雨が降り続けていた。
視界がぼやけて来る。薄いカーテンのように降り注ぐ雨水。
気温が低くなってきたようで、長袖の今も、ほんの少し、肌寒い。
…アフラ・マズダ様。私は、少し疲れてきました。
ーもう少し、もう少しの辛抱です。ミズホ。
聞き慣れた、神々しい声。それを聞くだけで、心が洗い流され、浄化されて行くような気がした。
はい。アフラ・マズダ様。
稲田瑞穂(女子一番)は眉の上で切り揃えられた前髪を、そっと整えた。
私は、選ばれし戦士。この程度の試練に屈するような、弱者ではありません!
自分に言い聞かせるような言葉。
プログラムと言う不条理な戦闘実験に、交通事故に遭うより低い確率で選出され、
共に机を並べたクラスメイトたちと殺しあうと言う悲劇に追い込まれながら、
それでも瑞穂は、自分にとって唯一の神を信じて疑わなかった。
自分がその神の加護を受けている身だということを。
また、神の声が聞こえた。
ー宇宙の光を信じるのです。あなたを包む光を。
あなたは、戦士。選ばれし戦士プリーシア・ディキアン・ミズホなのですから。
ーはい。
瑞穂は目を閉じた。温かい光が満ちて、冷えた身体を包み込んだ。聖なる力に守られた体から、
すうっと疲労感が抜け落ちていく。
私はいずれ地球のために戦う戦士。
それが、瑞穂の存在理由。
ー存在理由を失くしては、私は生きる意義を見失ってしまうから。
選ばれし、戦士。
少なくとも数年前まで、瑞穂は自分の事をそんな存在だとは認識していなかった。
小学生時代、瑞穂は、ごく目立たない女の子だった。
人を真正面から見て話すのが苦手で、いつももじもじとして、クラスメイトからは「暗い子」と陰口を叩かれた。
前髪はいつも切り揃えられ、独特の雰囲気を醸し出す彼女にいささか困惑気味の生徒も多かった。
親しい友達を作ることが出来ない瑞穂は、いつもひとりぼっちだった。
あの町の占い師に出会うまでは。
それは、小学生最後の春休みのことだった。
瑞穂は城岩町の商店街をひとりで歩いていた。
母親にお使いを頼まれたのだが、その時は何となく沈んだ気持ちで居た。
明日から、中学生になる。
小学生のときは、ほとんど友達と呼べる友達もできぬまま、卒業してしまった。
ー寂しかった。
暫く歩いていると、道の脇に小さな机が置かれ、六十過ぎと見える老婆が一人、座っていた。
見かけぬ老婆。その机の上には大きな水晶玉が載っている。
占い師だろう。瑞穂は少し気にかけつつもー通り過ぎようとした。
「あんた、悩みを抱えているね」
老婆がしゃがれた声を出した。
びくっとして、立ち止まる。
老婆を見た。老婆は笑みを浮かべてこちらを見ていた。
周りの人々は立ち止まる気配を見せない。
「友達が出来ないことが、辛いかい」
その老婆は低い声で言った。どきっとした。
ー見事に自分の心を読んでいるような声音だった。
「しかし、それも無理は無いねえ。あんたは特別なんだから」
「…?」
「あんたは自分が思っているより、ずっとずっとすごい力を持っているんだよ」
老婆が目をぎらぎらさせて言うので、瑞穂はおそるおそる聞いた。
「ほ、本当、ですか」
「そう。あんたは聖なる部族、ディキアンの生き残り、プリーシア・ディキアン・ミズホなんだから」
「わ、私が…?」
瑞穂は目を丸くし、老婆は深い皺の刻まれた顔を歪めて笑った。
それから数十分も老婆の話を聞かされる羽目になった。
老婆の話は、よく理解できなかった。瑞穂には難しすぎた。
それに使命だの平和だの、老婆が憑き物でもついたように神がかって話すので、少し怖くなった。
「信じなさい、自分の力を」
…信じろって言われたって。
瑞穂は溜息をついた。
プリーシア・ディキアン・ミズホ。
ーそれが、私…。
何だかおかしな気持ちだった。
その時だ。
ー頭の中に、不思議な声が響いてきたのは。
ーミズホ。
え?
ー感じるのです。
ミズホ。
あ、あなたは?
光の神、アフラ・マズダ。あなたを導くものです。
その声は瑞穂の内側から聞こえた。
きょろきょろと、辺りを見回したけれど、声の主と思しき人物の姿は見当たらない。
私は、宇宙の光と共にあるのです。
瑞穂の疑問に答えるように、また声が響いた。瑞穂は瞬きをした。
町の人々は相変わらず思い思いの方向に歩いて行っている。
この声は、瑞穂にしか聞こえていないようなのだ。
ー当然です。ミズホ。あなたは選ばれし戦士。私の声は、平民には聞こえません。あなただからこそ、私のメッセージを受け取ることができるのです。
そう言われて、瑞穂はなるほど、と思った。ー神は、自分にしか聞こえない様に話しているのだ。
それがなんだかー嬉しい様な気もした。
ーあなたには使命があります、ミズホ。
アフラ・マズダは言葉を続けた。ミズホはそれに聞き入った。
立ち止まってあらぬ方向を見詰める瑞穂に、何人かの通行人は訝しげな顔を作った。
それを気に留める余裕も無かった。
わ、私は何をすればいいのですか、…アフラ・マズダ様。
こわごわ聞くと、ややあって、「神」からの返答があった。
あなたはいずれ地球のために悪と戦わねばなりません。今は、その使命を自覚し、来るべきその時に備えて、戦士として真に目覚めること
が必要なのです。
でも、でも、アフラ・マズダ様、私にはそんな力は…。
ミズホ、あなたは素晴らしい力を持っているのですよ。あなたは光に守られた存在。聖なる部族ディキアンの生き残りではありませんか。
ープリーシア・ディキアン・ミズホ。
…はい。
宇宙の光を、信じるのです。あなたはひとりではありません。あなたは光に守られているのです。
神の声を聞き、瑞穂は不思議な安心感に包まれた。
…私は、守られている。
何もできない、地味な子に過ぎなかった、私が。
…神に守られている。
信じます。私は、神を。
こんな私にも、力があるのならば。
ー地球を守るために、戦うことができるのならば。
その日から、瑞穂はひたすら自分に宿る光の力を高める努力をした。
占いに凝ってみたり、怪しい呪術の本を読み耽ったり。
挙句の果てには通販で「奇跡の水晶」なるものまで購入した。
こつこつと貯めたおこずかいをつぎこんで。
その水晶のアミュレットを握り締め、瑞穂は歓喜した。
ー実はそれは、水晶などではなく、ただの硝子玉に過ぎなかったのだけれど。
それからは、テストでも、体育のときでも、その水晶を握り締めて「アフラ・マズダ」と会話をすれば、何事も上手く行った。
全ては神、アフラ・マズダ様のご加護のお陰です。
瑞穂はたとえ自分の力で何とかしたことでも、アフラ・マズダの加護によるものと信じ切っていた。
神の存在は、いつもひとりぼっちで、不安定だった瑞穂の心を支えた。
神に守られている、選ばれた身であると信じることが何よりも彼女にとっては至福なのだった。
心配した家族が病院に行くよう勧めたけれど、瑞穂は少しも耳を貸さなかった。
中学に入学してからはみちがえるほど明るくなった(しかし、目はギラギラとしてそれなりに危ない雰囲気は醸し出していたかもしれない)瑞穂は、二年B組になって、クラスの余り者、アイドルおたくの南佳織、気が弱くいじめられっこの江藤恵と一緒に行動することが多くなったのだが、彼女たちが些細なことで悩むたびに「アフラ・マズダ」の信仰を熱心に勧めた(ある時気まぐれで瑞穂の演説を聞いた佳織は戦士ローレラ・ローザス・カオリなどというご大層な名前までつけられてしまった。本人は呆れかえっていたけれど)。
「神」との出会いは、確かに瑞穂の生活に幾らかの生彩を与えた。
しかしー、以前アフラ・マズダが言っていた「試練」がこのようなものだったなんて。
「悪」。このプログラムの最中、瑞穂は幸いにも(それもアフラ・マズダの加護のお陰に違いない)誰とも出会い頭に戦闘が始まるような遭遇の仕方はしなかったのだけれど、彼女の知らないところで、親しかった(と少なくとも瑞穂は思っていた)ローレラ・ローザス・カオリこと南佳織と江藤恵は殺されてしまった。それは、少なからずショッキングな出来事だった。
ーアフラ・マズダ様。彼女は悪に敗れたのですね。
細かいことは気にしてはいけません。彼女は平民の出に過ぎなかったのです。あなたは違います。助かります。
アフラ・マズダはそう返答したけれどー瑞穂には疑問が残った。
平民はー守られるべき存在ではないのだろうか。
瑞穂はおそるおそる訊いた。
アフラ・マズダ様。
たとえ平民の出でも、彼女に神の加護は与えられなかったのでしょうか?
私は、素直に喜べません。
たとえ、悪魔に打ち勝って、この試練を乗り越えてもー、私は生き残った他の平民と戦わねばならないのでしょうか?
神の応答は無かった。
瑞穂は初めて、泣きたいような気持ちになった。
それでも信じた。信じずには、いられなかった。
私は、戦士。
細かいことなど気にしない。ー私は、戦士。
神に守られた私こそがー勝利の光に包まれる。
ー悪魔よ、覚悟しなさい。
瑞穂が倒すべき悪魔は、前方に座っていた。
黒い学生服。特徴的なオールバック。艶やかな黒髪。
桐山和雄(男子六番)は、枝のようなものを集め、それで山をこしらえていた。
瑞穂の存在に気づいた様子は無かった。
唐突に、アフラ・マズダの声が聞こえてきた。
今です、ミズホ!
はい!
神の声に瑞穂は元気付いた。
手中の武器は、伝説の剣へとその姿を変えた。
瑞穂の頭の中では、その剣はまばゆい光を放っていた。
だっ、と桐山のもとへ走った。
ばん。
一瞬、瑞穂は自分の身に起きた出来事を、理解することが出来なかった。
胸が、痛い。
ごほっっと血を吐いた。
桐山和雄の銃から放たれた弾丸は、瑞穂の肺を撃ち抜いていた。
それ以上、瑞穂は動くことが出来なかった。
光の剣は、輝きを失って、彼女の手を離れた。
こんな筈は、ない。
私は、選ばれし戦士…の…筈…。
ーアフラ・マズダ様、私が一瞬でも、貴方を疑ったのがいけなかったのでしょうか?
わたしは、
悪魔にー。
瑞穂は、次に頭に重い重い衝撃が跳ねるのを、感じた。
瑞穂の身体は、地面に叩きつけられた。
もう、起き上がることは無かった。
黒い学生服を纏った悪魔は、此方を向いてさえ居なかった。
ーオーケイです。ゆっくり眠りなさい。
その声は、意識を超えた遙か遠くの方から聞こえたようだった。
瑞穂は、三年B組の生徒では、三十八人目の犠牲者となった。
その魂は、―光の国へと導かれた。
戻
|
|