親愛なる者へ

「―ボス?」
「ああ、済まない。何だ?充。」
いつもの放課後の屋上。

俺が三回目に呼びかけてからやっと、その人は顔を上げた。

「あ、いや、なんつうか…ボス最近何かあったのかと思って」

俺は自分から話しかけたにも関わらず、少し緊張しながら言った。
その人―ボスは、本当に真っ直ぐに俺を見詰めて話すから。

「…特に思い当たる事は無いが…何故だ?」
「そ、そっか、ならいいんだ、別にさ」

「そうか。」
ボスはそう言うと、開いていた本に視線を戻した。

俺には絶対読めないような、分厚い英語の本だ。
―ボスは凄く頭が良い。俺とは違って。

何事にも動じる事無く、いつでも的確で冷静な判断を下す。
喧嘩の時も、盗みに入る時もそう。

いつでも俺はそんなボスに頼ってばかりいる気がする。



ただ、最近になって気になりだした事がある。
ボスがよく俺が話し掛けても全く無反応になる事だ。
何度か名前を呼ぶと、はっとした様に俺を見て、「何だ?」と言う。
どうしたんだと聞いても「別に何でも無いよ」という答えばかり返ってくる。
これだけ長い付き合いなのに、俺はまだ、ボスの事、何もわかってないのかもしれない。

ボスは俺が聞いた事には、大抵すぐに答えてくれた。
ただ、家の事だけは一度も話してくれなかったけど。

俺はボスの家には入った事が無かったし(それは何となくボスの親が大企業の社長だから、俺みたいなやつが家に近づくのを嫌がってるのだと思ってたけど)よく学校を休む理由も聞いた事が無かった。

別にボスの全てを詮索したいって訳じゃない。
ただ、時々無性に不安になる。

ボスは、本当は俺と居ることなんてなんとも思ってないんじゃないかって。
いつかボスが俺なんか捨てて、どこかはわからないけど―
俺の全く知らないどこかへ行ってしまうんじゃないかって。

それがすごく、俺は怖い。

俺にとってボスはいつのまにか尊敬の対象であると同時に、
多分、離したくない、上手く言えないけど、とにかく自分一人で独占していたい様な存在になっていた。

俺が勧めてそうさせたボスのオールバックの髪型を見る事が、それを確認出来る数少ない手段だったと言えるかもしれない。

でも、それだけじゃ駄目になった。
俺はボスの本当の気持ちが聞きたかった。

「わるくない」とか、「面白いんじゃないか」ではなく、もっと確かな言葉で。

「…ボスは」
「…どうした?充」

ボスはもう一度本から視線を外して、俺の方を見た。
オールバックの髪の下、男の俺でも思わず見とれるような、綺麗に整った顔がある。
ただ、その顔は全くの無表情で、ボスが何を考えているかなんて少しも読み取れない。

今までボスがはっきりと喜怒哀楽の感情を見せた所を、俺は一度も見た事が無い。
もしかしてボスは、俺と居ても楽しくないのか?

「ボスは俺と居る事、どう思ってるんだ?」
「…それも悪くないと思って…」
俺とは対照的に、やっぱりボスの声はどこまでも静かだった。

それに何だかいらいらして。

「その言葉じゃなくて!」
思わず大声を出してしまった。
少し驚いた様で、ボスは何回か瞬きをして俺の方を見た。

「…充。何をそんなに怒っている?」
ボスは、俺がどんな気持ちでいるかなんて知らないんだろう。


俺が勝手に不安がっているだけ。
俺が一方的にボスを独占したいと思ってるだけ。
十分過ぎるほどわかってるけど。

「…ごめん。ボス。俺、どうかしてたよ。先帰る。」
俺はボスに顔を見られない様に俯いたまま立ち上がった。

今、きっと俺は泣きそうな顔をしているから。
―自分で自分が情けない。
ボスの視線を感じた。

それでも俺はそんなボスに背を向けて、走り出していた。



不安だった。
何の反応も返ってこないことが。
でもやっぱりそれは俺が勝手に思ってることだ。

ボスを責めても仕方ないことなんだ。

―ボスに、ひどい事したな。
いまさら気づいても遅いけど。
もの凄い自己嫌悪に陥る。


俺、何を期待してたんだろう?
ボスが何と言ってくれる事を、期待してたんだろう。

わからない。

何だか酷く空しい気持ちになった。
行き先も決めずに走ってきたけど、これからどうするか。

ボスに謝りに戻るか?

そう考えかけて、思い直す。
駄目だ。

少なくとも今日は。
今の俺は、ボスにどんな気持ちをぶつけてしまうか。自分でも想像がつかないくらい、不安定になっていた。

俺は力無く俯いたまま、とりあえず近くの公園を目指した。



途中から小雨が降ってきた。
ああ、今の俺の気分にぴったりだ。

初めて会ったあの時から、
俺にとってボスは神聖な存在であるはずだった。

ボスは王。

俺はその王に仕えるだけ。

そう、思い込んで来た。



でも。
最近は、違う気がする。
俺はボスといると、何だか今まで感じたことが無いような気持ちになる。

ボスといるのが何だか心地良くて。
それは前からだけど。

ボスの側を離れたくなくて。
それから…。

駄目だ。
これ以上考えたら、俺が俺で無くなってしまう気がした。



どうしよう。
苦しいよ。

でもこんな事、絶対ボスには言えない。
だから、苦しい。


涙が零れた。
情けなくなって来た。

でも、
俺はボスの事が。

俺は雨に打たれながら泣いた。
公園のベンチに座ったまま。

ここには誰もいないから。
こんな格好悪い姿、誰にも見られないで済むから。

雨の勢いが強くなって来た。



何時しか俺は体中びしょ濡れになっていた。
でも、どこにも行きたくなかった。

ただ俺は雨に打たれつづけていた。



その時不意に、雨がやんだ。
―え?

俺の、周りだけ。

不思議に思って顔を上げると、真っ黒な傘をさし掛けたボスの姿が目に飛び込んできた。
「ボス!」

「充、こんな所で何をしている?風邪を引くぞ。」
ボスは僅かに息を乱していた。
どうやら走って俺を追いかけて来たらしい。

俺はごしごしと目を擦った。

こんな姿、ボスに見せたくなかったから。
でも、今、ボスの顔見たとき、凄くほっとした。

ボスは追いかけて来てくれたんだ。
「どうしたんだ?充。」



ボスの髪も雨に濡れていた。
ここに来るまで傘をささずに走って来たのかもしれない。

「ボス…」
俺は自分の声が少し震えているのに気づいた。
ボスのほうは相変わらず無表情だ。

さっき俺、ボスに酷いことしたのに、全然怒ってないみたいだ。
それにほっとするような、悲しくなるような。



「…ボスは俺のこと、何とも思ってないんだろ…?」
こんな事を言いたい訳じゃないのに。
でも、それはずっと思っていた。

ボスみたいな完璧な王が、俺みたいな下らないやつと一緒に居るなんて、
ただの、気まぐれなのかも知れないと。



ボスを見た。
ボスの表情は凍りついたように変わらなかった。
ボスは黙って俺を見つめていた。
暫く沈黙が続いた。


「充」

ボスは暫くしてから俺を呼んだ。
「俺には、お前が何故怒ったのかが、よくわからない。」

「…………」

やっぱり、そうなんだ。当然だよな。
俺が、勝手に、思ってるだけなんだから。

「だが、……」
ふいにボスが言葉に詰まったので、俺は不審に思ってボスの方を見た。

ボスは、左手をこめかみに当てていた。
これはボスの癖なんだと思う。
よくそうしているのを見かけるから。

ただ、いつも通り無表情のボスの顔が、気のせいか、ひどく困っているように見えた。
しばらくしてボスは言った。



その言葉を、俺は多分一生忘れないだろう。
少し、大げさかもしれないけれど、それぐらい、衝撃的な言葉だったんだ。

その時の俺にとっては。



「俺は、きっと、充の事を、どうでもいいとは思っていないと、思う。」
ボスは区切るようにそう言った。
自分でも、よくわかっていないことを、確かめるみたいに。
やっぱり何の感情も篭らない声で。

それでも、そんな風にボスがはっきりと自分の気持ちを言うのを聞くのは初めてだった気がする。



「なんで…?なんでそう思うんだ、ボス?」
俺は半ば興奮してそうボスを問い詰めた。

「…よく、わからない。ただ、そんな気がするんだ」


「そっか…」
俺は少しがっかりした。いつも通りの答えだったから。

でも、さっきの言葉。
さっきの言葉だけで、
随分と気持ちが楽になった気がする。

やっと昂ぶっていた気持ちが落ち着いた。
そうして、今までの自分の行動を思い出すと、凄くボスに申し訳無くなった。



「ごめんな、ボス…」
「なぜ謝るんだ?」
「さっき、いきなり怒鳴ったり、勝手に先帰ったりしてさ」
「…別に、俺は怒っていないよ。充。」



ボスは傘をすっと下ろした。
そうして丁寧に閉じた。

ああ、何時の間にか雨がやんでいた。

腰を上げたボスに、俺は慌てて聞いた。
「ボス、もう帰るのか?」
「特に行き先は決めていないが?

俺は少し嬉しくなって、言った。
「俺のうち、よってかないか?罪滅ぼしに、なんかごちそうするよ」
「…そうしよう。」





雨がすっかり上がった空はほんのりと紅く染まっていた。
夕焼け。

紅い夕焼けに照らされたボスの横顔は凄く綺麗だ。
ボスは俺と一緒に俺の家に向かっている。

それは初めての事じゃない。

でも、何だか今日は、それがとても嬉しい。
「充。」
「何?ボス。」

呼ばれて、俺はボスを見た。
きっとその時の俺は凄く嬉しそうな顔をしていたと思う。
俺はすごく単純なのかもしれない。

さっきまで泣いていたのに、
今はこんなに喜んでる。



ボスはそんな俺の顔をじっと見ていた。
何か、言いたそうな顔だった。

「どうしたの?ボス。」
俺は少し不思議に思って聞いた。

ボスははっとしたように瞬きをして―それから、言った。
「いや、いいんだ。行こう、充」
「?うん。」

何言おうとしてたのかな?ボス。









充は、気がついていなかった。
桐山の反応が遅れるのは、年に数回訪れるだけだったこめかみの疼きの感覚が、
充と会ってから急激に増え、
その間隔もどんどん縮まってきているからだと言う事に。

その意味に。

桐山が家政婦や執事、あるいは絶対服従する対象のはずの父親から、「髪型、変えた方がいいんじゃないか?」と言われたにも関わらず、その髪型―充が勧めたオールバックの髪型を変える気が、何故か起こらなかった、その意味に。

その意味を多分、桐山自身も、よくわかっていなかった。





おわり