その女性に、充は見覚えがなかった。はずだった。
ゆるく巻いた、肩までの柔らかな栗毛。切れ長の瞳。紅い唇。目も覚めるような美しいその顔には、良く知っている誰かの面影があった。 それが誰なのかを、必死で思い出そうとしていると、女性のほうが先に口を開いた。
「こんにちは、あなたが充くんね」 「は…ハイ…あ、あの」 「初めまして…かしら。私、和雄の母です」 「え…ボ、ボスのお母さん!?」 口元に優雅な笑みを滲ませ、その女性ー桐山の母、はぺこりと充に頭を下げた。 「いつも、和ちゃんがお世話になっているわね」 尊敬するボスの母親ーしかもとびきり美しいその人に頭を下げられて、充はどぎまぎとした。 「そ、そんなことないっす。お、俺こそボスにいつも…」 「私ね、和ちゃんがひとりでいないか、とても心配だったの。あのこ、どうも自分の気持ちを表に出すのが苦手な子だから…なかなかお友達が出来ないんじゃないかって」 そう言った桐山の母の顔には、僅かに悲しげな翳がさした。充はそれに慌てた。 「大丈夫っすよ。ボスはひとりなんかじゃありません!俺と、ヅキと、博と、竜平がついてますから!」 彼女の不安を払拭したくて、力強い調子で胸を叩いて見せた。桐山の母は、まぁ、と声を漏らし、口元に手を当てて驚いたような顔をしたが、すぐに華やかな微笑を浮かべた。 「ありがとう。充くん」 桐山の母は、そう言うと充の顔を覗き込み、彼の頬をそっと白い両手で包み込むと、彼女の唇を僅かに充の額に当てて、キスをした。 「な…ボ、ボスのお母さん…そんな…」 美しい年上の女性に口付けられた嬉しさと羞恥が入り混じった複雑な感情を抱きながら、充は目の前の桐山の母を潤んだ目で見つめた。 「和ちゃんのこと、お願いね。私の、たったひとりの、大切な息子なの。私の代わりに、あのこのそばにいてあげて。あのこが寂しくないように」 「え…?」 ー代わりって? 戸惑う充に、しかし母は答えを返さなかった。ただその大きな瞳を、見ていて胸がしめつけられるくらいに、切なく潤ませていた。 「ね、約束して…」 充はほとんど衝動的に、桐山の母を抱きしめていた。 「充くん…?」 「約束するっす。だから、そんな悲しい顔、しないでください。ボスのことは、俺に任せてください」 腕の中の彼女の身体は温かかったけれど、どこか頼りなげで、消えてしまいそうな気がした。冷静に考えれば、尊敬するボスの母親を抱きしめるなんて失礼なこと、許されないに決まっている。けれど、今だけは。 いつも、ボスを守るつもりがボスに助けられる事が多い自分だけれどー、それでも。 「ボスのお母さんを悲しませるようなことだけは、俺、絶対にしないですから」 「…充くん」 桐山の母はやっと笑顔に戻った。彼女は、その細い腕を充の背に回して抱き寄せた。ふくよかで柔らかな母の胸が、充の成長途上の胸板に押し付けられた。 その感触に、ほんの僅かに心拍数が上がるような気がした。 「ありがとう。あなたがいるから、私は安心して和ちゃんを見ていられるの」 母の笑顔を見ると、つい不埒なことに思考をめぐらせた自分が恥ずかしくなってしまう。敬愛するボスを産んだこの女性が、彼を「和ちゃん」と呼ぶこの女性が、今、自分の腕の中に居る女性が、神聖なものであることを充は再確認した。けれどそう考えると余計に、彼女を放したくなかった。 けれど充の意に反して、急に彼女の身体の感触が失われ始めたのだ。 ーえ? 「私の分まで、和ちゃんをお願いね。充くん。傍にはいられないけれど、私はあなたたちをずっと見ているわ」 母は今度は寂しい顔を見せなかった。最後に、彼女は再び充に口付けを落とした。ただし、今度はその唇に。
「幸せになってね」
母は満面の笑みを浮かべて言った。その言葉が、いつまでもいつまでも、頭に響いているような気がした。彼女の笑顔も。
「待って下さい!ボスのお母さん!」
充の慟哭を聞く間もなく、桐山の母の身体は、てのひらに落ちたひとひらの雪のように、儚く消え失せた。
***
自分の叫び声で目を覚ました。 放課後の屋上で、眠気に耐え切れず、本を読む桐山の傍らで居眠りしていたのが、ずいぶんと長引いてしまったようだ。 「充。どうしたっ…」 「ボ、ボス…」 涙を幾筋も幾筋も流していたことに気づき、恥ずかしくなる。ごしごしと目を擦って、充は桐山に応えた。 「何でもないっす。…ただ、夢を見ていたっす」 「夢…どんな夢だ?」 ククッ、と首を傾げつつ尋ねる桐山に、充はまだ残る悲しい夢の余韻を覚えながら、言った。 「ボスの…お母さんに、会ったんす」 「…俺の母に?」 桐山の感情を宿さない目が一瞬だけ大きく見開かれた。 「ボスのお母さん…すごく綺麗な人だったっす。ボスに似て…今、元気っすか?はは、おかしいっすよね、夢で見るなんて。会った事もないのに…」 「母は、俺が5歳の時に、交通事故で死んだ。」 桐山が淡々と返したその言葉に、充は凍りついた。 「死んだ」 その言葉がずしりと胸に重くのしかかってきて、あやうく立ちくらみを起こしそうになったくらいだった。 あの美しさの中に秘められた悲しさは、儚さは、そのせいだったのだ。桐山という14歳の息子が居るというには若すぎるその容姿も…。 「ボ、ボス、す、すみません。俺、すごく失礼なこと言っちまって…」 「気にすることはない」 そう言いながらも充は切なくて泣きそうになっていた。あの優しい笑顔に、もう会うことはかなわないというその事実が、深い絶望感となって充の心を支配した。 桐山はしばらく、そんな充を無表情で眺めていた。普通のものであれば、彼を気遣う言葉をかけたのであろうが、桐山にそのような気遣いを求めるのは酷というものであった。 しかし彼は口を開いて、訊いた。 「充。母は何と言っていた?」 充ははっとして顔を上げた。桐山は相変わらず表情を変えずに充を見ている。彼の目から感情の揺らぎは読み取れなかったけれど…僅かに、寂しそうな顔をしているように、充には見えた。 充は記憶の中の母に思いを巡らせた。優しく、美しかった桐山の母。彼女は、しきりに桐山の身を案じていた。おそらく、幼いわが子を残して逝かなくてはならなかった悲しみを必死にこらえながら。 「ボスのことを…すごく、心配してました。ちゃんと友達は出来てるか…ひとりでいないか、って」 「…そうか」 桐山は再び首をククッ、と傾けた。彼の硝子球にも似た双眸に、僅かに光がともった。 「…それならば、俺はひとりではない。充たちが居る」 「ボス…!」 その言葉を、桐山が何のためらいもなく口にしたことに充は驚きを隠せなかった。いつも自分についてきてくれ、自分が勧めたことは何でもやってくれる桐山だけれど、それでも、彼の口からはっきりと自分たちの存在を「認める」ような言葉を聞いた事は一度もなかったので。 それと同時に、泣きそうなくらい嬉しい気持ちが溢れてきた。 「嬉しいっす。俺…ボス、俺、お母さんに約束したっす。お母さんの分まで、ボスのそばにいるって。ボスに寂しい思いなんて、絶対させないって」 「…充」 桐山が瞬きをした。充は彼の手をとり、力強く握り締めて、言った。 「ボスのお母さんとの約束は、絶対守るッス」 さっき泣いた事が信じられないくらい、充は笑顔になっていた。 桐山を見つめる。今ならば、この全く感情を表わさない、人形のような彼を、夢に見た、彼と同じ顔をした母親のように、明るく笑わせることも、そう難しいことではないように思えてくるのだった。 なぜなら、桐山には自分や桐山ファミリーがついているし、どこかで見守っている桐山の母もいるのだから。
おわり
2005/03/05
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