昔、喧嘩で少々無理をして、意識を失う重態に陥ったことがあった。
数日間生死の境を彷徨い、辿り着いたのは一面に広がる花畑。噎せ返るように白い花々を掻き分け、進むと眼前に流れる川があった。
「充、まだ、こっちに来てはいけない」
見覚えのある老女が、川の向こう岸から手を振って、そう叫んだ。それは小学生のころに死んだ祖母だったとー気がついたのは意識を取り戻した後のことだった。
今、再び自分は花畑の中に居る。
白い花が溢れるこの場所で、ぼんやりと立ち尽くしている。
「充。おつかれさま。はやく、こっちへおいで」
慈愛に満ちた声が前方から聞こえた。声に導かれるままに足を踏み出す。花畑は途切れ、さらさらと流れる小川がそこにはあった。一歩一歩足を進める。足は川底にずぶりとのめりこんだ。それでも、進んだ。
何かに駆り立てられるように。以前ならば止められたのに、今は、止められなかった。きっと、「そのとき」が来たからー、もう、自分はここへ来ても良くなったのだ。止められることももうない。
それが妙にもの悲しいような、しかし不思議と安心するような気もした。
そこで意識は途切れた。
あれからずっと闇の中を彷徨い歩いている。
どれくらいの時間が経ったのかは分からない。時間という概念を感じさせる要素が、今いるこの場所には皆無と言って良かった。不安に駆られ、足取りを速めてみたけれど、それもいつしか空しくなり、やめた。
闇はどこまでも続いている。果てがなく続いている。
………ボスは。ボスはどこに?
自分でも不思議だけれど、意識を取り戻して、一番最初に頭をよぎったのは、そのことだった。
気がついたら闇の中に居た。頭が上から何か強い力で押しつぶされる様に痛かった。しばらくするとそれは消えたが、ふとー、学生服の腹から胸にかけてぽつぽつと抉られたような穴があるのに気づいて、ぼんやりとそこを探った途端、充は自分が体験した、恐ろしい出来事を思い出した。
「そこで俺はコインを投げたんだ。表が出たら坂持と戦う、そしてー」
あの人の、さして低くはないけれど威圧感を持った声ー月光の下、静かに打ち寄せる波の音、壊れたタイプライターのような音。そして…一面の、闇。最後に、深い深い絶望感に支配されたのを覚えている。
ー俺はボスに捨てられた。
いや、捨てられた、という言い方すらおこがましいのかもしれない。
元々、彼が自分に執着を示していたわけではないのだ。…全ては自分の思い込みに過ぎなくて。勝手に彼に自分の理想像を押し付けていてー。
…馬鹿だ。
頭が痛かった。
ほどなく、充は理解した。自分が今どうしてここにいるのか。
…俺はボスに殺された。
「俺には時々、何が正しいのか、よくわからなくなるよ」
あの人の残した言葉が頭に焼き付いている。
…俺にだって、わからない。…あんたは、一体何を考えていたんだ。
どっちでもいいなら、きまぐれなら、どうして今までそばにいたんだ。どうして、俺をー呼んだんだ。
疑問は尽きなかったけれど、目の前に答えを返すべき相手が居ない。
充は拳を握り締めた。何だか行き場のない思いが溢れてくるようだった。それは怒りなのか、悲しみなのか、はっきりと区別することが出来ない。けれどたぶんー、この気持ちは、あの人に会わなければ晴らされることはないのだ。
…ボスに、桐山和雄に会わなければ。
彼はどうしているだろうかー?
*****
桐山が思った以上に苦戦していることに、充は驚きを隠せなかった。
暗闇の向こうにようやく見つけた光を辿っていくと、そこには自分が連れて来られた沖木島の風景があった。闇の中にぽっかりと穴が開いたように映し出されたその風景。戸惑っていると、前方に歩く人影を見つけた。
充は目を見開いた。
…ボス!
唇がその人の名を刻む。
彼はひとりで歩いていた。
いつもと変わらぬその様子にほっと胸を撫で下ろしている自分に、充は動揺した。…なぜ彼に対して、腹立たしい気持ちが起こらないのか。
そうしている間にも、充の目は彼の姿を片時も逃すまいと必死に追い続けていた。
…ボスは、ひとりで一体どこまで行くんだ…?
いつも追いかけていた背中が、何だか、ひどく頼りなげなものに見えた。
それから桐山は、たくさん、たくさんのクラスメイトを殺した。
特になんの感慨もなく。ー彼の心の中を覗いたわけではないけれど、そう、充は理解した。彼は、何も感じては居なかった。人の死に対して。いやたぶんー、きっと自分の死すらも、彼は従容と受け入れるのだろう。そんな気がした。
どうして、ボスは「そう」なんだ?
いつからボスは、そうなったんだ?
桐山は一度たりとて充の前で笑顔を見せたことがなかった。
そのことを気に留めつつー、しかし黙認してきたのは、桐山自身が何も言わなかったからだ。桐山が「そう」であるなら、自分は何もかも受け入れるつもりで居た。桐山が「そう」在ることが充にとって全てだった。彼の存在自体が充の理想像で。
けれど。
この空虚さは一体何なのだろう。
充は気づいた。
飲んだくれのくそ親父でも、
いつも陰気な顔をしている頼りない母親でも、
いつも共に泣き笑った桐山ファミリーの者たちでもなく、
今の自分が誰よりも桐山に会いたいのだということに。
なぜなら、彼を放っておけなかったから。
…可笑しかった。
自分を殺した相手なのに。
どうして少しも腹が立たないんだろう。
どうして、ただただ悲しくなるんだろう。
…可笑しいのに。
充は拳を握り締めた。
桐山がショットガンで腹を撃たれー、地面に叩きつけられた時、彼が防弾チョッキを身に纏っていることを知っていたのにー、ひどく胸が痛むのを感じた。
例え彼が痛がるそぶりを、辛そうな様子を見せなくても。
充にはー自分のこと以上に辛かった。
ボス、もう、いいだろ。
もう、動かなくていいだろ?
こっちへおいでよ。
早く、こっちでおいでよ。
もう、わかった、から。
桐山が中川典子の放った銃弾によって、再び地に沈められたときー、充は目を閉じて唇を噛んだ。
****
一面に映りこんだ夕焼けが、紅く燃えて消えていった。
最後に見た風景。
七原秋也ではない、しかし中川典子でもない、川田章吾でもない、誰か。
「…おつかれさま。はやく、こっちへおいで。」
耳に響く聞き覚えのある声と。
広がる花畑。
意識が閉ざされる寸前に自分が捕らえた、痛覚ではない、何か、言い表しがたい感覚。それがこめかみを疼かせた。
「…………」
握り締めていた銃の硬い感触が手から消え失せていた。
防弾チョッキ越しに撃たれた、鈍く重い腹の痛みも(おそらく、打撲か内出血だっただろう)無くなっていた。
代わりに頭がひどく痛む。
「…………」
桐山は瞬きをしてみた。視界は真っ暗で、何も見えない。ただ、自分が地に足を着けていること以外、方向感覚すらおかしくなりそうなくらい、そこには何もなかった。
七原に銃を向けたことは覚えている。…しかし、その後は?
…そうだ。中川典子が自分に銃を向けていたのだ。鼓膜を裂かんばかりの鋭い銃声を、間近に聞いたことを思い出した。
…俺は死んだ。死んだのだ。
…では今、ここに存在している俺は、何だ?
桐山は首を捻った。元々、幽霊の類を信じていたわけではないが、生命活動を停止した後にこうして存在している、この意識に名前をつけるのならば、きっとそれが相応しいのだろうと、思った。
ゲームに優勝することは出来なかった。
帰ることに特に執着があったわけではない。自分が殺されるか、他の生徒を全て殺すか、どちらでも良かった。
どちらでも良かったから、コインにその決断を委ねた。結果、ゲームに乗り、自分は十三名の生徒を殺し、そして、一名の生徒によって殺された。
手を開いたり閉じたりしてみる。疲労感も残っていない。学生服の腹は大きく破れていた。川田章吾に撃たれたものだ。身体の損傷は取り払われていたのに、衣服の汚れのみが残っているのが少し奇妙な気がした。
鉄錆の匂いも染み付いたままだった。自分自身のものではない。浴びた返り血は、殺害した生徒のものだった。
「ボス」
…………?
空耳が聞こえたような気がして、桐山は振り返った。そこには誰も居なかった。
改めて、思考の海に意識を沈ませる。自分が置かれている状況と、体験してきたことごとについて思いを馳せた。
「…おつかれさま。はやく、こっちへおいで。」
…最後に見た、あの声。あの顔。あれはー。
思い出そうとして、こめかみが強く疼いた。ゲームの中で、「あの」感じを覚えたのは二回。最後に撃たれたときと、−それから、充を 殺してその身体に触れた時。
…充。
なぜ充を呼び出してすぐ、自分は充を撃たなかったのだろう。
…話しておきたかった、のだろうか。よくわからない。
しかし全てを話し終えないうちに、充の手が銃にかかったのを見て、自分への攻撃だと判断した。それで、撃った。 結果充は死んだ。人を殺したのは充が初めてではなかった。金井泉を、黒長博を、笹川竜平を殺したあとだった。
ゲームに乗った。ゆえに殺す。
それでおわりなはずだった。
それなのに…まとわりつくような、この感覚は何だろう。
何かが残っていてー、桐山は胸のつかえが取れなかった。
充にー会わなければならないような気がした。
会ってどうしたいのか…それを考えるとずきりと心臓が高鳴る。その理由がよく分からなかった。罪悪感だとか、後悔だとかー、そういった思いが、生まれてきていたらよかったのかもしれないー、けれど、それはなかった。この気持ちに適切な名前をつけることができない。そのことに僅かもどかしさのようなものを覚えた。
元々、自分の内面を言語化することは得意ではなかった。なぜ、そうするのかー?そう問われたなら、「そうしてみようと思ったんだ」と答える。それだけのことだ。理由なんて特になかった。それで今まで困ったことなどなかった。だが、今の自分はー。
「動揺」しているのだー。
心拍数が上がっている。とても珍しいことだ。
「おつかれさま」
「はやく、こっちへおいで」
その声に導かれるのを、自分は望んでいたーのかもしれない。
時々、自分がよく分からなくなる。
あれはー。充、だ。
「おつかれさま、はやく、こっちへおいで、ボス」
自分がこの手で殺めた、充なのだ。
桐山は目を細めた。前方が眩しい。
まばゆい光が目の前に溢れ、そこに自分が捜し求めていた人が立っているのを、見た。
***
「お疲れ様、ボス」
充が手を差し出して、微笑んだ。
「…充」
手を伸ばす。
赤子が母を求めるように。
この腕は、充の導きを必要としていた。
壊れて、止まることを忘れて戦い続けながら、充が止めに来るのをいつしか待っている自分が居た。
「ボスについてなくちゃいけないって、俺、思い込んでたんだ」
「事実だろう」
自嘲気味に呟いた充にそう返すと、僅かに充は口元に笑みを刻んだ。桐山はこめかみが疼くのを感じた。
迎えに来てくれる人をー。
想った時、充の顔しか浮かんでこなかった。その定義に当てはめるのならば。
充は自分にとって…唯一「帰るべき場所」となり得たのかもしれなかった。
誰にも執着を持つことが出来なかったはずの自分にとって、初めての。
「どっちでも…よくは、なかったのかもしれない」
疼くこめかみに指を当て、桐山は目を閉じた。疼きは頭だけに留まらず、全身に何かを伝えようとしているように感じた。
「よくわからない。わからなかったから…」
俺は充を殺したんだよ、そう言い掛けて、押し黙った。つきりと胸が痛んだ。
「…ボスは、苦しんでるみたいに見えるよ」
見かねたように充が呟いた。
「…そうかな?」
「うん。俺にはそう見える」
充の顔を見上げた。
焦燥感に似た胸の息苦しさは収まっていた。
「…もう、いいよ」
「………?」
「俺が思ってるほど、あんたは完璧じゃなかったってことだろ。それで、十分だ」
「………?」
充の言いたいことはよく分からなかった。
「でも俺にとっては、完璧なボスだ。それ以外の何者でもないよ。ボスは俺のひとりだけの王なんだ」
「………」
返すべき言葉が…見つからなかった。
こめかみが痛い。何かが確実に自分を浸食してきている。しかし、それは不快なものではなかった。もう少し、もう少しで、充に何かを伝えられるような、そんな気がした。しかし、それよりも先に充が手を差し伸べた。
「だから、一緒に行こう、ボス」
充の言葉は、桐山が犯した全ての罪をー、罪と認識できなかった罪をー、それから、認識できなかった悲しみを全て、包み込んで受け入れることを示していた。
桐山は充に取られた手を強く握り返した。
充への自分の気持ちと、充からの自分への想いを、肯定する証として。
気がつかないところで存在していた心の中の、ずっと埋められなかった空白がゆっくりと埋められていくのを感じながら。
欠損した肉体を離れたことで初めて認識出来た想いを抱きながら。
闇を照らす、光を纏った充の手は暖かかった。
彼が導く先には光が溢れている。広がる花畑の先にあるものは分からないがー、きっと、その先にも。
おわり
2005/02/16
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