「ここが本当に島なら、南の端で待っている」 まるで活字の様に癖のない文字で書かれた、 彼からの伝言。
「待っている」
彼の言葉に嘘はない。彼は一度だって、自分の期待を裏切ったことはないのだ。 沼井充(男子十七番)は、逸る気持ちを抑えながら、海へと通ずる道を進んでいた。 偉大なるボスー桐山和雄(男子六番)の元へ。 充の価値基準において「最高」の位置にある男の元へ。
崇拝
充が今の様に喧嘩に明け暮れるようになったのは、まだ彼が小学校低学年の頃から。
貧富の差が激しい城岩町の中でも、充が暮らす家庭は最下層から数えた方が早い位の生活レベルだった。 父親は充が小学校に上がる直前あたりまではそれなりの会社に勤めていたが、ささいなことでそこをリストラされ、以来定職に 落ち着くこともせず、日雇いでどうにか得た給料の大部分を自分が飲むための酒につぎ込んでいた。 充はアルコールの匂いのしない父親をほとんど見たことがない。
泥酔した彼は、少しでも気に入らないことがあると、充や充の母親をよく殴った。 母親は母親で、そんな夫の暴君ぶりに愛想を尽かすこともせず、ただいつも哀しそうな目をして、夫が散らかした 酒瓶を片付けながら、殴られて頬を紅く腫らした息子に「ごめんね」と繰り返した。 夫の暴力から息子を守る強ささえ持たない気弱な彼女は、昼間はほとんどパートに出て生活費を稼いでいた。 二人が居ない時、かびとアルコール臭の篭ったアパートの一室で、充は一人少年漫画を読んで過ごした。 彼からすればそこは「つまらない家庭」だった。
学校も、手前勝手な秩序を押し付けられる点ではひどく窮屈ではあったけれど、家庭の中に比べれば自分を表現する場に 事欠かなかった。 父親の暴力から自分の身を守るために身につけた力は(父親にはいつまでも勝てなかったのだけれど)、同級生に対しては 絶大な効果を発揮した。 誰も充には勝てなかった。一度打ち負かされた相手は、充に対し畏怖を篭めた眼差しを向け、彼のご機嫌を伺う態度を示すようになった。 小学校時代は地元で充の名前を知らぬ者などいなかったし、中学校でも充は自分の生活スタイルを変えるつもりはなかった。
王は一人でいい。
教科書よりも熱心に読み耽った少年漫画から得た真理。 そんな充にとって、彼との出会いは衝撃的なものだった。
桐山和雄。入学式の日、自分がまるで歯も立たなかった三人の上級生をたった一人で、完膚なきまでに叩きのめした男。
自分よりもずっと王に相応しい男。 そんなやつが現われたらー充は喜んで、補佐の側に回るつもりでいた。 その日が、こんなにも早くやってくるとは思わなかったけれど。
病院に行った翌日、充は早速、自分の席に座り静かに読書に耽っていた桐山に声をかけた。 話しかけるのに、最初はやや躊躇したこともあったけれど(何せ、あの圧倒的な力を見せられた後なのだから) 彼が最初に振ったごくつまらない話題にも律儀に応じてくれたので、充は勢いづいて、質問を浴びせかけた。 「なあ、一体どうしてあんなに強いんだ。どうやって、あんな喧嘩の方法ー」 「習ったんだよ」 「習った?…空手道場か何かでか?」 桐山は沈黙した。
充はちょっとそれでたじろいだ。 桐山は口にこそ出さないけれどーそれ以上の詮索は許さない、と言った風だったので。 「じゃ、じゃあさ」 充は慌てて質問を変えた。 彼の機嫌を損ねたくなかった。 「小学校の時はそこらじゅうに名が売れてたんじゃないか。あれだけすごい喧嘩ができるんだから当たり前だよな」 「いや、そんなことはない」
なぜそんなことを訊くんだ、とでもいいたげに、桐山は充をじっと見詰めて来た。 それでまた充は言葉に窮した。彼の漆黒の瞳は暗く冷たかった。 彼と話していて、どうもやりにくいと感じた理由がやっと見えてきた。
桐山は全く感情の揺らぎを見せないのだ。声の質も。表情も。 しかしそんなことは大した問題ではなかった。そう、思うことにした。 この男が、「王」であることにさしたる影響を及ぼすことではないから。 笑顔が売りの王よりはー寡黙で無表情の王の方が、なんとなく格好いいんじゃないか。 充はそんな簡単な理由をつけて、桐山の特質を受け入れることにした。
それから充は「王」の教育に熱心に取り組んだ。 不良の生活とは無縁の所にあった桐山に、充は色々な事を勧めた。 その中には盗みや他校の不良グループの抗争など反社会的な事も含まれていたが、 桐山は充の勧めることならほぼ受け入れた。
「ボスはさ、もう少し迫力ある髪型にした方がいいと思うんだよな」 充の、上級生にやられた傷も癒えた頃、桐山にそう提案した。 「…そういうものなのかな」 「今のままだと、普通すぎるだろ」 桐山は僅かに眉を寄せ、気難しげな表情を見せた。が、拒むことはなかった。
量が比較的多い桐山の髪を、全て後ろに撫で付けて固定するのには、充が買ってきた整髪料を大分多く使うこととなった。 だがしかし、仕上がりは満足のいくものだった。
「いいよ!そのほうが全然いいよ!ボス。コワそうでさ」 オールバックになった桐山は、感嘆の声を上げた充に「そうか」とだけ返した。 ただ、その日以来桐山の髪型はオールバックに定着した。 無頓着なのか何なのか、やや後ろ髪が伸び過ぎな位に放置することはあっても、それからずっと。
「こいつは、い一体ー」
桐山の指示に従い、辿りついた先に待っていたのは、充が想像もしなかったような地獄絵図だった。
つい先ほどまでーそう、教室で後姿を見送った二人が。一緒にバスに乗り込んだ二人が。共に喧嘩に明け暮れた二人が。 笹川竜平(男子十番)と黒長博(男子九番)がー今は変わり果てた姿となって、岩場に倒れ伏していた。
「俺を殺そうとしたんだよ。笹川もー黒長も。だから俺がーやったんだ」
愕然とする充に、桐山は抑揚のない声で答えた。 死体二つを自らの手で作り上げて、それでも彼は少しも冷静さを失ってはいなかった。
笹川も黒長もーそんな、臆病者だっただろうか。 普段「強い絆で結ばれていた」と信じていたのは、自分の思い込みに過ぎなかったのだろうか。 自分はよく桐山に話しかけていたけれどー他のメンバーたちはどうだったろうか。 そう言えば、月岡彰(男子十四番)の姿が見えない。自分がどんなにきつく言っても、ふざけたような艶っぽい声で 桐山を「桐山くん」と、馴れ馴れしく呼んでいた、あの月岡が。
今にして思えば。…考えれば考えるほど、頭の中が混乱して、収拾がつかなくなってきた。 そして、次に充の目に止まった死体は、彼の中の、最後に残った希望を打ち砕くきっかけとなった。
「か、金井もー金井もボスのことを殺そうとしたーのかい?」 血に汚れた、小柄なセーラー服姿の亡骸を見て、充は胸が締め付けられるようだった。 金井泉(女子五番)の亡骸。
信じられないことだった。 あの誰にでも分け隔てなく(不良グループに属する自分にさえも)笑顔を振り撒き、それでいて嫌味なところのない、 虫も殺さぬような女の子でも。男である笹川や黒長ならばともかくー、金井泉も、自分の命惜しさに桐山に向かっていったと言うのか。 それほどまでに生きたいと?
「たまたまここにいたんだ。金井は」
自分のことにかまけて、忘れていた。 そうだ。自分はーファミリーのメンバーたちだけで、逃げようとしていたのだ。 当然、他のクラスメイトたちを「見捨てて」。 転がっていた赤松義生の、天堂真弓の死体を思い出した。 つまりはーそういうこと。
一緒に居て、馬鹿なことはたくさんやったけれどーそれでもとても大事な仲間とー普段は意識していなかったけれど、 今は痛いくらいに実感しているー二人の男の死が。 ほんの少しだけれど、可愛いと思っていた女の子の死が。 嫌な位に自分が置かれているこの不条理な状況を思い出させた。
大して気温も低くないのにー急に背筋が寒くなったような、気がした。 喧嘩ではないのだ。 「殺し合いを、する」 あの教室で無理やり書かされた、その事実。 充は慌ててその考えを打ち消した。 自分は、違う。
「おっ俺は大丈夫だよ、ボスを殺そうとなんて思ってない。こ、こんなろくでもないゲームなんてクソくらえだ。坂持とあの専守防衛軍の 連中をやるんだろう?やるぜ、俺はー」 いつものように。他校の不良グループと衝突する時のように。
しかし桐山は静かに首を振ってそれを制した。 充は頭から水を浴びせかけられたような気分だった。
「俺には、時々、何が正しいのかよくわからなくなるよ」
そう言った桐山の、相変わらず表情の読み取れない、美しい顔には、月明かりの加減だろうか、憂いの色が差しているように見えた。 充の目にはその時初めて、桐山和雄がひどく不安定で、頼りなげな存在に映った。
ボスが何とかしてくれる。どんな状況に陥ったとしてもーこの人が何とかしてくれる。 そう思い込んでいたのはどうしてだったのだろう。
「今回もそうだ。俺にはわからない」
今回も。 妙に、引っかかる言葉だった。 この状況を、彼はどんな風に受け止めているのだろう。 それは単に「冷静」という言葉で説明するには、やや足りないような気がした。 何かが足りない。
「とにかく」
彼の一言一句が、突き刺さるようで、充の心拍数はどんどんと増していった。
どうして、彼に自分の理想像を押し付けていたのだろう。
「俺はここに来た、金井がいた、金井は逃げようとした、俺はとりあえず金井をつかまえた」
彼がー何も出来ない女子である金井を手にかける、そんなことがあるはずがない。 あってはならないことだった。 充にとっての理想ー弱きを助け強きをくじくー彼はそうあるべきだった。 実際そうだった。彼はあの日、彼からしたらずっと弱い存在である自分を救ったのだ。それすらも、ほんのきまぐれだったというのか。
俺が信じていたのは、一体なんだったんだ。 あんたは待ってる、って言ったじゃないか。 どうして、待っててくれなかったんだ。
答えを出すのは、自分が来てからでも遅くは無かったんじゃないか。 どっちでもいいというならー。
「そこで俺はコインを投げたんだ」
彼の判断基準にすらなり得ない存在だったと言うことなのか。…自分は。
「表が出たら坂持と戦う、そしてー」
冷たい、いやな汗が充の頬を伝った。 …それが示すことは、つまり。 ワルサーPPKにかかった人差し指が、ぴくりと動いた。
王は一人でいい。 自分で言ったその言葉が、今は微妙に意味を違えて来ているように、思えた。 累々と築かれた、クラスメイトたちの屍の山の上に君臨するー「王」たる桐山の姿が、一瞬ではあるけれど 充の脳裏を掠めた。 その屍の中には…当然、自分も。
昔風のタイプライターに似た感じの、渇いた音が響いた。
遅れて、身体にいくつもいくつも、熱い何かが飛び込んで来る感じがした。 殴られた時とは比べ物にならない、鋭い痛みだった。
「裏が出たら、このゲームに乗るとー」
桐山の無機質な声が、かすかに充の耳に届いた。
彼の冷たい、何の哀れみも篭らない目が。 初めて出会った時、彼が地に伏せさせた上級生たちに向けられていた目が。 今は自分に向けられていた。
ボス。あんたにとって俺は何だったんだよ。
痛いとか怖いとか。 そんな感覚を越えた何かが、最後に充の心を満たした。
ーなあボス。一体、あんたは何だったんだ。 涙が零れた。
充が物心つくかつかないかのころ、朝、出かける前までは優しかった父親が、人が変わったように怒り狂って、自分に暴力を振るってきた
時の気持ち。 今の気持ちを表現するならば、きっとそれと同じ気持ち。
不気味なほどの静寂が、辺りを包んだ。 打ち寄せる波の音だけが聞こえていた。
岩場には命を失った四つの亡骸が転がり、黒い学生服を身に纏った、まるで死神の様な桐山和雄がそれを見下ろしていた。 その瞳には何の感情の揺らぎも見られない。 「…………」
桐山は暫く座っていたが、やがて何か思い出したように岩から降り、最後に絶命した充の死骸の方へと近づいた。 そしてその死体にそっと触れた。 左手指の先に触れた傷口から吐き出された血液はまだ熱を失ってはいなかった。 うつ伏せに倒れた、沼井充の涙がいっぱい溜まった目の瞳孔は既に開き始めていた。
存外、人間とは脆い生き物なのだと思った。 銃弾がいくつか入っただけで、こうもあっさりと生命活動を停止してしまう。 これならば、自分ひとりで幾人ものクラスメイトを殺害しー「優勝者」となるのも、そう難しいことではないと判断した。
充の死体から指を離し、腰を上げて去ろうとした桐山は、ふとその動きを止めた。 そして、充の血液で汚れた指を、そっと自分の左こめかみに当てた。 痛みとも痒みともつかない感覚が、そこから生じていた。
時々、何が正しいのか、よくわからなくなる。
先ほど充に向けて話したこと。 それは彼の本音だった。何を規範にして行動すべきか。沼井充にはそれがあったようだったが、自分にはそういうことが良く分からなかっ
た。何故分からないのかもー分からなかった。
ただコインは裏を示した。 コインの結果に従うーそう決めた桐山にとって、それだけが絶対の真実であり、進むべき道であった。 基準を与えてくれたのが、充ではなく、コインだった。それだけの違いだった。
桐山はこめかみに当てた手を戻した。 数ヶ月ぶりに感じた疼きは、既に消えていた。
誰にも分からなかった。 桐山自身にも。少なくとも二年以上彼の傍に居た充にも。彼に英才教育を施した、血の繋がらぬ親にも。誰も。 誰もが当たり前のように持っていてー彼にもまた少なくとも、 この世の最初の空気を吸うまでは備わっていた筈の、何かを「感じる」機能が、 ある特異な「事故」により彼が予定よりやや早く生まれて来ざるを得なかった時には、限りなくゼロに近い状態にまで失われていたこと。
充がどこまでも完璧な王と信じていた桐山にもまた、どうしようもない「欠点」があったこと。
充は最後の最後まで、本当の桐山を理解することは出来なかった。
おわり
2004/06/30
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