最後の女神


「川田くん」
放課後、一人で教室を出ようとしたところを呼び止められた。
誰とも深く関わらないように、ここを卒業する。そう決めた矢先のこと。
「これ。先生が渡し忘れたって、言ってたわ」
ふわりとした感じの女の子だった。

「…ありがとう」
それが、俺と彼女とが交わした、最初の会話。
彼女は今でも覚えているだろうか。





川田章吾は、傍らですやすやと寝息を立てる中川典子を静かに見詰めていた。
七原から彼女を預けられた身としては、命を懸けてでも彼女の身の安全を保たねばならない。
もっとも、託されたためばかりではない。川田は彼女を好ましく思っていた。

「国信くんを、手当てして下さい」
銃弾で足を穿たれながらも、気丈にそう言って見せた彼女の姿は、今でも鮮明に川田の記憶に焼きついていた。
ずいぶんとしっかりした子なのだと思った。

川田が転校直後からクラス内で観察していた限りー特に目を引いたのは、美貌の裏に狂気を秘めた相馬光子、
誇り高く毅然とした千草貴子、統率力に長けた内海幸枝と言った女子たちだった。
しかしなぜかー一見何の特徴も持たぬかに見える彼女、中川典子も。

至極平凡な女子。しかし彼女には、人を包み込み癒すような、不思議な包容力があるようだ。

プログラムという異常な状況の中、昂ぶり続ける神経を宥め、鎮めてくれるのは、他でもない、
彼女という存在。
川田は少し眩しい気がした。

暫く眺めていると、典子が身じろいだ。目を覚ましたようだ。
「…ん…」
「気がついたか」
幾度か瞬きをし、典子は身を起こした。
「あたし…」
「もう少し、休んでたほうがいいぞ。あんまり動いちゃ傷に障るからな」
「秋也くん…まだ戻ってきてない?」
「ああ」

川田が一言答えると、悲しげな顔をして肩を落とす。
先ほどから、目を覚ますたびに彼女は七原の身を案じた。
恐らくは自分の怪我のことなどよりもずっと。
彼女の頭の中には七原のことしかないのだろう。
川田はかすかに笑った。

「典子サンは、強いな」
「え?」
「何だかんだ言ってちゃんと信じてるんだろう。七原を」
「………」
典子は顔を紅くして俯いた。
彼女が一途に七原を想っていることは、随分と以前から知っていた。
このクラスに馴染みの薄い自分にもわかるくらいに、彼女は七原に夢中だった。
確か、こんな感じだったのだ。
誰かを想うと言う事は。

「ーなあ、典子サン」
「ーえ?」
「クッキー、いらないって言ったろ。あれ、やせ我慢だったんだ」
突拍子もない話題に驚いてだろう。典子はその大きな目をさらに大きくして、此方を見詰めてきた。
「ここを出たらーその、いつでもいい。また焼いてくれないか」
視線をそっと伏せて、川田は言った。
少し明るい話題にしようとして言ったことなのだけれどーだいたいは本音だった。
「…うん」

柔らかい笑みを浮かべて、典子は頷いた。
それを見た川田の胸に、ふわりと温かいものがこみ上げる。
無意識に口の端がつり上がった。
やはり落ち着けた。…彼女と一緒に居ると。
ーいいカップルに見えたんだ。
七原のことを応援してやるつもりがー少しだけ、その気持ちが揺らいだのは、黙っておこう。


生きてここを出る。
段取りは既に頭の中で決まっている。だが、この幸せゲームってやつは、どんなハプニングが起こるかわからない。
ー特に、桐山和雄。あの男の存在は、経験者の川田から見ても相当な脅威となり得た。
あいつだけは、他の誰とも違う。話が通じる相手なんかじゃないんだ。

「ねえ、川田くん」
典子が胸の前で右手を握り締めて、小さな声で、言った。
「桐山くんが、あたしたちの話を聞いてくれるって…そういうことは、ないかしら」

川田は目を丸くした。
誰にも分け隔てなく接する彼女のこと。
他の女子とは違って、もしかすると、桐山とも話したことくらいあるのかもしれない。
自分を恐れずに笑顔を向けてくれたように。
「それは無理だ。あいつはもう、完璧にゲームに乗ってるんだ」
川田は多少意識して低めた声で言った。
「…でも」
「典子サン。考えても仕方ないことだ」
まだ納得できないと言った風な典子に、川田は諭すように続けた。
桐山を想って、彼女が心を痛めるのがー何だか悲しくもあり。
そして少しだけ、妬ましく感じたのかもしれなかった。
大人気ない感情だとは思うけれども。
「あとで、七原が来た時にでも話すよ。…あいつは、普通の人間じゃない」
経験と勘が、あの男は危険だと警告を発している。
分かり合うことは不可能なのだと。

「人間じゃない…」
川田が表情を固くして黙ると、典子はその黒目がちの瞳を潤ませて、呟くように言った。
「それって…とても悲しいことね」

級友をなんの躊躇いもなく殺した桐山に対してさえ、典子はまだ憐憫の情を忘れていないようだった。
お人よしと言い切ってしまうのはたやすい。
だが、このゲームの中で、政府の腐った連中が自分たちから奪おうとしているのは、こうした感情なのではないだろうか。
ぎり、と川田は拳を握り締めた。
そう考えれば、立派に自分もその政府の罠にはまっていることになる。
七原も典子もー自分が失ってしまったものをまだ持っている。
それを、少し羨ましく感じた。
しかし、今は構わない。
ー典子を守って、無事にここから脱出する。七原も一緒に。そう。一緒に。

自分が一年前果たせなかったことをー今度こそは。


典子のほうに視線をやった。そしてすぐに伏せた。
彼女を見た時ーどうしてか、亡くした想い人の顔を思い出した。
典子と七原が二人で居るのを見た時。
幸せに笑えていた頃を思い出した。

ふ、と川田の口元に自嘲じみた笑みが浮かんだ。
ーここを出ても、俺はもうまともな人間になれない。
典子サンみたいに、心から笑えない。
「川田くん」
「ん?…どうした?」
考え事をしていた最中に呼ばれたので、さすがに少しびっくりして川田は典子を見た。
典子の目は、やっぱり潤んだままだった。
「川田くんー約束よ」
典子の白くて繊細な手が、そっと川田の骨ばった手に重ねられた。
「生きてー生きてここから出ましょう。ね?」
必死そうな声だった。



どうか生きて。






桐山の一撃に穿たれた箇所が、ずきずきと疼いては血を吐き出している。
もう俺はー長くは持たない。
あと、もう少しだったのに。どうしてだろう。
どうして、うまく行かないんだろう。


約束、守れそうにない。ごめんな。
典子サン。


眩暈がして、倒れこみそうになるのを必死に堪えながら、川田は足を踏み出した。
ー典子サンは、やっぱり、強かったな。


正面を見詰めた。
きっかり二メートル先、恐ろしく冷たい目をして、自分たちを脅かしていた男が四肢を投げ出し倒れていた。
白い頬を伝う鮮血。致命傷であるのは明らかであった。

川田でも仕留められなかった桐山を、典子は倒した。
七原を守ろうとしてだろう。
おそらく、さすがの桐山も、彼女が自分を撃つなどということは予想していなかったに違いない。
桐山和雄は末期に何を想ったのだろうか。
ひどく穏やかな顔をしているように見えた。
ーお前も、典子さんに撃たれて満足だったか…?
ふと、そう問いかけたい気持ちにすらなった。

息が、苦しくなってきた。
川田は、重い腕を持ち上げて、銃を倒れた桐山の頭部に向けた。
死人に鞭打つ真似。
意味のない事だって、わかってる。
でも俺は、少しだって典子サンに癒えない傷を背負わせて逝きたくないんだ。

せめて、最後に。
俺は典子さんが背負う痛みを少しでも軽くして逝きたい。
ー優しい典子サンはきっと、俺がこんな事をしても、ずっと自分を責め続けて行くのだろうけど。


ー頼むから。
俺のようには、ならないでくれ。

…笑っていて。


おわり


後書き

典子さん総受け推進小説その一。川田×典子。
桐典の次に好きなカップリングですね。
川田さんが妙に子供っぽくなってしまいました。