっていた)笹川は涙を流して感謝してきた。
黒長は、頼みもしないのに進んで桐山に差し入れを持ってきた。なぜかと尋ねれば、自分を尊敬しているのだという。
桐山は周りが言うほど、自分が「すごい」とは思えなかった。
そのようにして今まで暮らしてきた。「できないことがある」のは、家では許されなかった。
桐山はふと、席の前方に目をやった。
そこには女子主流派の内海幸枝たちが、担任の林田を囲んで集まっていた。何が楽しいのか良く笑っていたが、ここからはどんな内容の話をしているのか、よく聞き取れない。
そのうち何だか、何かが足らないような気がして、桐山は眉を寄せた。
すぐにその理由はわかった。
ー中川が、いない。
中川典子。彼女が勧めたからー今自分はこうして、ここに来ている。
彼女に興味を持つようになったきっかけは、ごくささいなものだった。
あの時、彼女の詩を目にする事がなければ、ただのクラスメイトとして、
ろくに言葉を交わす事も無く、顔と名前すら曖昧なまま、やがて別れてゆく、そんな程度の関係で終わっていただろう。
「どうか生きて」
その言葉が不思議と頭から離れなかった。
彼女の書いた詩の中に、あった言葉だ。
彼女に、ずっと胸の中でくすぶっていた疑問を投げかけてみた。
「どうしたら、笑ったり泣いたり出来るのか」ということ。
彼女は答えをくれた。
ー楽しいときは自然に笑顔になり、哀しい時には自然に涙が出ると。
「楽しい」と思われる事。
いろいろとやってみた。…しかし何も変わりはしなかった。
「悲しい」と思われること。
今のところ、そうしたことに巡りあいそうになかった。
彼女の意見を、もう少し聞きたいと思った。
彼女の言葉は新鮮だった。家の者や、充たちとも、全く異なっている。
桐山からすればー「すごい」のは彼女だった。
「楽しいことなら、なるべく経験した方がいいんじゃないかしら」
彼女はそういった。ーしかし。桐山には「楽しい」ことがどんなことであるか、
いまだに、よくわからなかった。
彼女が教えてくれると、思ったのだが。
集合時間は既に過ぎていた。
「ボス、どうかしたのか」
「…いや」
しきりに時計を気にする桐山に気づいてか、充が声をかけてきた。
それに軽くかぶりを振って答えた。
バスが発車するのも、もう間もなくのことだろう。
桐山はそこで、もう一度窓の方に視線を向けー目を細めた。
セーラー服の女生徒がひとり、ひどく慌てた様子で、こちらに駆け寄ってくるのが見えた。
典子だった。
バスは城岩を抜け、高松市街に出たようだ。
流れてゆく風景は、まだまだ見慣れぬもの。
充たちは何かの話で盛り上がっているようだったが、加わることはしなかった。
ーそういえば、クラスで行われる、このような旅行に参加したのは初めてだったような気がする。
クラスメイトたちは皆一様に楽しそうな(推測だが)様子だった。出発したのが夜だから、目的地に着くまで、
車中で一泊することになる。まだまだ時間はたっぷりあった。
桐山は窓から、席の前方に目をやった。内海たちのグループの中に典子の姿はなく、
少し探すと、そこから少し離れた場所に座っていた。
傍に居るのは、七原秋也と国信慶時であるらしかった。
そう言えば、典子は良く七原秋也と一緒に居るような気がした。
いつも、というわけではないが、気がつくと、二人で居るところが目につく。
七原の傍にいる時、典子はいつも幸せそうに(おそらく)微笑んでいた。
その笑顔は、自分に見せる笑顔とはーまた違っているように、思えた。
ああ、中川は、こんな顔もするのか。
桐山は興味深く思った。
以前に典子が言っていた、「嬉しい」気持ちの時の顔かもしれない。
どこからか、甘い香りがしてきた。
誰かが持って来た菓子だろうか。
夕食は済ませて来たので空腹の状態ではなかったが、何となく、気になった。
バスは間もなく瀬戸大橋に到達するだろう。
修学旅行。一体、どのようなものなのだろう。
どういうことが「楽しい」のだろう。
それは目的地について、実際に体験するうちにーわかるはずだった。
こういう経験をしてみるのも、悪くない。
何だか、急に体の力が抜けてきたような気がした。
眠気がこみ上げる。その感覚は、どこか不自然で、前触れもないものだった。
前夜、睡眠は十分にとった。通常なら家で起きているはずの時間。
こんなに眠くなるのはーおかしい。
何とか首を動かして、隣りの笹川を見ると、彼は脱色した金の髪を揺らして、すっかりまどろんでいた。
他の生徒も同様だった。…いったい何が。
桐山はしかしー無理にその眠気に抗うことはしなかった。
…どちらでも、良かった。
これからいったい、何が起ころうとも。
つづく
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