第6話・意思

 夢を見ていた。
あのゲームから帰ってきてから、さまざまな夢を見続けていた。それは俺が辿って来た、過去の記憶をなぞったものがほとんどだった。
 それまでも、夢を見てはいたのだろうが、朝、目覚める前に忘れているものが大部分だったし、意味を成さないものだった。

 見覚えのある顔が変わる変わる出て来た。父、担当の医者、年配のメイド、執事、担当教官、家庭教師、充、月岡、黒長、笹川…。
 俺が物心ついてから辿ってきた事象の中から、ピックアップされた場面が浮かんでは消えた。

 俺は一度見たものを忘れると言う事はまず無い。そう言う風に造り上げられたから。

 だがこれは初めて、見る。
 真っ暗な闇の中、俺は誰かの声を聴いていた。
 俺の記憶の中には…少なくともこんな出来事は無かった筈だ。
 これは、一体何の記憶なんだ?
 …思い出せない。

 ◆ ◇ ◆

 「―ですから息子さんを救うことは出来ます。ただし、それ相応の報酬は頂きますがね」
 低い声…少し年配の男の声。
 「いくらでも出します!私にはもう…その子しかいないんです…」
 掠れた弱々しい声…若い男の声。

 何故か俺はその声を知っている気がした。


 ◆ ◇ ◆

 かちゃり。
 桐山の病室のドアが、静かに開かれた。
 すっと中に入って来たのは、背の高い医師。桐山の担当医、青山だった。

 彼は注意深く周りをうかがった後、桐山の眠る、ベッドのすぐわきまで忍び寄った。ひどく憔悴しきったような表情で、手にしていた荷物から何やら取り出した。
 注射器の中には無色透明な液体が満たされていた。

 青山はぶるぶると震える左の手を、桐山の布団に伸ばしかけ―幾度も躊躇うようにひっこめかけてはまた伸ばした。
 目の前で、何も知らず、静かに寝息を立てる桐山の端正に整った寝顔は、中学生という年齢相応に幼く、あまりに無垢だった。

 青山はとうとう声を上げた。…耐え切れなかった。
 「許してくれ…」
 彼の声は、その手同様震えていた。
 「君にこんな事をするなんて、やはり出来ない…」

 その時、ベッドに横たわった桐山がぱっちりと目を開けた。
 桐山は重たげな瞼を幾度か瞬きさせると、透き通ったガラス玉の様な瞳で、医師をじっと見詰めた。
 そして、青山の右手に握られた注射器を目にすると、ほんの僅かに眉を上げたが、すぐに戻した。
 「…誰かに、頼まれたんだな」
 追求するその声は14歳の子どもらしからぬ、無機質なものだった。青山はびくっとその大きな身体を震わせた。
 桐山は青山の様子と言葉のみで、注射器の中に満たされたものの正体を察したようだった。
 桐山はベッドからゆっくりと身を起こすと、あくまで冷静な様子で医師に問うた。
 「教えてくれないか。誰に頼まれたのか」
 その声からは怒りや恐怖といった感情は微塵も感じられなかった。
 青山は、もはや隠し立てする必要もない、と判断した。…口を開きかけ、しかしまた躊躇するように押し黙ると言った動作を数回繰り返した後、静かに告げた。
 「君の、お父さんだ」
 人形のように虚ろだった桐山の瞳が、一瞬だけ大きく見開かれた。
 「…父が」
 残酷な真実を、幼いころから見守ってきたわが子のような桐山につきつけることに、青山は身が裂けそうな罪悪感を味わっていた。

 ◆ ◇ ◆

 「君のお父さんだ」
 医師からその言葉を聞いた時、きん、と桐山の腹の内側から冷たい痛みが響いた。
 それは確かに傷ついた腹の内側から響いてくる痛みには違いなかったが、いつもとは少し異なった痛みのように思われた。
 もう大分良くなっていた傷が―疼いた。
 痛みに呼応するようにちりっとこめかみにも鈍い疼きが走った。最近ひどく間隔が狭まってきているように思う。
 ふいにさっきの佳澄の言葉を思い出した。

 「 桐山くんが生きてるってだけで嬉しいって人も居るんだから」
 …月村。どうやら少し違ったようだよ。

 父さんは―俺が帰って来ても嬉しく無かったんだ。

 桐山はそれを悲しい事だとは思わなかった。そう感じること自体、彼には出来なかった。
 少し考えれば、理解できることだった。自分は父の本当の息子ではない。幾らでも取替えの利く存在なのだ。
 今まで、父の命ずるままに、ただ生きて来た。
 その父が、望んだ事ならば。

 桐山はそっと目を伏せ、そんな事に思考を巡らせた後、やがて自分の前で注射器を構えて立ち尽くしている青山をじっと見据えて、言った。

 「…少しだけ、待ってくれないかな」
 「―え?」
 動揺する青山の前で、ベッドの脇に残されたパスケースを、手を伸ばして桐山は取り上げた。
 「…これを…月村が取りに来るかも知れないから」
 そう言った桐山の表情は信じられないほど穏やかだった。
 「それが済んだら、俺が自分でやる。…それでも構わないだろう?」
 彼の瞳に、迷いなど微塵も無かった。

 ◆ ◇ ◆

 廊下側から、ばたばたと、せわしない足音が近づいて来た。立ち尽くしていた青山ははっとしたように瞬きし、桐山を見た。桐山は僅かにそれに頷いた。

 がちゃり。
 ノック無しで桐山の病室のドアが開かれた。

 「桐山くん!ごめん私忘れ物…!」
 病室に滑り込むようにして入って来た佳澄はそう大きな声で言ってから、桐山の傍らに居る青山の姿に気付いたらしく、「あ…ごめんなさい」と、今度は小さな声で言った。 慌てての事とはいえ、ここが病院である事を忘れていた反省からだろう。

 「ああ。…月村。そろそろ来るんじゃないかと思っていた」
 桐山は青山と会話をする前と何ら変わらぬ態度で、そんな佳澄を迎えた。
 少なくとも表面上はそう見えた。
 青山の見守る前で、桐山はすっとパスケースを佳澄の方に差し出した。
 「あ、ありがと。ごめんね」
 そう言ってパスケースを受け取ろうとした佳澄の手を、桐山はぎゅっと握った。

 「…桐山くん?」
 「月村。少し…こうさせていてくれないか」
 驚く佳澄に、桐山はごく平坦なトーンの声で言った。
 「頼む。…少しでいいんだ」
 「あ…私は、全然良いけど…」
 佳澄は、ここにきた、本来の目的をすっかり忘れてしまったらしい。顔を真っ赤にして言った。
 その佳澄を桐山は一度、じっと見詰めてから、静かな声で言った。

 「もうここに来る必要はない」
 「―え?」
 佳澄はびっくりしたように顔を上げて桐山を見た。そして―何を誤解してか、ひどく嬉しそうな顔をして、言った。
 「じゃあ、退院できるんだ、桐山くん、よかった…」
 「いや」
 桐山は首を振った。
 そして…あくまで淡々と、笑顔の佳澄に告げた。
 「俺は、これから死ぬ事になる」

 それを聞いた途端、佳澄の表情が凍りついた。
 「せっかく色々貰ったのに、すまないな」
 桐山はそんな佳澄の様子に構う事無く、あくまで冷静に言葉を継いだ。
 「父は俺の死を望んだ。だから死んで見るのも悪くないと思う」

 佳澄の顔から笑みが消え、みるみる青ざめていくのが分かった。
 「…望んだって…」
 少し遅れて返って来た佳澄の声は震えていた。
 完璧に自分の理解の範疇を越えた桐山の言葉に、佳澄は動揺を隠せない様だった。
 桐山はそんな佳澄に、ただ淡々と告げた。
 「父は俺を殺そうとしたんだよ」

 桐山の口にする言葉には嘘偽りなど無かった。全てが真実だった。
 それは、ひどく残酷な真実であったかもしれない。

 しかし桐山自身には―その事を告げることで佳澄に同情を求めているつもりなど微塵もなく、ただ尋ねられたから答えた、その程度の認識しかなかった。
 桐山の心のずっと深いところで傷ついた分は、体の不調となって表れ始めていたのだが、本人はそれと自覚する事は出来なかった。

 その事実が―それを知った佳澄にどのような気持ちを抱かせるかも。

 「いやだ…」
 「…月村?」
 桐山は驚いた。佳澄の瞳から涙がどっと溢れ出した。
 さっきまで笑っていた佳澄が―泣いている。
 「そんなの嫌だ…私は、生きてて欲しいもん」
 ベッドの上で半身を起こしている桐山の背中に手を回して、佳澄はぎゅっと桐山を抱きしめた。
 それでまた桐山は驚いた。
 佳澄に抱きしめられたのは、初めてのことだった。
 …いや、それどころか、人に抱きしめられたという記憶が桐山にはなかった。

 「私は桐山くんが帰って来てくれて嬉しかったのに…そんな事、言わないでよ…」
 桐山の胸元で、とうとう佳澄はぽろぽろと泣き出した。
 ここに初めて来た時とは少し違った泣き方。
 顔を顰めて、全身で悲しみを表現している。肩が震えた。
 「…月村、どうして泣くんだ?」
 桐山は、ここで佳澄と再会した日と同じ質問を口にした。
 「そんなに泣いていては、苦しいんじゃないか?」
 桐山は困った様に佳澄の背中を撫ぜた。
 「俺が言った事…何か気に障ったのかな?」
 佳澄の涙の原因が桐山には理解できなかった。
 ただ、分かるのは―佳澄の涙の原因が、自分の発した言葉にあるらしいと言う事だった。
 桐山は佳澄の手をぎゅっと握りながら―立ち尽くすしかなかった。


 ◆ ◇ ◆


 「和雄くん」
 少しして、困惑している桐山を見かねたように、青山が声をかけた。それで佳澄ははっとした様に桐山から身を離した。ただその手は桐山に取られたままだった。
 桐山は青山を、じっと見詰めた。殺意は感じられない。…最初から。

 この医師は人前で桐山を呼ぶ時は「桐山くん」で、2人になった時は「和雄くん」と呼ぶおかしな習性を持つ男だった。
 彼の真意が測れず、訝しげに首を傾げる桐山に、医師は胸元から古ぼけた財布を取り出し、桐山に差し出した。
 「このお金を君にあげよう。今すぐここから逃げるんだ」
 桐山は驚いた様に眉を持ち上げた。隣にいる佳澄は何のことやらわからず、困惑しているようだった。

 ◆ ◇ ◆


 「私だって、君が生きて帰って来た時は嬉しかった。ずっと…君の治療をして来たんだから」
 青山はどこか遠くを見るような視線を桐山に向けた。
 「君が小さい時から、お父さんの受けさせた教育の中で、大怪我をしてここに来るたび…やるせなかったよ。ずっと」
 彼は回想していた。
 瀕死の父から、今よりずっと小さい、生まれたばかりの桐山を託されたこと。
 「特殊教育」と称し、桐山の父がまだ幼いうちから桐山に過酷な身体訓練を強いてきたこと。
 そのために桐山が、何回も手術が必要なほどの重傷を負い―よくこの病院に運び込まれ手当てを受けた事。
 まだ若かった頃、そんな桐山の父の振る舞いに憤りを覚え直接意見をしたところ―、「壊れても治らなかったら、代わりを使えばいい」そう冷たくあしらわれてしまった事。
 情けなくも、その圧力に押され、その後はただ従容とした態度を取らざるを得なくなったことを。
 「今は君を助けたい。君に生きていて欲しいんだ」
 青山は一度息を飲んでから、今度ははっきりとそう言った。それはまぎれもなく、彼自身の「意思」だった。


 ◆ ◇ ◆


 桐山は静かな表情で、目の前にいる青山の告白を聞いた。何だか以前より白髪が増えたんじゃないか…ふと、そんな事を思った。
 そしてまた別の考えに行き着き、疑問をそのまま口に出した。
 「だが、父の命令に背いたら…」
 「構わない。私には妻も子供も居ないし…失うものが在るとすれば…それはこの地位と、命だけだ。…もう今はそれも惜しくない」
 桐山の言葉を遮るようにして、青山はそう言い放った。
 そして、少しだけ目を細めた。
 桐山と―傍らに居る佳澄とを交互に見て、青山は穏やかな笑みを浮かべた。
 「逃げなさい。…その女の子のためにも」

 長身に見合う大きさの青山の手から、桐山は財布を受け取った。
 「…ありがとう。先生」
 桐山は特に表情を変えずにそう言い―すっとベッドから立ち上がった。
 ただ、もう一度じっと青山を見詰めた。
 青山はそれに応えるように頷いて見せた。彼の目には僅かに光るものが宿っていた。


 ◆ ◇ ◆


 桐山と青山のやりとりを、固唾を飲んで見守っていた佳澄は、桐山に手を引かれ、びっくりしたように彼を見上げた。
 桐山はあくまで簡潔に、佳澄にその意思を伝えた。
 「月村、城岩へ帰ろう」
 「―え?」
 「月村はとりあえず家に帰るんだ」
 佳澄ははっとした様に桐山を見詰めた。
 「で、でも―私は…」
 そんな佳澄の不安を察してだろうか、桐山は心なしか穏やかな調子で言った。
 「後の事は…戻ってから考える。心配は要らない」


 ◆ ◇ ◆


 桐山はどんどん歩き出していた。病室を出て、階段を下る。早足の桐山に手を引かれ、佳澄は慌てて歩幅を合わせるのがやっとだった。
 「桐山くん…」
 佳澄はまだ泣きそうな表情を崩さぬままだった。
 先ほど「死んでみるのも悪くない」と言った桐山の声からは、なんの不安も恐怖も感じられなくて。
 ―目の前の桐山は本当に、それを実行してしまいそうな気がして。
 それはひとまず危険から逃れた今でも、佳澄の心を曇らせていた。
 桐山は一段一段を幾らか早い足どりで下っていった。不安から、思わずぎゅっと桐山の手を握りしめた佳澄の頭上から、やや遅れて―静かな声が降って来た。
 「生きてみるのも悪くない」


 つづく


2006/02/07