その日は真夏日だった。
5月の終わりとは思えないほどの蒸し暑さ。2日続いた雨が上がった空は、眩しいほどに澄み切っていた。
「こんにちは」
ドアを開けると、まず明るい声でそう言い、佳澄は桐山に微笑みかけた。
桐山は微笑み返す事は無かったが、ゆっくりと上半身を起こして、頷いて見せた。
佳澄がこうして桐山を見舞いに来るのは2回目のことだった。プログラム終了から1週間の時が経過していた。
桐山は少し、その形良い眉を持ち上げた。
「月村、もう半袖を着ているんだな」
「今日は、ちょっと暑いから」
佳澄は今日、白い夏物のワンピースを着ていた。コットン素材の裾は膝を覆い隠すくらいの長さだった。
「月村は、白が似合うな」
「え?」
「制服以外の姿を、初めて見た。」
桐山は相変わらずの無表情で言った。
「ありがとう」
佳澄は自分の選択に心の中で拍手をした。桐山に会いに来る前に、どんな服を着ていこうか随分と悩んだのだ。
桐山はそんな事は勿論知らなかった。至極素直に感想を述べたに過ぎなかった。
それでも、佳澄にとっては何よりも嬉しい言葉だった。
佳澄は視線を桐山のベッドの脇に置かれた花瓶へと移した。そこには、この前佳澄が持って来た花が飾られていた。
飾ってくれたんだ…
佳澄は嬉しくなった。
少し派手な花を選んでしまったと後悔して居たのだが、こうして飾られているのを見ると、寂しかった病室が、どこか明るくなった様に見えて。
◆ ◇ ◆
この前とは違い、時間を気にする必要はなかった。佳澄が一言二言話し掛ければ、桐山は淡々と返す。
最初こそ、会話が弾まないのに佳澄は焦りを感じたが、そのうちに慣れた。
元々桐山は、あまり喋らない方だった。自分のことも、他人のことも。
暫く話していなかったので、その感覚を取り戻すのに時間がかかった。いつも友達の話を聞くほうが多い佳澄は、桐山にこうして話を聞いてもらうことがどこか新鮮で、心地よかったことを思い出した。
「…桐山くん。りんごとか、剥こうか」
友達のお見舞いに行くのだと伝えた時、母親が「持って行きなさい」と言って渡してくれた果物が数個、鞄に入っていたのを思い出し、佳澄は桐山にそう訊いた。
しかし桐山は静かに首を振った。
「食べ物は今は駄目だと言われている」
重度の打撲で内臓が傷ついているんだ、桐山は淡々とそう言った。
「あ…そうなんだ。ごめん」
桐山の言葉に、佳澄はしゅんとした。
自分が親切と思ってやったことも、全てがそのまま桐山にとって良いことではないことに気がついた。
「別に、謝る事はないんじゃないか?」
桐山は不思議そうな顔をして、首を傾げた。
その腕には相変わらず点滴が繋がっていた。
「じゃあ、飲み物とかも駄目なの?」
「ああ。喉を湿らす程度なら良いんだが」
そう言った桐山の唇は、ひどく荒れていた。かさかさに渇いて、紫色に染まりかけている。
「桐山くん、唇、痛くない?」
佳澄が尋ねると、桐山は、「ああ。少し」表情を変えずに言った。
佳澄にはそんな桐山の様子が痛々しく見えて、胸を痛めた。やがて、ひらめいたことを口に出した。
「ちょっと待ってて」
佳澄は鞄の中を少しの間探ると、ひとつの紙袋を取り出し、丁寧にそれを開けた。
「桐山くん、はい、これ。あ、買って来たばっかりだから大丈夫だよ」
目を丸くする桐山に、佳澄は袋から取り出したリップクリームを差し出して、言った。 本当は、自分の唇が痛かったから、病院の入り口のコンビニで買ったものだったのだが。
「良かったら、使って」
桐山はじっと差し出されたリップクリームを見詰めていたが、やがてその視線を佳澄に向けた。
何か言いたげなその様子に佳澄はちょっとだけ戸惑ったが、すぐに気付いた。
桐山は利き腕に点滴を打たれていたのだ。
「私が…塗っていいの?」
「ああ、頼む」
すぐ目の前に桐山のとても綺麗な顔がある。
こんな風に桐山にリップを塗ってあげる事になるなんて、思いもしなかった。
できる限りそっとリップを動かしながら、佳澄は胸が高鳴るのを感じていた。
桐山は相変わらずの無表情で、佳澄のなすがままに任せていた。
「はい。これでいいかな」
「ありがとう」
リップを塗り終わった後の桐山の唇は、大分潤って、先程よりずっと安心して見られるようになった。ほっとした。
「月村。これは何の香りだ?」
「ん?バニラだよ」
佳澄が答えると、桐山はそうか、と頷いた。そして、そっと目を伏せた。
佳澄の持ってきたリップの香りは、桐山の記憶を引き出した。
甘い香り。
甘いバニラの香り。
半袖の―。
そのとき、桐山は過去の記憶を反芻した。
◆ ◇ ◆
去年の夏、終業式帰りの事だった。夏服を着た充に連れられて、桐山は小さな駄菓子屋へとやってきた。充が買ったのは2本のアイスで、そのうちの1本を自分にくれた。 腰の曲がった老婆が、しわしわの手で充の差し出した小銭を受け取るのを見た。
「冷たいから、うまいっすよ。ボス」
「棒のアイスなんて、初めて見たよ」
好奇心を刺激され、桐山はその包みを開け、じっと観察した。そのアイスがバニラ味であることを理解した。
「え?…そうなの?でも、すげえ美味いから」
ちょっと照れた様にはにかみ、充は言った。
「ボスに食べてほしいなって思ってたんだ。たまには、こういうのもいいだろうと思って」
「…………」
溶けてしまう前に、それをちろりと舐めてみた。甘く冷たい味がゆっくりと広がった。
「悪くないな、充」
去年の夏。
生きていた充。
今年。
死んで、いなくなった充。
自分が殺した。ゆえに充はここにいない。頭では理解していたはずなのに。
思考の隅に追いやられていた記憶をふと、思い出した。桐山はこめかみに鈍い疼きを覚えた。
◆ ◇ ◆
「桐山くん?」
二回呼んで、やっと気がついたのか、桐山ははっとした様に瞬きをした。
「大丈夫?顔色悪いよ?」
心配そうに自分を見ている佳澄に、桐山は辛そうな声で言った。
「…苦しい」
佳澄は驚いた。たくさんしゃべったせいで、傷が悪化してしまったのかも知れないと思った。
「桐山くん、今看護婦さん呼ぶから!」
慌ててナースコールを押そうとした。しかし、桐山は首を振ってそれを制した。
「いい」
「でも…」
「そういう、痛みじゃないんだ」
桐山は左手で胸を押さえ、小さな声で言った。
「傷の痛みじゃない事は分かる。…だが、苦しい」
桐山は僅かに肩を上下させていた。
「大丈夫?」
佳澄は心配になって、桐山の顔を覗き込んで訊いた。
「俺にはよくわからないよ。月村」
桐山は目を閉じて、眉を寄せた。苦痛に耐えるかのように。
「わからない?…桐山くん、何が…」
佳澄が尋ねても、桐山は答えなかった。
◆ ◇ ◆
少しして、桐山はいつも通りの無表情に戻った。佳澄は桐山が落ち着くのを待って、 また会話を再開した。
少しでも明るい話題にしようと佳澄は必死になった。
―思い出しちゃったんだ、きっと。
何となく、佳澄には桐山の様子がおかしい理由がわかった。
プログラムがどれほど過酷であるかは、伝え聞いたのみではあったが、知っていた。
そんな恐ろしい場所に行って、そしてたったひとり残されて帰って来たのだ、桐山は。
もちろん佳澄は、桐山がプログラム中進んで多くの生徒の命を奪った事を知らなかった。
コインの裏表でクラスメイトと自分の運命を決めてしまった事も。
「早く治って、ごはん食べられるようになるといいね」
佳澄は優しい声で桐山に言った。佳澄が願うのは、桐山が元通り元気になることだった。
「栄養は摂れているから、特に困っては居ないが」
淡々と桐山は言った。
佳澄は僅かに虚を突かれた様な顔をした。しかし、すぐに反論が浮かんだ。
「美味しいもの食べられないなんてすごい損してるよ、桐山くん。一生に食べられる食事の回数って決まってるんだから」
静かな表情で、じっと自分を見ている桐山に言い聞かせるように。
桐山はそんな佳澄の言葉に、少しだけ驚いた様だったが、佳澄とは対照的に、おっとりした調子で言った。
「月村は面白い事を言うんだな」
「あ、そ、そうかな」
反応してもらえた事が嬉しくて、佳澄は僅かに頬を染めながら、言った。
「ああ、考えた事がなかった」
桐山はどこか遠くを見ている様な目で、言った。
「俺は損をしているんだな」
桐山の表情は相変わらず静かだった。しかしとても寂しそうな顔にも見えた。
「…桐山くん」
佳澄は何かを言いかけ、やめた。今度は、言うべき言葉が見つからなかった。
二人の間を静かな時間が流れた。
「あ、もうこんな時間」
遮光カーテンの隙間から、うっすらと紅い光が零れ始めたのに気付き、佳澄は慌てた様に言った。
「帰るのか?」
「うん。あんまり遅いと怒られるからね」
「そうか」
佳澄は荷物を纏め、身支度を整え始めた。桐山はそんな佳澄を黙って見詰めていたが、やがてぽつりと言った。
「また、来るか?」
「え?」
「ここに居ても何もする事がないんだ」
佳澄は少し、驚いた様な顔で桐山を見た。そこにはやはり無表情の桐山の顔があった。
「うん、桐山くんが元気になるまでずっと来るよ!」
佳澄はせいいっぱい、笑顔で言った。
「…そうか」
桐山は佳澄をまたじっと見詰めた。無表情なのに、いつもとは少し様子の違う桐山に 佳澄は戸惑った。
桐山の澄んだ瞳に宿る光が、僅かに揺れていた。
「ありがとう」
暫くの沈黙の後、桐山はそう静かな声で言った。
「またね」
軽く手を振り、佳澄は病室のドアに手をかけた。桐山はそんな佳澄にああ、と頷き、しかしその視線をそっと自分の枕元に落として、言った。
「月村、これは…」
「ん?良いよ、桐山くんにあげるよ」
佳澄はそう言ってもう一度微笑むと、ドアを開けて病室を後にした。
◆ ◇ ◆
佳澄の居なくなった静かな病室。桐山はひとりきりで横たわって、目を閉じた。
俺は損をしてるのかもしれない。
俺は何も感じなかった。
感じた事が、なかった。
何に対しても。何も。
だが、「あのこと」を思い出すと、理解し難い苦しさに襲われた。自分が手にかけた生徒達の事。
何も感じなかった。殺すことに。
どっちでも良かった筈だったのに。
分からなかった。そんな自分の事が。
桐山はうっすらと目を開け、枕元に残されたものを見た。リップクリームだった。まだほんのり甘いバニラの香りが残っていた。
…また来ると、言っていたな。
桐山は目を細めた。
佳澄の話を聞いているのは悪くないと思った。ひとりで居ると、どうしても考えてしまうから。
左手でそっと唇に触れた。
次はいつ来るだろうか。
つづく
2006/02/05
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