Powder Snow -粉雪-
 
 久しぶりに「会おう」と誘ったのは、充のほうからだった。
免許を取って最初に、桐山を乗せたいと思った。それだけは、誰にも譲る気は無かった。

 正直のところ、桐山を後ろに乗せるのにはちょっと不安があった。髪をカラーリングして、おまけにパーマも当て、背も平均より高い充は、実年齢よりだいぶ上に見られることが多かったから、パクられる心配はしていなかったが(そもそも、もう免許を持っているのだから)―運転の技能については、いまひとつ自信が持て無かったので。

 もちろん、今日までの間にたっぷり練習は積んだ。そのうち一回、少ししくじって横転してしまい、膝と腕を擦りむいたのだが、同じ失敗は二度と繰り返さない。そのつもりだった。

 今まで、どんなことに対してもそういった用心深さを忘れないように心がけてきた。しかし、肝心なところで―不安に襲われることは幾度もあった。
 傍からは自信に満ち溢れ、信念に沿って行動しているように見られ―実際そう生きてきたつもりだけれど。これは、元々の自分の性格だろうと、考える。

 だからこそ、何の迷いも無く、物事に取り組み成功を収める桐山を眩しいものと感じたのかもしれない。

 ―ボス。ボスに、会いたい。
 …構わない。

 久々に話した、受話器の向こうの桐山の声は以前と少しも変わらず、穏やかなものだった。
 ボスも忙しいだろうから―勝手にそう思い込んで、会えないと決め付けていた自分が少し滑稽になったほど、桐山はあっさりと「約束」を受け入れた。
 
 ◆ ◇ ◆

 人を待たせることは好きではなかったし、待つことも嫌いだった。
 充の六歳の誕生日の夜のことだった。ケーキを用意して、母親と並んで、父親の帰りを待っていたことがあった。
 しかし彼はその日、ついに帰ってこなかった。息子の誕生日を忘れるくらい、彼はギャンブルに熱中していたので。母親はただ泣くばかりで、徐々に感情が冷えていく息子を慰める余裕を持たなかった。不安な気持ちは充の胸の中にしまわれた。

 待ち続ける不安を知っているからこそ、尚更。平気で遅刻してくるヤツの神経が充には理解できなかった。 

 ◆ ◇ ◆

 それにも関わらず、よりにもよって桐山と約束した今日、充は遅刻をした。

 バイトが長引いてしまい、約束した時刻を過ぎたことを心から悔やんだ。ただでさえ、 桐山を待たせることは自分のポリシーに反するのに―こんなに寒い日に限って。
 せいいっぱい、充は待ち合わせ場所に向けて走っていた。少しでも早く、桐山のもとにたどり着きたかった。

 ◆ ◇ ◆

 人ごみでにぎわう街、彼がいる「そこ」だけ、別の空間のように静かに見えた。凍るように冷えた空気の中、桐山和雄はじっとそこに佇んでいた。さらさらと音を立てそうな黒髪が風にあおられて揺れた。

 「ボス!」
 自分が呼ぶとき、桐山はいつも一度じっと此方を見てから、応えてくれる。「充。」
 久しぶりに会ったけれど、彼は少しも変わらなかった。いや、少しだけ、背が伸びたかもしれない。目線が近づいたような気がする。

 「寒かったろ」
 「…いや」
 桐山の冷えた手を充は自分の手で包み込んだ。
 恥ずかしい感覚は持たなかった。男同士だからとか―そういったしがらみを越えた神聖な何かを桐山には感じていたから。桐山も特に拒んだことはなかったし。
 冷えてはいたけれど、しっとりと吸い付くように滑らかな、桐山の手。細くて長い指。充はそれを温めようと、ぎゅっと握り締めた。
 桐山は黙って充を見つめているだけだった。

 ◆ ◇ ◆

 中学を卒業してから、充は、桐山とは別の高校に進んだ。

 県立の工業高校だ。充の成績ではそこの合格も危うかった。林田に頼み込んで参考書と問題集を選んでもらい、受験前に必死で勉強した。
 生きてきた中で一番勉強したかもしれない。「高校くらいは出ておく」自分で決めたことだ。親も特に何も意見を押し付けては来なかった。公立の学費なら何とかしてやる、機嫌のいいときに父親がそう言った。

 分かっていたことだけれど―桐山のいない学校生活がひどく退屈に思えた。
崇拝の対象となる彼の存在の喪失は、少なからず充に影響を与えた。周りの者たちは、桐山に比べればいかにも凡俗で、尊敬の対象とはなり得なかったのである。一時期は荒れて、買わなくてもいい喧嘩を買ったりした。

 いっそ高校をやめてしまおうかと思ったことすらある。同じ高校に進んだ笹川と、入学式のその日に叩きのめした同級生が自分を慕ってついてきたけれど、桐山不在の寂しさを埋められる者などだれもいなかった。

 桐山のほうは充が予想したとおり、私立の進学校に入学した。出席日数は多分ぜんぜん足りていなかったが、大企業の社長の息子というコネと、並外れた彼の頭脳が合格を可能にしたのだろう。

 一般入学試験で、桐山は全教科満点を取ったらしい。
 これは、直接彼から聞いたことではなく、普段彼を恐れてまったく注意しない生活指導の教師が、ここぞとばかりに城岩中学校の優秀さを売り込むためだろう、いろいろなところでペラペラと喋り捲っていたから耳に入ってきたことだ。
 住む世界が違うことはわかりきっているから、彼と進路のことで相談したことなど一度もなかった。

 再会までに時間が出来てしまったのは、桐山から未だに独立できない自分を少し格好悪いものに感じたからだ。…だが、いろいろ考えてみて、やっぱり自分には桐山が必要だということが、痛いほどわかった。

 ◆ ◇ ◆

 桐山が、口元が寒いのか、そっと首もとのマフラーを引き上げた。水色のマフラー。
中学三年のときに、充が桐山にプレゼントしたものだ。
 あのころは知り合いのつてでこっそりバイトをさせてもらっていても、手に入る金は今に比べればほんのささやかなものだった。それで、安物しか買えなかったのだが、桐山は冬になると必ずこれを使ってくれている。
 桐山の立場ならば―これより高価なものなどいくらでも手に入ってくるだろうと思うのに。

 次の誕生日には、新しく、もっと良い物をプレゼントしたいと思った。そのために生活費以外の貯金もしている。最近、時給が上がったのだ。

 やりたいことがわからなくて、しかし義務で仕方なく行っている学校よりも、自分が働いた分だけ認められ、報酬が手に入るアルバイトのほうに充は居心地のよさを覚えた。
 自分と同じように世間の常識からは外れているけれど、ある程度のポリシーを持って生きている仲間たちとも出会えた。みんな年上だったけれど。

 「沼井、お前人をひっぱる才能とかあるんじゃないか。中学のころリーダーとかやってなかったか」
 レジしめの作業をしているときに、店長が話を持ちかけてきた。充は、手を休めずに答えた。
 「冗談。俺は参謀っすよ、参謀」
 「へえ。意外だな。お前が仕事以外で人の命令聞いてたなんて」
 「その人だけは特別だったんだよ。俺の全身全霊かけて尊敬できる人だから」
 「なるほどな。じゃあ、俺のことも全身全霊かけて、尊敬して仕事に取り組むように」
 「それは無理っすね」
 「はは。正直なやつだな」
 店長は笑って充をどつき、そのあとまかないにとびきり美味い肉じゃがを作ってくれた。

 ◆ ◇ ◆

 桐山にいつでも頼りきりだったわけではない。
 桐山は確かに、いろいろなことを、知っていた。充が「やってみてよ」と言ったことに対していつも期待以上のことをしてくれる―すごい男だった。だがしかし、充が「何か」を持ちかけなければ、桐山はいつでも黙って、ただ、静かに佇んでいるだけだった。

 ―なあ、いつか、ボスは俺なんかが届かない場所に、行っちまうんだろ?俺よりいろいろなことを知っているやつらに会ったら。

 何度か弱音を吐きかけたことがあった。無論、口には出さなかった。そんなみっともないこと言えるわけない。
 彼が知らないことごとを自分は教えられる立場にあって。
 桐山が自分の思うとおりに変わって行ってくれることが充にとってはとても嬉しいことだった。
 桐山を独り占めできたような気分になっていた。

 だからこそ、怖かった。
 桐山が、自分が進めてきたことごとを、いつか捨ててしまうことが。


 充は頭の中で、迷いを振り切ろうとした。けれど、出来なかった。

 桐山を後ろに乗せ、充はなだらかな道路を走り続けていた。バイクは、一人で乗る分には気楽でいい。けれど、二人というのはどうにも不安定でいけない。原付の免許を取ったときには、笹川がせがんでも乗せてやらなかったくらいだ。

 桐山がきまぐれで腕を離してしまうのではないか、ふとそんな不安が胸をよぎった。どうしてなのかはわからない。

 「ボス、しっかりつかまっててな。…俺から、離れないで、な」
 「…あぁ」

 ごくごく簡潔な桐山の応答があった。充の背から胸に回された、筋肉はそれなりについていても細い腕が、僅か力を籠めてしがみついてきたような気がした。

 ◆ ◇ ◆

 目的地の城岩海岸に辿り付いた時には、はらはらと粉雪が舞っていた。大降りではなかったので、そこにあった古ぼけたベンチに座った。桐山が座る前に、充は丁寧にハンカチで水気をふき取ってやった。

 天気が良い夜なら、とても綺麗な月が見える場所。たまに、むしゃくしゃしたときなどは、ひとりでここまでバイクを飛ばした。
 桐山を連れてきたのは、彼が興味を持ったからだ。「バイクに乗ってみたい」財閥子息の彼には、叶えられない願いだろう。桐山の家が許さなかったとしても、自分がその希望を叶えるくらいは良いと思った。

 「ボス、寒くない?」
 「いや。」
 充は桐山を抱き寄せた。冷たい身体。自分の体温が高いことをありがたく思うのは、冬にこうして桐山を抱きしめ、暖められるときくらいだ。

 「なんか、安心したよ」
 「?」
 「ボス、全然変わってない。…中学生のころから。変わってたら、どうしようかと思ってたよ」
 元々自分とは住む世界の違う桐山が、更に違う世界しか知らないような奴らが集まる場所に行ったのだ。変わっているのが当然と思っていたのに。

 桐山はトレードマークのオールバックを変えていなかった。
 不良なんて全くいないだろう進学校では、相当目立つだろうに。

 暫く黙っていた桐山が、そのとき急にぎゅっと袖を掴んできたので、驚いた。 
 「充。俺は―変わらなくてはいけなかったんだ」
 「え?」
 充は桐山の顔を覗き込んだ。彼が何を言い出したのか、よくわからなかった。
 「俺には、ときどき、何が正しいのか、よくわからなくなるよ。」
 彼の澄んだ瞳が、暗闇の中で静かに光っていた。充には彼の顔が、どこか哀しそうなものに、見えた。

 「義父の言うとおり、今まで行動してきた。…他のやり方は知らなかった。だが、充が勧めた様々なことは、義父の教えに反していたにもかかわらず、俺はそれを悪くないと、思った」
 「俺がいろいろやらせたことで―ボスに迷惑かけてたんだな」
 「いや。…俺が望んで従ったことだ、義父も、特に何も言わなかったよ」
 桐山は降りしきる雪の中、空を見上げた。雪に負けないくらい白い桐山の首が見えた。
 「義父が俺に求めていることは、優秀な成績を収め、帝国大学に行き、そして会社を継ぐこと、それだけだ。」

 桐山が自分のことをこんなに話すのは、以前なら考えられないことだった。

 だからこそ充は、桐山の抱える心の隙間を知らなかった。彼は、どこまでも完璧な人間で―自分みたいなちっぽけな悩みを抱えている人間だとは思わなかったから。
 「充。俺は充みたいになりたかった。充が目指しているような人間に」
 話してみなければ―わからなかった。

 充は何から口に出していいのかよくわからなくなった。

 頭に浮かんだことはたくさんある。
 俺はボスが目指すような価値のあるやつなんかじゃない。
 ボスみたいに勉強も出来ないし、金だって自分が生きていくので精一杯だ。ボスみたいに、絶対的な強さも、持ってない。
 でも、だからこそ―

 「ボスは、ボスだろ?」
 桐山の手を自分の手で包み込んだ。今度は桐山が驚いたようだった。

 「ボスがボスじゃなかったら、会えなかったよ」
 普段の口下手な自分からは考えられないくらい、すらすらと言葉が出てきた。
 「変わらなくていいんだ」
 もう一度言った。「変わらなくてもいいよ。」目を丸くする桐山の頭を、強く掻き抱いて、言った。
 「俺は、ボスが好きだから」

 桐山のオールバックがほつれていたのを、直してやるどころか、逆にくしゃくしゃと撫でて崩した。

 「…充…」
 何故、とでも言いたげな表情の桐山に充は微笑みかけた。こうしたものでしばらなくとも―「桐山」は「桐山」であることに、どうして気がつかなかったのだろう。

 本当は、もっと早くに、ちゃんと話しておくべきだったのかもしれない。
 「俺はボスを信じてる。だからもっともっと―知りたいんだ。ボスのこと。」
 前髪がすっかり降りた桐山に、中学一年生のころのあどけなさはなかった。女性的な美貌に、男らしい精悍さが加わっていた。

 「苦しいなら、俺に言って。…ボスの力になりたい」
 桐山は変わっていないわけではなかった。変わっていないとすれば、それはきっと、彼が抱える空虚な部分だった。

 それから、充はいつも逃げ続けていた。触れるのを躊躇っていた。そのことで、桐山が苦しみ続けていたかもしれないのに。

 ◆ ◇ ◆

 「充。…俺は…」
 桐山が、少し詰まったような声を出したのに、充は気がついた。桐山はこめかみに手を触れていた。
 「俺は、変わることが出来なかった。どうしたら、変われるのか、わからなかった」
 長い睫が伏せられた。
 「だがずっと。…充は俺を求めた。そんな人間は今までいなかったから…」
 桐山の告白に感情は篭もらない。しかしそれがかえって、充には哀しそうなものに見えた。
 「俺には、ときどき、何が正しいのか、よくわからなくなるんだ」

 桐山がその綺麗な睫を再び伏せた。僅かに眉を寄せる。整ったその顔に、僅か苦痛のような表情が浮かんだ。その桐山の顔を見ていると、胸がぎゅっと締め付けられるような気持ちになった。

 「何が正しいかなんて、わからなくてもいいんだ」
 …桐山が抱える闇は、空虚は、充が考えているよりもずっとずっと重くて、底知れないものだったかもしれない。
 以前は、それに触れるのが、とても怖かった。だから気がつかない振りをしていた。
 「ボスが俺の大切な人だってことだけわかってよ。…ボスが必要なんだ。」
 でも、今は違う。
 全部ではなくとも、充は桐山の苦しさを分かりたいと思った。桐山が、苦しんでいるのなら。
 「…大好きなんだ」
 もう、彼の「空虚」を怖いとは感じなかった。
 その空虚も含めて、「桐山」は「桐山」なのだから。

 ◆ ◇ ◆

 言葉でいくら言っても伝わらないような気がして、充は腕を伸ばした。桐山を抱き寄せた。彼の頭を自分の胸に掻き抱いた。
 こうされていると落ち着く気がする、桐山は以前静かな表情でそんなことを言っていたから。

 昔の俺はまだ子どもで。
 ボスに俺の理想を押し付けてた。
 こうあって欲しいって。

 でもそれはボスの気持ちを考えてなかった。
 ボスは、辛かったのかもしれないのに。
 ボスに完璧であることを俺は期待しすぎていたんだ。
 

 「俺に本当に…そんな価値があるのかな?」
言葉とは裏腹に、まったく表情を変えない桐山はしかし、じっと充に向けているその黒い瞳をわずか、うるませているようにも見えた。彼は真剣そのものなのだ。同情を求めているとか、そういった理由ではなくて―純粋に充の答えを、必要としている。

 「俺が保障するよ」
 充は桐山の額に優しく口づけを落とした。唇を離したあと、彼に微笑みかけた。

 「安心してよ。他のどんなやつが何て言ったって、俺は俺が正しいと信じたことしか信じない。」
 「…そうだったな」

 桐山がほんの僅かに俯いて、こめかみを触った。少し間を置いた後、彼はぽつりと言った。
 「充。…ありがとう」

 桐山が充のコートの袖を掴んで引き寄せた。桐山が、少し伸びをして充の唇に、そっと自分のそれを重ねた。充は目を閉じて彼の唇の温かさを味わった。

 愛してる。

 ボスの足りない部分も含めて、俺は、愛してるよ。
 だから俺がボスに必要とされてると、思わせて。

 「…俺には、充が必要なんだ」

 充は桐山を抱きしめた。桐山の腕が、そっと充の背中に回された。
 長い年月をかけたけれど―これでようやく―桐山とひとつになれたのだ、と思った。


 おわり



2006/02/14

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