すっかり肌寒くなった十二月のある夜。
桐山和雄は一人に与えられるには広すぎる部屋にぽつりと置かれたベッドに横たわっていた。
完全に照明を消した部屋には暗闇だけが広がり、目を開けていても閉じていてもさして変わらない。
桐山は、重くなって来た瞼を閉じた。
やがて、ゆっくりと意識も閉じられていった。
夢を見た。
暗闇の中、桐山はひとりきりでいた。
そこは、温かい。
どくんどくんという、規則正しい音。
―鼓動が。
どこからか聞こえて来ていた。
自分のものではない、鼓動が。
その音を聴いている時の気持ちに名前をつけるならば、きっとそれは。
「安らぎ」と言えるもの。
桐山は膝を抱いて、ただその安らぎに身を任せていた。
がしゃん。
何かが、割れる音が聴こえた。
それと前後して、いくつもの冷たい、鋭い破片が、桐山の居る所に飛び込んで来た。
安心できるはずの、その場所に。
鼓動が、何時の間にか聴こえなくなった。
その時感じたのは、
きっと恐怖、不安。
けれど、それは。
桐山が抱いた、最初で最後の感情。
本能的に身を守ろうと身体を丸めた、桐山の左こめかみに、
ずぶりと、破片の一つが食い込んだ。
それは、深層心理に刻まれた記憶だった。
桐山和雄から、母親と、彼自身の「感情」が奪われた記憶。
桐山は、そこで目を覚ました。
身体を起こし、ベッドサイドに置かれた時計に視線を向ける。
午前三時。
さっき、二時に目が覚めて、もう一度眠ったばかりなのに。
どうして、あの夢ばかり、見るのだろうか。
こめかみに疼きを感じ、桐山はそっとそこに手を触れた。
眠れない夜が続く。
ほんの幼い頃から、いつもこの時期になると。
年に数回訪れる、こめかみの疼き。
充に会うまでは、その大部分がこの時期に起こっていた。
ほんの少し上がっている心拍数。
桐山はもう一度、目を閉じた。
眠れない理由を考えても、わからない。
また目が覚めてしまうとわかっていても。
いずれ、朝はやって来るのだから。
朝になれば。
朝になれば―。
朝。
桐山は、一週間振りに三年B組のドアを開いた。
「ボス、おはよう!」
教室に入るとすぐに、元気な声に迎えられた。
「おはよう」
声の持ち主は、沼井充。
充は、軽くはにかんで、「最近休んでたから、心配してたんだぜ」と桐山に言った。
桐山は静かに頷いてみせ、それから少しだけ眉を持ち上げて「充、その怪我は」と訊く。
充の左頬には青黒い痣があり、右手には包帯が巻かれていた。
「あ、これ?何かさ、近所の高校のやつらとちょっと...」
充は少し決まり悪そうに言葉を濁し、それから無表情の桐山に向かって、言った。
「やっぱボスがいないと...駄目みたいでさ」
「...。」
充は滅多に桐山に頼る事はない。
余程強い相手でなければ、充や笹川、黒長の三人で倒してしまう。
月岡はたまにしか喧嘩には参加しないが。
「ボスが俺の後ろに居てくれるだけで、ちゃんと戦えるから」
桐山には充のその言葉がよく理解出来なかった。
自分が居るだけで戦える?
何故?
...わからない。
ただ、そう言われた時。
こめかみが疼いた。
年に数度訪れるだけだった疼きが。
充と居ると―。
「ボス?」
こめかみに手を触れ、俯いた自分を、何時の間にか充が心配そうに見ていた。
「...充」
桐山はすっと左手を充の頬に当てた。
「あまり、無理はするな」
充はそんな桐山の行動に、少し戸惑った様で。
少しだけ頬を紅くしながら。
「ああ、わかってるよ。ボス」
照れくさそうにそう言った。
桐山は頷いた。
一時間目の授業が始まった。
授業を聞かないのは、いつもの事。
いつもは授業に関係無い、色々な事を考えている。
けれど、今日は。
上手く頭が働かなかった。
意識がぼんやりとして来た。
無理も無かった。
この所、ろくに眠れて居ない。
一時間目が終わるとすぐに、桐山は教室を出て行った。
充が慌てて追いかけて来た。
「あれボス、サボるの?じゃあ俺も―」
「充」
桐山は充を振り返り、その独特の威圧感を持った声で、言った。
「俺はもう帰るよ」
それだけ言うと、桐山は充に背を向けて歩き出した。
少しの間。
充は呆然とした様子で立ち尽くしていた。
充からすれば、やっと桐山に会えて喜んで居た所を突然突き放された様なものだっただろう。
桐山は自分の行動ひとつで、どれだけ充がたやすく傷ついてしまうかを知らなかった。
知ることが、出来なかった。
「待ってよ、ボス!」
充が追いついて来た。
桐山は、ゆっくりと振り返った。
「何だ?」
冷たい声で充に訊く。
けれど、決して桐山は充をうっとうしく思っている訳ではなかった。
そんな声しか、出せない。それだけの事だった。
「何かあった?俺、気に障る事した?ボス」
まるで母親に置き去りにされた子供のように、不安そうな顔で。
充は桐山を見つめていた。
桐山はそんな充の様子に、ほんの少しだけ眉を持ち上げる。
どうしてそんな顔をするのだろうか。
―わからない。
桐山は充をじっと見つめた。
充の顔が少しこわばるのがわかった。
「いや、少し疲れているだけだ」
桐山はそう淡々と充に言った。
充は、少しだけほっとした様な顔をした。
しかし、またすぐに心配そうな顔に戻って、
「...どっか悪いのか、ボス」
そう、桐山に訊いた。
桐山は、少し目を伏せた。
特に感情の篭もらない声で、言った。
「眠れない」
「―え?」
桐山の答えが意外だったのか、充は少し驚いた様に瞬きをして、桐山を見た。
桐山は続けた。「毎年、誕生日が近づく、この時期になると、眠れなくなるんだ。
理由が、わからない」
桐山は無表情で充を見ていた。
充は、驚いた様な顔を崩さなかった。
「誕生日、いつなの?ボス」
「十二月二十五日」
「ボス…クリスマスに生まれたんだ」
「ああ」
充は少し考え込む様にした。
思いついた様に、言った。
「じゃあさ、俺のうちで何かやらねえ?大した事、できないけどさ」
桐山は少し驚いた様に眉を持ち上げた。
「充の家でか」
「うん。せっかくだしさ、って、あ、ボスの家で何かやるかその日…」
残念そうにそう言う充。
そんな充を暫くの間見つめていた桐山は、静かな声で言った。
「悪くないんじゃないか」
「え?」
思わず桐山を見つめる充に、桐山は心なしか穏やかな調子で言った。
「家のパーティはイブに終わる。その後は特にする事がないから、その日は充の家に泊まってもいいかな?」
それを聞いた充の顔がぱっと明るくなった。
「もちろん」
桐山はそんな充の様子を見て、少しだけ目を細めた。
十二月二十五日。
桐山は、充の部屋に居た。
充は大きなケーキを買って来ていた。
二人で食べるには大きすぎるケーキ。
「ちゃんと十四本あるな」
きちんと立てられた十四本の蝋燭。その隣に、
サンタの砂糖菓子が窮屈そうに載っていた。
「充」
「何?」
「笹川達は呼ばなくてよかったのか?」
「ん…何となく、今日はボスと二人でいたいなって」
充は桐山から視線を外して、少し照れくさそうにそう言った。
「そうか」
桐山は深く追求する事はしなかった。
ただ、自分も。
今日は充と二人で居たい様な気がした。
どうしてかは、わからないけれど。
「食い切れなかったら残していいからな、ボス」
「ああ」
上品にケーキを口に運ぶ桐山を、充は何か言いたげに見つめていた。
「どうした、充」
その充の様子に気付いた桐山が静かに訊く。
「あの…」
「?」
「誕生日おめでとう」
何故か恥ずかしそうにそう言う充。
桐山は少しだけ、驚いた様に眉を上げて。
「ありがとう」
ぽつりとそう言った。
それからすぐに手元のケーキに視線を戻す。
充は少しだけ決まり悪そうな顔をしていた。
会話がそこで途切れてしまったので。
「ね、ねえボス」
「何だ?」
「クリスマスが誕生日って、ちょっと損だよな」
「なぜだ?」
「プレゼントとか…一緒にされちまいそうだし」
充の言葉に、桐山は首を傾げた。
「特にもらった事はないが?」
桐山は、誕生日にもクリスマスにも、プレゼントをもらった事はなかった。
父親の意向で。
使用人たちには、「不必要なものは与えるな」と。
それに、桐山は欲しいと思ったこともなかった。
だが、充にとってそれは衝撃だった様で。
充の顔から、笑みが消えた。
「ご、ごめんボス。俺変な事聞いちまって...」
「?」
桐山はまた少し不思議そうな顔をした。
桐山にはわからなかった。
当たり前の事を言っただけなのに。
なぜ充が悲しそうな顔をするのか。
ケーキの載っていた皿は、空になっていた。
それから、暫くして。
二人とも風呂に入って、くつろいでいた時。
思いついた様に充が桐山に声をかけた。
「もう寝ようか、ボス」
「ああ」
桐山がこうして充の家に泊まるのは初めての事ではない。
桐山は充を自分の家に招く事は決してなかったが。
彼自身はよく充の家に来ていた。
「それも悪くない」と。
そう思って居たから。
それに、今日。
自分から充の家に泊まりたいと言ったのは―。
桐山は布団に横たわった。
隣の充がこちらを向いて、話し掛けて来た。
「眠れないって言ってたよね、ボス」
「ああ」
「ボス最近何時に寝てる?」
「特に決めていないが、十二時は過ぎているんじゃないか」
「うーん...じゃあ夜型になってるとか...」
充は生真面目な顔をして、考え込んでいる様な様子だった。
桐山は少しだけ眉を上げた。
充は、ずっと考えてくれていたのだ。
自分が眠れない理由を。
「充」
「え?」
桐山に呼ばれると、充はすぐに顔を上げた。
少しだけ、眠そうな顔。
「もう眠ろう」
桐山は静かに言った。
「今日は疲れているから、きっと、すぐに眠れる」
充は少しの間、桐山を見ていた。
そして、言った。
「そっか…」
充はやはり、少し心配そうな顔をして。
「じゃあさ、もし眠れなかったらいつでも起こしてくれよな。そうしたら俺、ボスが眠くなるまで話してるからさ」
桐山は、また少しだけ眉を上げてから、
軽く頷いた。
「おやすみ、ボス」
「おやすみ」
充が部屋の照明を消した。
暗闇が部屋を満たした。
静かになった部屋の中、聴こえてくるのは充の規則正しい寝息だけ。
ー今日は、眠れるかもしれない。
そう、思った。
以前充の家に泊まった時も。
自分の家よりよく眠れたような気がしたから。
瞼が重くなる。
意識が霞む。
桐山は、また闇の中ひとりきりでいた。
暗闇の中で。
いつもの様にひとり膝を抱えている。
冷たい破片が、また襲って来る。
怖いとは、思わなかった。
そう思う事ができなかった。
それから逃れることも。
ただ。
何かが足りないと思った。
聴こえない。
いつものあの音が、聴こえない。
あの音を、聴きたい。
あの音を―。
桐山は目を開けた。そうして、上半身を起こした。
何も見えない。ただ、暗いだけの部屋。
さっきまで居た場所に、まだ居る様な気がした。
桐山は手を伸ばした。自分の左隣に。
ふわりと柔らかい感触。―充の、髪に触れたのだとわかった。
上がっていた心拍数が徐々に落ち着いていくのを感じる。
「ん…」
触れていた髪が桐山の指をすりぬけた。
「…ボス?」
充の声がした。
「すまない、起こしたな」
「ん?ううん?平気…」
眠そうな声が返って来た。
ふいに部屋がぱっと明るくなり、桐山は眩しさに少し目を細める。
充が、電気を点けたのだ。
「やっぱ眠れなかった?大丈夫?ボス」
充が心配そうに桐山を見つめて、言った。
そんな充に、桐山は静かに言った。
「充はもう寝た方がいい」
「でも」
「俺は大丈夫だ。いつもの事だ」
桐山は、そっと目を伏せた。
その様子はどこか寂しげだった。
「ボス」
「何だ?」
「悪い夢…見てたり、する?」
「悪い夢…?」
桐山は考えた。
あの夢の事か?
別に「悪い」とは思っていないけれど。
「暗闇の中にひとりでいて、破片に襲われる夢をよく見る」
「きっとさ、ボスは不安なんだよ」
「不安?…俺が?」
考えた事がなかった。
あの夢を見たことを誰かに話したのは、初めてだったし。
「そういう夢見てる時は、昔あった何か凄え怖い事思い出してるって、どっかで言ってた」
「トラウマというものか」
「ん、多分…きっとそれ…」
桐山は少し考える。
トラウマ。そんなものが自分にあったのだろうか。
だとすれば、あの夢を見る原因となった出来事が過去に?
それを考えると、またこめかみが疼いた。
いつもより、強い疼きだった。
「ボス」
充に呼ばれて、桐山が顔を上げる。
「何だ?充」
「なあ、こうしてたら駄目かな」
充がそっと桐山の背中に手を回した。
桐山はそんな充の行動に、少し驚いた。
「充?」
「こうしてたら、俺、昔安心してたみたいな気、するから」
桐山は暫しの間、黙っていた。
安心?
よくわからない。
けれど。
こめかみの疼きが止んでいた。
桐山は静かに言った。
「こうされたのは、初めてだよ」
桐山も、充の背に手を回した。
「…よくわからないが、何だか悪くない感じがする」
そう言って、目を閉じた。
悪くない感じだった。充にこうされているのは。
この安らぎは。
あの場所に似ている。
何もかも委ねて。
ただ安心していられた、あの頃。
自分のものではない鼓動が聴こえる。
ああ。
充は、生きているんだ。
確かめて居たかった事。
聴いて居る事で。
ひどく落ち着ける気がする。
もう、破片が来ても、眠れるだろう。
きっと。
「ボス?」
桐山が急に黙ってしまったので、充は少し心配になった。
話し掛けても桐山は返事をしなかった。
「もう寝ちゃった?」
充が桐山の顔を覗き込むと、やはり桐山は眠っていた。
伏せられた長い睫。
充を抱きしめたまま、桐山は静かに寝息を立てている。
―困ったな。
ボスが寝てる間に。
プレゼントを枕元に置いておこうと思って居たのに。
これで動いたら、起こしちまうもんな。
せっかく眠れるようになったのに。
仕方ないか。
プレゼントは明日にでも渡せる。
びっくりさせる楽しみは、なくなってしまうけれど。
充は桐山の綺麗な寝顔を見つめながら、少し胸が痛むのを感じていた。
以前から薄々気付いてはいたけれど。今日改めて、わかった事。
桐山は色々なものを与えられていない。
多分、自分が当たり前の様にして受け取って来たものを。
自分が全部、あげられるとは思っていない。
けれど。
充は自分を抱きしめて寝息を立てている桐山を優しい目で見つめた。
俺に、できる事なら何でもするから。
眠っている桐山を起こさない様に、充はそっと片手で電気を消し、布団を桐山の背中にかけて横になった。
おやすみ、ボス。
外は雪が降っている。
二十五日は終わって。
桐山が生まれてから十五年目の、最初の朝がやって来た。
おわり
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