「やっぱこれ難しいのかな」
秋也は音を上げたようにギターを傍らに置いた。しかし決して粗末に扱う事はない。彼にとってどれ位この楽器が大切であるかがわかる。
「…ごめん典子サン、もうちょっとかかりそうだよ」
「ううん。あたしの事は気にしないで」
決まり悪そうに言う秋也をフォローするように、典子は優しく言った。秋也は前回のコンサートの後、典子だけに練習中の曲を披露してくれた。次までに弾きこなせるようにするから、秋也はそう言った。
それが守れなかった事に秋也は少なからず責任を感じているらしい。
典子からすればかえって秋也に気を使わせてしまったようで、申し訳がなかったのだけれど。
暫く沈黙が続いた時に、こんこん、とドアをノックする音が聞こえた。
一瞬二人でびくっと身体を震わせ、顔を見合わせたが、秋也のほうが「どうぞ」と言った。
典子はほんの少し残念に思った。せっかく、秋也とふたりでいられたのに、と。
典子からしてみれば無粋な来訪者は―意外な人物だった。
「桐山」
目を丸くする秋也。不良グループの頭たるこの男と、第二音楽室で顔をあわせることになるとは思いもしなかったのだ。
「邪魔をしたかな?」
桐山和雄はすい、と音も立てずに音楽室に足を踏み入れ、ドアを閉めた。
「いや。何か用なのか?」
「ピアノを弾こうと思って来たんだが、ここを使っているのなら、やめる」
桐山はそう言うと、秋也から視線を外し、典子の方へと向ける。
目が合うと、典子は笑顔で応えた。桐山は無表情でそんな典子を少しの間、じっと見詰めた。
「俺、今日はもういいよ。桐山が使いたいなら帰るよ?」
秋也は他の男子でも敬遠する桐山にも全く臆する事無く言った。こういうところは典子と似ていた。
桐山は視線を秋也に戻して、言った。
「いや。…ピアノはもういい。だが、その楽器…」
桐山は白い指で秋也の傍らに置かれたギターを指差した。
「あ、これ?」
桐山は頷いた。
「それを弾いてみたいんだが。…構わないかな」
秋也はちょっと眉を持ち上げた。桐山が、こんな楽器に興味を示すとはとても思えなかったので。
「…いいけど。桐山は弾いた事あるのか?」
桐山は首を振った。
「いや」
秋也はやっぱり、というふうに笑い、「じゃあ、教えるよ」とギターを片手に立ち上がった。
桐山は頷いて、近づいて来た。
熱心に教える秋也と、真剣に聞き入る桐山。
そのやりとりを見ていた典子は、微笑ましい気持ちになった。
好きな事を一生懸命教えている秋也も、無心に知識を吸収しようとする桐山も。
可愛いなあ…二人とも。
二人とも、子供のようで。
秋也と二人きりの時とはまた違った、幸せな空気が部屋に立ち込めるようであった。
そんなほのぼのとした空気が一変したのは、桐山が改めてギターに手をかけ、演奏を始めた時だった。
初めてだし気楽に弾いてみろよ、と言った秋也も驚きを隠せない様だった。
典子もまた。
桐山はギターを弾いた。
楽譜は、秋也が練習中のもの。
難しいからよせよ、と言ったのを、桐山が弾いてみたいと強く望んだので渡したそれ。
彼は楽譜を完璧に辿り演奏した。
秋也が何度も間違えた箇所でもつまずくことなく。
確かに完璧な演奏。
でも、何か―何かが足りない気がする。
聞き入っていた典子はそんな感想を持った。
ギターを抱える桐山和雄の顔は、いつもと何ら変わらぬ無表情であった。
秋也とは対照的に。
一度も中断される事無く、演奏は終了した。
「まいったな。…桐山、俺自信無くしたよ。初めて弾いた奴に完璧に負けるなんて」
秋也はばつが悪そうに言った。余計な口惜しみは言わない。
「…そうか」
桐山は特に喜ぶでもなく、秋也にギターを返した。もう興味はなくなったとでも言うように。
それから、典子の方を見た。
典子は演奏が終わってもぼんやりとしていたのだが、桐山の視線に気付いて、言った。
「すごかったわ。桐山くん」
「………」
微笑んでそう言った典子を、桐山はじっと見詰めた。
漆黒の硝子玉の様な瞳。
その目は何かを訴えかけてくるようであった。
典子は戸惑ったが、やがて、桐山は演奏の間脱いでいた学生服をさっと袖を通さずに羽織り、立ち上がった。
「桐山、帰るのか」
「ああ」
秋也の問いに一言だけ返すと、桐山和雄は二人に背を向けた。
足音も立てずに、ドアに向かう。ばたん、とやけに大きな音を立ててドアが閉まった。
しん、と静まり返る音楽室。
「…不思議な奴だよな、桐山って」
「…うん」
「あそこまですごいとさ、悔しいって気持ちもなくなるよ」
秋也はほっと溜息をついた。
典子は桐山の消えて行ったドアを見詰めた。
…桐山くん、何か、言いたそうだった。
あの、何の感情も伝えてこない瞳と、とても上手いのに、何か大切なものが欠けている、と思わせる音楽。
それを思い出して、典子もまた溜息をついた。
それから数日後の事。
秋也のコンサートのない日。典子はまっすぐに家に帰ろうと思い、鞄に荷物を仕舞い始めた。
あの日の事はすっかり記憶の奥に埋もれていた。
「中川」
背後から無機質な声がかかる。
一瞬どきっとするのだが、もう大分慣れた。
「桐山くん」
どうしてこのひとは、気配と言うものがまるでないんだろう。
「どうしたの?」
振り向いた先にある無表情に微笑みかける。
桐山が秀麗な眉を僅かばかり動かす。
上品な薄い唇が、静かに言葉を紡ぐ。
「気になっていた事があるんだが」
桐山がこうしてわからない事を典子に尋ねてくるようになってから随分になる。
どうして彼がもっと頭のいい人ではなく自分に聞くのか。
いつも思うことだけれど、答えは出ない。
拒む気もなかったし、別に気にする必要もなかった。
彼に質問されて―答える事は、嫌いではなかった。
「中川。…俺はあの曲を弾いた、だが七原が弾いたものとはどこか違う気がする」
きっとあの時質問したかったのだろう。
「…どんなところか、わからない?」
桐山は無言で頷いた。典子も、思ったことだった。
「桐山くんは―あの時、どんな事を思って演奏したの?」
「特に何も。楽譜に示されたとおりに弾いただけだが」
典子の問いに、桐山は淡々と返す。
「…それだわ」
「…?」
「秋也くん、本当に好きなのよ、音楽」
桐山は理解できない、と言った顔をした。
典子はあたしの考えだけど、と前置きしてから、言った。
「好きなものだから。気持ちを篭めて弾くから。それが聴く人の心に伝わるんだと思うわ」
「…こころ?」
桐山は訝しげに首を捻った。
「上手いとか下手とか、そう言ったのとはまた別よ。…秋也くんだって、すごい上手いけど、気持ちが入ってるから更に素敵に聞こえるんだわ」
そこまで言って、典子は顔を紅くする。今のはさすがにあからさまに秋也を賞賛しすぎただろうか。
でも、典子はそう思って居た。心から、秋也の曲を素晴らしいと。
「…そういうものか」
桐山はそんな典子をじっと見詰めながらぽつりと言った。
それがどこか寂しげなものに聞こえて、典子ははっとした。
「桐山くん?」
「中川。少し、時間はあるかな」
「え?…うん、今日は特に…」
桐山は荷物を持ち直しながら言った。
「良ければ少し、付き合ってくれ」
彼の持っていた荷物はとても大きかった。
彼の目指した先は、第二音楽室だった。
数日前、初めて桐山がギターを弾いた。
典子は桐山が荷物から取り出したものを見て、驚いた。
「桐山くん、それ…」
「中川。聴いてくれるかな」
桐山の手には、ギターがあった。
秋也が持っていたそれと全く同じものが。
桐山が演奏を始めた。
典子は驚いた。
桐山は楽譜なしで弾いている。
曲はこの前と同じもの。
「失恋の曲なんだ」
そう、秋也が言っていた。
奏でられる旋律は、胸に染み入るような、それはそれは素晴らしいものだった。
この前の演奏も素晴らしかったが―それとも全然違う。
切なくて、胸が詰まる様な。…悲しく、美しい曲。
典子は目元がじわりと熱くなるのを感じた。
桐山は弾き続ける。
悲しい旋律を奏でる彼の表情はやはり無表情であった。
「すごかったわ、桐山くん」
典子は軽くハンカチで目元を押さえながら言った。
「…そうか」
桐山は褒められても、特に喜ぶ様子はなかった。
「考えて…弾いてみた」
桐山はそっと目を伏せて、言った。
「中川が言っていたことは正しいな。…少し、わかったような気がする」
「そう。…よかった」
典子は微笑んだ。自分の言葉が、桐山の役に立ったのなら、恥ずかしいけれど嬉しかった。
「素敵な演奏ありがとう。桐山くん」
桐山はそんな典子をじっと見詰めた。
開いたままの窓から風が吹き込み、ばたばたとカーテンが翻る。
六時間目の日。
いつのまにか下校時刻を過ぎていた。
窓から覗ける空には、見事な夕焼けが広がっていた。
まるで燃えているかのような紅。
「…ああ」
桐山は頷いた。
その様子がやはり寂しそうに見えて、少しだけ典子は戸惑ったが―、気にしないことにした。
「またね、桐山くん」
「…中川」
「え?」
帰ろうとして、背を向けたばかりのところを引き止められ、典子はちょっとびっくりしながら桐山を振り返った。
「いや。…何でもない」
桐山は典子をじっと見詰めたまま言った。
彼の端正に整った顔は紅い夕陽に照らされていた。
「またね」
典子は再びそう言って、踵を返した。
桐山とは違い、足音は軽快に音を立てた。
ドアを閉める音は控えめであったけれど。
「………」
桐山和雄はそこに立ち尽くしていた。
わざわざ取り寄せたギターを、手から離す。がん、と音を立ててギターは床に転がった。
もう用の済んだものに、特に執着はなかった。
中川。
今の曲、中川のことだけを考えて弾いたんだ。
その事を、俺は中川に言うべきだったのか。
いや、やはりどうでもいいことだろう。
桐山は上着を羽織った。歩き出す。
床に打ち捨てられたギターには目もくれずに。
おわり
後書き:七典SS「世界でいちばん優しい音楽」の続き。
桐山ファンの私はやはり彼を出張らせてしまうようです。
七原と桐山と典子。三角関係の割りに、あんまり殺伐としてないのが理想。
新←七←典←桐ですね。
見事にみんな一方通行。
誰かと誰かがくっつけば誰かが泣く。
当たり前のことだけどやっぱり切ないですね。
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